第三章 人口の変遷身延町の人口は、昭和15年(1940)までは漸次増加しているが、以後は漸次減少の傾向を示している。人口増減の変遷には、町の自然環境、あるいは社会事情等幾多の要因があると思われる。これ等の要因がどのように作用し、どうように変化したかを資料を基礎に分析して見ることにした。第一節 甲斐国志による人口の記録一、文化年間における人口身延町全地域の人口についての記録として残っているものは甲斐国志である。甲斐国志村里部による当時の戸数人口は次に示す表1の通りである。表1 戸数人口集計表 甲斐国志による(1814)
上表1は文化11年(1814)のもので、今より155年前にあたる。当時の村名は、大部分大字として現在残っている。この表から次のような考察ができる。 下山地区は、町内人口の22.9パーセントを占め、穴山氏の城下町としてまた駿州路の伝馬宿として栄え、農地も広く古くから発展していたことが推察される。 身延地区は、町内人口の30パーセントを占め、身延山久遠寺、大野山本遠寺等があり門前町として栄え、また広い寺領を耕作するため多くの人が生活し、昔から宗教の町として峡南地方の中心となっていたことと思われる。 豊岡地区は、町内人口の18.6パーセントを占め、大城川・相又川の流域・清子の段丘・横根・中村・光子沢等の小台地の耕作や、広い山林の管理などして生活していたものと思われる。 大河内地区は、古くから栄えていたという帯金をはじめとして上下八木沢・丸滝・角打・和田・上下大島等は主として富士川流域を農耕し、大垈・椿草里・大崩・樋之上等は山間傾斜地の畑作、林業等で生活していたものと思われる。 二、当時の門前町身延甲斐国志で明らかなように、約78ヘクタールという山間に、堂塔・僧坊・坊舎が比較的大きい密度で点在し、167人の僧侶と202人の下男が生活していたので、坊舎に宿泊する信者の数も相当多かったことと思われる。また門前には民戸が312戸もあり、1,217人が生活していて、当時としてこのような大きな集落は町内の他の地には見られない。民戸の人達は、農業・寺仕事・参拝客の接待などして生活していたことと思われる。現在の上町・仲町・橘町・元町・清住町等には、その家並み等に当時の面影が残っている。 |