第二節 人口の変遷一、明治以降の町の人口について明治以降の町の人口の変遷については、表2でわかるように、富国強兵・殖産興業・産めよ増やせよの国策に従って、下山・身延・豊岡・大河内の各地区とも、人口は漸次増加し、明治5年(1872)に比べて、富士身延鉄道の開通した大正9年(1920)には、各地区とも約1.5倍の人口となった。その後富士身延鉄道の全線開通と、昭和12年(1937)の日本軽金属株式会社波木井発電所、塩之沢取入口ダム工事、送水路建設工事などのために、身延・大河内地区の人口は激増した。特に大河内地区は昭和10年に比べて15年には約2倍となっている。大河内地区は昭和15年、身延・豊岡地区は昭和22年、下山地区は昭和20年をピークとして、町内の人口は漸減の一途をたどっている。表2 地区・部落別世帯数・人口集計表 (明治初年戸籍・国勢調査・町役場統計による)
二、各部落の状況全町の人口の変遷については前述のようであるが、各部落について表1表2を基に考えると、古い時代には家中心で先祖伝来の田畑・山林を相続して、地味な営農に努力をつづけ、山奥の部落にも相当の戸数があり、人口も漸次増加していた。交通機関の発達と第二次大戦後の社会変化は、町内においても辺地から、生活のしやすい場所へと人口の移動がなされた。目立った様子を地区別に述べると次の様である。○下山地区 上沢部落は昭和30年に53世帯を332人であったのが、40年には89世帯、395人となり、他の部落が減少しているのに、163人も増加している。波高島駅に近く富山橋の開通と広い平地がこの部落の様子を変えたのである。砂利採集・ブロック工場・その他工場誘致、新早川橋(昭和43年完工)開通などにより、この部落の人口は今後も増加するものと思われる。 ○身延地区 町役場・県土木事務所・高等学校・小中学校・電報電話局・東電営業所・身延山病院等のある梅平二区部落は明治5年に梅平一・二区合わせて48世帯210人であったのが、昭和30年には98世帯454人、40年には約2倍の170世帯、629人と増加している。門内の上町・仲町・橘町・元町等の部落は世帯数はあまり変化なく旅館商店の営業をしているが、人口は減少している。波木井一区・塩沢部落は世帯数、人口とも減少している。 ○豊岡地区 石器や土器の発掘される清子・大久保部落・駿州安倍郡への間道であり静岡県へ通ずる林道工事の行なわれている大城部落、その他昔栄えた各部落も、昭和30年から40年の10年間に船原部落が一世帯、人口9名増加したのみで、他は減少している。 ○大河内地区 角打部落の世帯数、人口は急激に増加し、明治5年に世帯数39・人口178人が昭和30年には世帯数230戸・人口1,074人で約6倍となり、他の部落では見られない現象である。身延橋から身延駅まで商店街が続き、駅裏には町営住宅・国鉄・山梨交通・東電等の住宅が建ち並らんでいる。丸滝部落も明治の頃より世帯・人口とも2倍以上となり、なお増加しつつある。鉄道の開通が人の生活に与えた影響がはっきりとうかがわれる。身延町の玄関口・早川町・南アルプスへの出入口として、身延駅周辺は発展して来ている。大垈・椿草里・大崩等の部落は広い山林を所有して、植林や管理に当っている世帯を除いては、山を降りつつあって、特に大垈部落では明治5年24世帯・136人であったのが、昭和40年には9世帯41人となっている。この減少は一つには明治22年当時の川向部落が富里村(現下部町)に分村したためでもある。その他の部落も、昭和30年以後の経済高度成長政策によって、人口は都市へ流出しつつある。 |