二、役場庁舎建設について
新しい役場庁舎の建設は新町建設計画の筆頭に挙げられ、昭和30年度中に身延町梅平高等学校の付近に建設することとされていた。新庁舎は合併新町発足の象徴として、その早期建設が当時の町政最大の課題とされたのである。しかし建設用地、財源の両面で行きづまり、31年5月までは全く手さぐりの状態で推移した。
用地は当初、梅平のダイヤモンド工場敷地、高校官舎敷地、身延中学校北側などが話題にのぼり、交渉も行なわれたが、いずれも不調に終り、漸(ようや)く昭和31年5月17日の臨時町議会において、梅平地内波木井橋南側、13.5アール(依田好勝所有地)の買収および13.6アール(藤田富士弥所有地)の貸借契約が議決され、一方財源も自治庁より、5,000,000円の起債が許可されるにいたり建設が軌道に乗ったのである。
建築委員会は既に30年11月3日に、町当局と議員全員によって構成されており、31年3月には次の常任委員が選任された。
町長 |
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佐野祥盛 |
議長 |
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佐野為雄 副議長 伊藤喜則 |
議員 |
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小笠原実 藤田喜太郎 小笠原清保 佐野里見 藤田国治 斉藤一郎 |
当初の建築予算は1,500万円(鉄筋コンクリート2階地下1階、建坪624.8平方メートル)で、起債500万円のほか身延山より500万円の寄付を仰ぐこととし、議会の議決をもって5月30日陳情書を提出した。設計は富士宮市の白井輝男が担当、8月2日に正式設計を確認、8月20日県内外の建設業者23社によって競争入札が行なわれた結果、地元身延町大島の田中倉義(扶桑建設株式会社)が1,196万円の最低価格で落札8月25日工事契約を締結、27日地鎮祭を行ない着工した。工期は31年12月15日と定められ、年内完成を至上命令として工事はすべり出したのである。
しかしながら、この工事は当初より難航に難航を重ねた。時恰(あたか)もスエズ動乱に遭遇し、鉄材の大幅値上りと入手困難に見舞われ、加えて請負業者の資金力、装備の貧弱によって工事はしばしば中断、停頓し、ある時は工事金の前払い、または鉄材を町で買って請負業者に現物支給するなどの方策が取られたが工事は遅々として進まず、31年末に至るもコンクリート打込みさえ終らない仕末で、起債の認可期限も迫り、建設委員会では契約解除の声さえ出るに至った。
業者は工事費の増額を強く要求、32年2月から4月までほとんど工事は進まず、4月26日に至りやっと3階までコンクリート打ちが終了した。5月下旬、町と業者の間で654万円の工事費増額という協議が成立し、1,850万円の工事総額を6月18日の議会で承認、その後は工事も順調にすすんだ。7月より常任監督として議員の藤田喜太郎が当たり、工事を監督督励した。
スチールサッシの不足等のためその後も一時工事の停滞はあったが、8月末日を期限として工事を急いだ結果、1ヵ月遅れの9月25日検収を終り、27日引越しを行なった。
引渡しの最終段階にも、業者が欠損、坪数のくい違い、保証金の返却等を理由として引渡しを拒否し、裁判に訴えるという態度に出て、町との間に険悪な対立が生じたが、一部増工事、材料費増額等で和解成立、事なきを得たが、工期の遅れること約9ヵ月、トラブルにトラブルを重ねた難工事は、町民の話題と非難の的となり、新聞紙上にも書き立てられた。10月27日の大安日を卜(ぼく)して落成式が行なわれ、白亜の新庁舎は合併後2年9ヵ月ぶりにして完成したわけである。
  
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