三、中央道北回り問題について
昭和32年4月16日に、議員提案で国会において成立した「国土開発縦貫自動車道建設法」は、沼津市の田中清一(総合国土計画研究所長)の提唱した国土開発中央自動車道プランを具現化したものとして、関係地域の住民の大きな期待をもって迎えられた。
この法律第3条には、中央道の主たる通過地として
(起点) |
東京都−神奈川相模湖町付近−富士吉田市付近−静岡県安倍郡井川村付近−飯田市付近−中津川市付近−小牧市付近−大津市付近−京都市付近 |
が挙げられ、別図の如く身延町付近を必然的に通過する計画であった。
しかるに、昭和38年5月17日、東京都の虎ノ門共済会館において開催された中央自動車道推進委員会においてこの路線を北回りに変更することが決定されたので、ここに町をあげての反対運動の火ぶたが切って落されるのである。
当時の事情を昭和38年5月の町広報第23号及び39年5月の第32号から再録してみよう。
1、中央自動車道予定路線変更に反対を陳情(町広報第32号)
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中央自動車道は昭和二十八年静岡県沼津市富士製作所社長、現参議院議員田中清一氏の総合国土開発計画に基づいて東京−神戸間を結ぶ本土を縦貫する高速自動車道が発案されました。
東京を起点として富士吉田−身延−小牧−神戸と予定路線もでき上り、昭和三十二年国ではこの中央自動車道を法律によって建設することを議決しました。
この中央道の早期着工と完成を推進するため、関係都県知事と市町村長によって構成されたのが、中央自動車道推進委員会であります。
この推進委員会は、中央道の早期実現のため政府及び建設省に対し促進方を活発に展開しております。たまたま去る五月十七日、東京赤坂虎ノ門共済会館講堂において第六回総会が開催されました。青木委員長は経過報告中突如独自の考え方による富士吉田から身延−小牧間の赤石山系を通過する予定線を次の理由によって甲府−諏訪−小牧と(北廻り)変更する方針を明らかにされました。
「赤石ルートは長大なトンネルを必要とするが、技術的にはベンチレーションを始め問題はない。ただ、建設費で一千億高くなるのである。中央道が国会で問題となった当時は、東京−神戸間を結ぶ唯一の自動車道ということであったが、今では東海道高速自動車道ができたほか、全国に六つの高速自動車道案が登場するに至り、同じ東京−神戸間を連絡するのに二つの自動車道は必要でないという議論が起るに至ったので、経費を安く上げることが決定的な要素となるに至った。」と、情勢の大きな変化について予定路線を北廻りに変更するいくつか有利な報告を列挙して、総会はこれを議題として質疑に入ったのであるが、池田塩山市長は、「早期実現のためにはルートの変更も止むを得ない。今後の措置は青木委員長に一任し一日も早く中央道を実現させるべきである」と、委員長報告を諒承する賛成意見を述べる。
これに対し身延町長は、
「中央道が赤石ルートに決定するまでには建設官僚との間に多くの問題はあったが、協議に協議を重ねようやく今日の実現の第一歩をふみだし、法律できめられたこの中央道の確定路線を変更するということは、山梨県の南方地域にある我々住民としては絶対に反対をするものであります。どうか法の精神に則って忠実に推進するよう私は要望いたします。」と、反対の態度を表明し、議場は緊張した空気につつまれる。続いて横内韮崎市長は、塩山市長の意見を支持して山梨県から賛否両論が出たので、天野知事は特に発言をもとめて、「山梨県の意見が対立したことは誠に申訳ない、この問題は一日も早く中央道を開通させることが目的であるのでこの際、個々の利害を超越して青木委員長の意見に賛成し一切を一任したい。」と、山梨県の立場を強調する。駒ケ根市長、並びに小牧市長もこれに賛成の意見をのべたので会場の空気は早期実現のためにはルートの変更もいたし方ない、との方向に傾くに至り議長より「身延の町長さんさえ賛成下されば満場一致という非常に強力な意志決定になると思いますが、いかがでしょうか。」
身延町長再度発言して
「少数否決ということにしていただきたい」と、あくまでも反対を主張して譲らないので、
天野知事再び起って
「身延の町長さんが町民のために頑張っておられることはごもっともと思います。しかしこの道路は国をあげての道路です。法律と違っているではないかというお説もわかりますが、この際は多数の意見が賛成であるから山梨県のルート争いのために、中央道開通という大目的を達成できないようなことになっては困るから山梨県南部の開発については如何なる要求をも考慮する(具体的に道路計画を発表)から大乗見地に立って賛成せられたい」と説き、漸くルートをめぐる議論は原案賛成にこぎつけて総会は終了しました。
町長は、五月二十二日臨時町議会を招集、町議会は満場一致で予定路線反対の決議をし、直ちに決議文は関係県知事及び各市町村長宛発送されました。
六月十四日、町長は町議会全議員とともに本県選出国会議員を訪問、強く反対陳情を展開致しました。また時を同じくし静岡県においても県を挙げて北廻り反対、六月二十八日には井川村村長以下議会議員六名来庁、本町議会と慎重に今後の打合わせをいたしました。
七月二日、峡南沿線関係町村は、本町を中心に両郡七ヵ町村連署をもって町村長、議会の代表団を組織し、静岡県井川村と合同、東京プリンスホテルにおいて静岡県選出衆参両院議員二二名の応援を得て建設省道路局長に北廻り絶対反対を陳情する。政府においては予定路線は変更しない。北廻りについては新たな計画を樹てる確答を得ました。本町将来の発展のため中央自動車道は予定路線確保と実現に邁進しなければならないと思います。
中央道路線変更反対に大挙陳情
(昭和38.6広報みのぶ23号より)
中央道が富士吉田より身延を通り赤石山系を貫いて静岡の井川村を経てゆく法定路線が、昨春以来政治的に甲府諏訪を迂回する北廻線に変更せんとする不当な企みのため、これに対し本町が絶対反対を唱えてきたことについては既に広報みのぶ第二三号でご承知のとおりでありますが、その後も県選出代議士を通じて政府国会に反対運動を続けて参りました。
ところが去る四月三日建設省は「四月七日に国土開発縦貫自動車道建設審議会を開いて予定路線を審議する」と発表し新聞は政府が北廻線の改正を急いでいると報じましたので、町長は急きょ四月五日議員協議会の招集を求め中央道路線をめぐる重大な事態の処決について議会の意志をあおぎました。意見の一致するところ「現段階においては断呼反対することが町民の負託に応えることである」と決定議会全員で国会に陳情することになり、翌六日町長を先頭に議会、執行部総数三〇人「中央道路線変更反対」の白だすきに二本ののぼり旗を立てて上京しました。
議員会館で鈴木強参議院議員の協力と激励を受けたのち堀内一雄代議士と面談しましたが、同氏はさきごろ声明した路線変更の考え方を主張し「大勢は変更であるのでもっぱら地元の見送り案をとるのが得策である」と強調されました。他の県選出代議士は不在で面談もできず、早速予め打ち合わせた静岡の井川村議会と合流し七班に分れ、衆参両議院七一六名を個々に訪問、別掲「国会議員諸先生に訴う」の陳情文を手渡し、路線変更反対の協力を懇請しました。代議士の中にはこれに同調されるものもかなりありました。
翌七日は十時より開かれる前記建設審議会のあるヒルトンホテルに出向き審議委員の唯一の県選出金丸徳重代議士と面接その奮斗をお願いしましたが、審議は多勢に無勢建設相は「路線変更によりあての外れた地域には考慮する」という金丸代議士に対する答弁に終り変更案が決定されてしまいました。最終的にはやがて国会の審議にまたねばなりませんが大勢の不利はいなめない現実であります。
しかしながら本町の今日までの反対運動は、国土開発という中央道の立法精神に違うことであり町発展の百年の大計につながることでありますので敗れても悔を千歳に残さないことと信じております。まだ静岡側の強力な反対もありますので問題の行方はわかりませんが、今後も慎重に町のよりよき利益を期して進んでゆかねばならないと考えております。
〝国会議員諸先生に訴う〟
中央自動車道変更反対について
昭和三十二年四月十六日国会議員全員の超党派的共同提案により国土開発自動車道建設法が成立し、東京より富士吉田さらに南アルプス赤石山系を横断して小牧市に至る〝夢の路線〟が法律化され実現へ第一歩を踏みだした時、我々地元民はもとより全国民がこの壮大なる国土開発道路計画を歓呼して迎えたのであります。
然るに以来七年を経た今日この法定路線を長野県諏訪市を経由する北廻りに変更すべく法の改正をあえてしようとする動きが強まっていることは誠に遺憾にたえません。
未開発の広大なる国土中央部を最短距離により縦貫し尨大なる自然観光産業資源に陽の目をあて一大開発を目指すべきこの中央道路線が、既設路線に沿って六〇余キロも迂回し単なる一級国道的なものにとってかえられることは、この道路にかけられた国民の夢を奪うものであり立法の趣旨に反するものであって特に我々関係地元民としては断じて承服しがたいものであります。
変更論の根拠として工費の増大技術的困難等が掲げられておりますが、むしろあらゆる悪条件を克服してこの雄大なる国土開発を実現することこそ国家百年の大計であろうと確信いたします。それ故にこそ全国会議員の発議によってこの画期的な路線法が成立したのであります。
一部の政治的理由や利害によって既に確定している路線法を変更してまで安易な途に進まんとするが如きは国民としても断じて容認できない処であります。
何卒あくまで国土開発という立法の根本精神を堅持し中央道既定路線の変更に反対していただきたく、本日山梨静岡関係町村民の総意を代表して上京し、ここに国会議員諸先生に陳情申し上げる次第です。何卒右の趣旨をご賢察下されよろしくご協力を賜わりますようお願い申し上げます。
昭和三十九年四月六日
山梨静岡中央自動車道路線変更反対期成同盟 代表者 身延町長 佐野為雄
まさに孤軍奮闘、刀折れ矢玉尽きた敗戦に追い込まれたわけだが、いよいよ北廻り案を議決する参議院建設常任委員会が昭和三十九年六月九日開かれるに当たり、当時本県選出の安田敏雄参議院議員が常任委員長の椅子にあり、本町の激しい反対運動に同情し、利害関係者として西沢長野県知事とともに本町の佐野町長を委員会に招き、発言の機会を与えたのである。町長は河野建設相以下政府委員、与野党委員を前にして堂々路線変更反対の趣旨を述べ、所信を貫ぬいた態度は誠に立派であった。
結局この日の建設常任委員会は全会一致で変更案を可決、十二日の本会議で成立、公布され身延町の反対運動は終止符を打たれたわけである。
参議院建設常任委員会議事録より(昭和39年6月9日)
○田中一君(全国区・社会党)
身延の町長さんにお伺いいたします。手元に、いまあなたのほうから出ている変更反対の理由が示されておりますが、ちょっと、短いから読み上げていただけませんか。
○参考人(佐野為雄君)
朗読する前に、一言感謝とおわびを申し上げたいと思います。今回参議院建設委員会の先生方には、国政きわめて御多忙の中にも、中央道の重大性にかんがみまして、実地踏査見聞をなしていただきましたことを厚くお礼を申し上げる次第でございます。
一応私どもは、この中央道の重大性は、敗戦によりまして国土がきわめて狭隘になった、どうかこの狭い地域を開発いたしまして、山岳資源あるいは地下資源、山岳都市、あるいは農村振興、観光方面に、国の一大事業として名実ともに国土の開発をするところに重大の生命があったのでございますが、最近に至りましてにわかに路線の変更が持ち出されたことを聞きまして、まことに残念に思っておるわけでございます。中央道の路線を諏訪市北廻りに変更せんとする一都五県の大多数の賛成者に対しまして、私どもは、これを阻止せんとする山梨県及び静岡県の路線関係町村民は、わずかに十数万にすぎず、まことに九牛の一毛にも足りないという微細なものではありまするが、少なくとも国の政治は、真理を愛し、正義に生き、立法の精神を尊重いたしまして、しかも忠実に運営すべきを確信するものであります。ここに私はあえて昭和三十五年七月二十五日法律第百二十八号をもって公布の中央自動車予定路線を定める法律をあくまでも堅持いたしまして、これが実現を促進するのが当然と考える次第でございます。
申し上げるまでもなく、国土開発縦貫自動車道建設法は、国土の普遍的開発をはかり、画期的な産業の立地振興と国民生活領域の拡大を期するため、昭和三十二年四月、国会議員四三〇名の超党派的共同提案によって制定されました。昭和三十五年七月、この法律に基づく、中央自動車道の予定路線を定める法律が満場一致の賛成を得て制定され中央道は、東京より富士吉田、さらに静岡県井川村付近、すなわち赤石山系を横断して小牧市に至る路線が法律化されまして、実現への第一歩を踏み出したとき、関係市町村民はもとより、全国民がこの壮大なる国土開発道路計画を絶賛し、歓呼いたしまして迎えたわけでございます。
しかるに、それより四ヵ年を経た今日、しかも、中央自動車道は、政府、国会並びに関係各位の格別なる御尽力によりまして、東京−富士吉田間が工事に着手されまして着々とその進捗をされつつあるときに、昨年五月十七日に虎の門会館におきまして開催の中央自動車道建設推進委員会の総会の議事の冒頭に、青木委員長先生は、突如として、私は昨年九月、十月、二ヵ月にわたる欧米の道路視察にかんがみ、中央道は、投資の効率、経費節減のために、路線を北廻りに変更すべきであり、この問題は、何人より要求されたものでもなければ、また指示を受けたものでもない、と突然的に発言をなされたものでありますが、これに対し、直ちに北廻り地域の関係者より、すべて青木委員長に一任の緊急動議が出され、無情にも大多数をもって決定されたのであります。私どもは、かかる重大案件が何ら事前の暗示もなく、寝耳に水のごとく発言の瞬間時において、この重大案件が採択されたことを見たときに、まことに推進委員会の真意を疑い、断じて納得ができなかったのであります。したがいまして、わが身延町は臨時議会を招集いたしまして、議会の決議(別紙にございます)をもって、関係方面に路線変更反対の陳情を続けてまいりましたが、このたびあえてこの法律を改正なされようとされておることはまことに遺憾のきわみでございます。
そもそも本中央道の使命、目的、その性格は、未開発の広大なる国土中央部を最短距離によりまして縦貫し、膨大なる自然、観光、産業、地下資源に日の目を当て、一大開発を目ざすべきこの中央道路線が、既定路線に沿って六〇余キロも迂回する諏訪経由に路線を変更し、単なる一級国道的なものに取ってかえられたことは、この中央道にかけられた国民の希望を奪うものであり、立法の趣旨に反するものとして、特に現行法によるところの通過地点にある関係町村民は、断じて承服しがたいものがあります。
変更論の根拠としては、工事費の増大、技術的困難等が掲げられておりまするが、赤石山系の長大トンネル工事による施工の困難性と工事費一千億円の超過工事費を要すると申しますが、全国まれに見る地質の悪条件下にある国鉄新幹線の丹那トンネルの工事例から見ましても、現在の長足な進歩をした日本の土木技術をもってすれば、長距離トンネルの建設は憂慮する必要はなく、変更路線の工事に比し一千億円の巨額がかさむことはないことはわかっておるのでございます。
長大トンネルのために排気ガスによって空気が混濁すると申しますが、モンブラントンネル(延長一一・六キロ)、その他外国の例を見ても、わが国の長大トンネルの例を見ましても、排気設備をすることによって、空気混濁による交通不能は絶対ないことがわかるのでございます。
標高一、〇〇〇メートルに近い路面においては冬期氷雪害による交通途絶の憂いがあり技術的に高速道路としての性格を失うと申しますが富士山麓を通過する国道百三十九号線には、標高一、〇〇〇メートルの通過地点があり、中部電力株式会社が建設した畑薙ダムの建設道路には標高九八〇メートルの通過地点があり、また、その他の事例から見ましても冬期交通には支障のないことがわかるのであります。
なお、北廻り線は、既法路線より六十余キロの延長になることがわかります。
既定路線の建設は、北廻り路線によって経費の軽減をはかることにより、最も資源に富み、かつ経済価値も高く、国家的にも最も有利とされているわけでありまして、これらのことは、法律制定前にも十分調査、審議を遂げられ、去る昭和二十九年八月第五回国土開発中央道審議会(会長・建設大臣)におきまして、当時の菊地建設技監の結論どおり、技術的にも可能なものとして、この路線法の決定を見たと信じておりますが、幾多の困難はあるとしても、これを克服して、この雄大なる国土開発を実現することこそ国家百年の大計であるとして、全国会議員が賛成し、この画期的法案が制定されたものと確信するものであります。
第二二回国会における内海建設委員長の法案審査報告によりましても、「国土を縦貫する高速幹線自動車道を開設し、これを幹線とし、これに接続する培養路線約二、五〇〇キロの整備を促進し、その組み合わせにより、国土開発、道路網を形成して、国土の普遍的開発、画期的産業の立地振興及び国民生活領域の拡大をはかることがこの法律の目的である」と説明されているとおりで、実に六〇キロ延長−迂回する北廻り路線に変更するがごときは、幹線と培養線との性格を誤るものであると考えるのであります。
長野県の諏訪、松本地区が新産業都市の指定を受けた関係などにより、高速産業道路を必要とするならば、中央道のバイパスとして別途建設すべきであろうと思うものであります。
国土開発という立法の精神を堅持せられまして、南アルプス山系の開発によりもたらされるところのばく大な恩恵とわが国の繁栄に思いをいたしまして、中央道既定路線は、あくまでも変更することなく、現行法どおりの建設を促進せられんことを衷心よりお願いするものでございます。
○田中一君
私も佐野さんの意見と同意見であります。これは、二時四〇分ころから建設大臣も来るといいますから、建設大臣に質問するときあなたに対する質問はあとでいたしますけれども、何といっても、現行法に賛成する住民が十六万、東京都その他関係の地域の方々は一、〇〇〇万をこえております。こういうことから見ても、いまの佐野さんの御発言は、なかなか目的貫徹には困難があろうと思うのです。そこで、私はここで卒直に聞いておきたいのは、この法律の制定に非常に大きな情熱を傾けて成立をはかった一人として、事ここにおいては、多数で負けます。ことに私は非常に不満に思っているのは、当時の政府は、まだまだ自衛熱の増強とか、あるいは賠償問題とか、いろんな問題を財政上抱いておりましてなかなかできなかった。それをあえて三国会にわたって、この法律を提案し、促進したものでありますけれども、今日の財政事情は、当時と非常に大きく変わっております。伸びております。ただこれに賛成した、いまあなたが言っておるように四百何十名という衆議院の絶対過半数の方々、これはもう、これに参加しなかったのは、当時の閣僚政務次官等が参加しないで、あとみんな参加しております。しかし、それが議員提案の形でなされた法律案を、今回突如として政府提案という形に置きかえられ、ましてや、いま伺ってみると同僚の青木一男議員が理事長をしておるという中央自動車道建設推進委員会ですか、こういうものから提案されたものだということになりますと、はなはだ、今回法律の改正案が提案されたまでの経緯の中には不純なものが多分にあるように感ずるわけなんです。いま青木君もおらない、だれもおらないから、参考人として青木君を呼んで一ぺん伺ってみなければならぬと思うのですが、非常に不純なものがあるように印象づけられますから、おそらく私ばかりではございません。ここにおる同僚の議員ことごとくそう感ずるだろうと思います。しかしながら、この段階に来ると、十分にこれは議事録へ残して、今後百年二百年のわれわれ次の世代のためにも究明しておかなければならぬと同時に、あなた自身もあなたと同調する十六万の地域住民の方々にも腹をきめなければならぬ段階に来ておるように私は感ずるわけです。卒直に言うと何か交換条件を出しなさいということです。取引をされてその変更が行なわれるものならば、あなた自身は一六万の代表として、やはり注文をつけるものはおつけなさいということをあなたに申し上げたいのです。衆議院でかつて現行法に満場一致賛成した衆議院の議員諸君も、この法律案を今回提案されておる法律改正案を支持して可決され参議院に回ってきている現状から見ても、これはひとつ佐野さん、腹をきめなければならぬ段階だと思うのですが、どうですか、もう卒直に注文つけなさい。あなたの場合には国会でもって堂々と注文つけるのですから、何もやみ取引するわけじゃありません。堂々とつけなさい。
○参考人(佐野為雄君)
ただいま田中先生の御情深いおことばをちょうだいいたしまして、まことに感涙にむせぶものがございます。申し上げるまでもなく、本中央道は昭和二六年以来、一応田中清一先生のプランといたしまして、その間には幾多の難航はございましたが、ともかくも田中先生のこのプランを中央自動車道として決定されたことは、私が申し上げるまでもございません。この間、末端の山梨県、長野、岐阜三県の町村会議長会は、昭和二九年五月以来、この中央道実現のために常に政府にこれを陳情いたしまして、たゆまざる努力を続けてまいったのでございますが、まことに組織も弱体ならばというので、山梨県、長野県、岐阜の三県の知事さんが主体となり、そうして促進委員会を結成し、さらに一都五県に拡大いたしましてやがて、青木一男先生が委員長になりましてこの問題が実現したわけでございます。当時はだれもが、これを北廻りなど、ということはごうまつも考えておらず、単にただいまの東京−相模湖−富士吉田−井川−飯田−中津川−小牧に至るこの線が可能になるならばとお互いがだき合ってこの路線の決定を喜んだにもかかわらず、青木委員長が米国に昨年の九月、一〇月、二ヵ月間の視察をするや昨年の五月一七日の推進委員会の総会の席上において、だれからも指示されるものでもなければ要望されたものでもない−私は、この路線がきわめて国土を開発するために重要なものであるというような信念のもとに提案されたものが、直ちに緊急動議として簡単にこれが政府に要求することを議決されたいということは、私はまことに残念に存じておるわけでございます。ひとり長野県北廻りを回ることが真の国家の国土開発であるか、私は、小さな−いわんや大月より北廻り、長野県を回ることによって国土は開発いたされない、むしろ大きい日本の視野より、未開発地帯を開発してこそ、真の国土開発の意義であると信ずるものでございます。もしも工業地帯に道路が必要であるならば、でき得ればこれにバイパス路線をつけまして、そうして交通網を開拓されるようお願いできるならば、なお幸いだと存ずるわけでございます。この点につきましては、山梨県知事天野知事より、再三身延地域峡南住民が反対することも無理からぬことであるけれども、何をかもってこれに代替するので了承せいというようなありがたいおことばも再三拝聴いたしておるわけでございます。先ごろも、新聞紙上におきまして、路線北廻りというようなことが問題になりました際に、聞き及ぶところによりますれば、政調会において、富士吉田より身延に至るまでを一級国道に、あるいは早川、雨畑より井川を通ずるを県道にするというようなことを拝聴いたしましたが、はたしてこれらが真偽のほどやいなやということもまだ承っておらないわけでございます。幸いにして、ただいま田中先生の御恩情あることばによって、われわれは戦うべきは戦い、法の前に屈すべきは屈する男でございますので、当然、衆寡敵せず、これが法律によって北廻りになるというならば、これもやむを得ないのでございます。でありますので、どうかこれに代替すべき、地域住民を慰め、しかも、国家の開発のために幾ぶんでも資することのできるような道路を、直ちに御明答いただければ、私は、あわせて幸いだと思うわけでございますが、よろしく御高配をお願いいたします。
○瀬谷英行君
私も、当初の計画を見ると、確かに中央道は縦貫道らしい路線道らしい路線に地図の上から見てもなっているわけです。それが北廻りの変更された路線を見ると、縦貫道じゃなくて、これはまるっきりの迂回道になるわけです。筋からいえば、当初計画どおり赤石山脈にトンネルを掘るという縦貫道が国家百年の大計の上から見るならば、妥当ではないか、こういう気がいたします。しかし、昨日、一昨日視察をした結果、問題は、身延周辺から天竜峡周辺に至る南アルプスの赤石山脈周辺をどのように貫通するかというところにあろうかという気がいたしました。地図の上で見れば、線を一本引ぱればいいわけですけれども、同じトンネルを掘るにしても、丹那トンネルに匹敵するトンネルが約三ケ所この間にはあります。丹那トンネルの場合は、入口も出口も平面地でありますけれども、この周辺のトンネルは、トンネルを出たとたんに渓谷になっている。渓谷に橋をかけて、またトンネルに入るというようなおそらく日本の土木技術陣が経験したことのないような難工事になるのじゃないかというようなことを、きのうは視察した結果感じた次第であります。しかし、身延とかあるいは下部周辺としては、当初計画が変更になるということになると、ちょうど、においだけがしておいて、はしをとった瞬間に、料理を鼻先からさらわれたような感じがするのじゃないかという気がいたします。だから、そういう点から考えるならば、また一昨日でした、自動車で本栖周辺から下部に向ける道路を自動車で通った経験によりますとあの辺もたいへんなところであります。だから、この間の道路整備をされるということは、下部なり、あるいは身延、南巨摩郡一帯にとっては非常な重要なことだろうと思うのでありますけれど、これは身延の町長さんに参考人としてお聞きいたしますが、一体道路の重要度あるいは住民の希望からするならば、この周辺から本栖あるいは西湖を通って富士吉田に抜ける岳ろくを通る道路を整備することのほうが便利であるのか。あるいはまた、富士川沿いに近い将来完成するであろうところの東名自動車道、吉原方面へ抜ける道のほうがよろしいのか。一体どちらのルートが整備されるほうが、地元の住民としてはよろしいかという点、これは両方整備されれば一番いいでありましょうけれども、おそらく一ぺんにはそうはまいらないと思います。順序としてはどちらのほうがよろしいかということを、町長さんからお伺いしておきたいと思います。
○参考人(佐野為雄君)
私は、縦貫道路という性質は、縦に一本を抜き通すことが縦貫道路の性質、生命であると考えているわけでございます。たとえば、大月より北廻りをする。同時に、富士吉田に盲腸的存在にあるような道路をもって、これを縦貫道路と称することが的確であるかどうか。われわれは、あくまでも縦貫道路というものは、富士吉田を経て現在の予定路線を遂行することが縦貫道路である。にもかかわらず、富士吉田でとめて、大月から北廻りをするということは、縦貫道路の名において恥ずべき措置ではなかろうかと考えるわけでございます。ただいまの御質問に対しまして道路が本栖付近から静岡県へ入ることがよろしいか、あるいは、これを山梨県方面へ延長することがよろしいかというような御質問でございますが、私どもの道路の実態を申し上げますれば、山梨県の峡南地区南巨摩方面については、わずかに中部日本横断道路、清水−直江津線、すなわち五二号線が一本通過するのみにおいて、しかも、わずかな舗装によって現在狭い道路が一本甲府に向かって通っているわけでございまして、まことに道路には恵まれないのでございます。ひとりわれわれ地域の交通の便ということを私は目ざすにあらずして、先ほど申し上げましたように、この中央道の性質にかんがみまして、あくまでも山岳地帯を開発していただきたいというのが念願でございますが、これも法によって、多数決によって北廻りになるならば、これもやむを得ないので、かように変えられるならば、やはり一級国道の舗装をすみやかにしていただくこと、あるいは岳ろく方面の道路を身延まで富士吉田から延長していただくことを、少なからず希望いたしておるような次第でございますが、この点天野知事さんもいろいろと御心配をくださっておるようでございますので、どうか本委員会におきまして、どうしても中央道の完成ができ得ないならば、富士吉田より身延に至る五二号線へつながるところの道路、そうしてまた、これが井川へ向かって貫通いたしまするような道路を、新たに法律によって設けていただき、あるいは県に指示いただいて、一日も早くこれが実現化するように御協力をお願いいたす次第でございます。
○瀬谷英行君
最後のところをもうちょっと、地図をよく見ても地名がこちらの頭の中に入っていないので、おっしゃったことが、どういうルートになるのだか、のみ込めないのですけれども、最後のいま希望をされるルートですね、それをもう一度おっしゃってくださいませんか。
○参考人(佐野為雄君)
富士吉田から本栖へ出てまいります。本栖から中の倉峠というのを通りまして下部に出てまいります。下部から富山橋を渡りますると身延町下山の五二号線へ丁の字型に当ってまいります。そうなると、岳ろく方面の道路がずっと五二号線と丁の字の型につながってくるわけでございます。その丁の字型に当たって路線が甲府へ向かって清水−直江津線となって、韮崎を経て直江津へ通ずるようになるわけでございます。いま一方これを井川へ通ずることにおきましては−早川町の雨畑を経て井川に通ずるというような、いま雨畑に−きのうごらんになっていただいたと思うわけでございますが、早川町へ入りますれば雨畑に馬場というところの小中学校の位置があるわけでございます。あれを長畑に抜いて、順次井川方面に向かっていけば道路が開通されるということ。もう一つは、長い間の懸案であった山梨県が林業、産業、観光道路として身延町から安倍峠を越えまして静岡県の安倍郡に行く道路があるわけでございます。これらが完成いたしますれば、山梨県と静岡県の安倍郡梅ケ島村並びに静岡県安倍郡井川村というような二本の線が開拓されるわけでございまして、幾ぶんなりとも、県有林あるいは山林資源あるいは観光道路というような点において恵まれるようになってまいりますと思うわけでございます。 (以下略)
× × ×
ふりかえってこの路線変更問題は、一応困難な山岳開設道路よりも容易でしかも経済効率のよい道路をという大義名分が勝ちを占めたものといえようが、それならば何故わずか4年前にそのことがわからなかったのか、数千万円の調査費をかけながら何故専門の技術者の意見がわずか4年で180度の転換をしたかという反論が当然生まれるわけで、この間には長野県出身の青木一男(元蔵相)委員長、これと同調する天野山梨県知事などの政治的な動きが強く働いており、辺地の峡南よりも人口密集する国中、甲府、諏訪回りの方が…という政治的判断に左右されたものということが真相であろう。
大月−富士吉田線さえ出来れば、あとは峡南などどっちでもよいという考え方から、南回りははじめからやる気のない案だったというような非難が当時知事に投げかけられたが、こういう邪推さえ生まれるほど、きわめて政治的、策略的な変更であり、身延地区住民の強い不満と不信を呼んだのである。
裏切られた身延に対する「代償措置」は、天野知事からも、国会においては河野建設相からも、泣く子をだますように何回となくうたわれたのであり、身延町はせめてもの埋め合わせに、国道52号線の完全改修舗装促進、身延裏参道の県道編入、身延町梅ケ島林道の貫通、本栖下部身延線の国道編入などに望みを託し今日まで度々国や県に対し要望をしているが、裏参道の県道編入が昭和40年に実現して少しずつではあるが改良工事が進んでいること、国道52号線の改良がこゝ2、3年で完成する見込みであること、梅ケ島線も年々延長され、本栖−身延線の国道編入も明るい見通しが生まれるなど、5年を経た今日遅々としてではあるが前進しつつあることは確かである。
しかし、これとても全国的な道路整備の水準に比べる時むしろ、遅きに失するというのが実際で、失ったものを補うには余りにも少ないといわねばならない。
  
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