第四節 養蚕業

一、概況

 養蚕業は、作物の生育が困難で、農業生産力のきわめて低い、山岳地帯の零細農家との経済的結びつきによって発達したものといわれている。
 身延町の養蚕業も、このような地理的経済的環境にあって、古くから根をおろして成長してきた。明治45年(1912)の西八代郡誌によると、当時大河内村では、「繭が920石、金額にして33,954円也で、生糸は354貫、12,500円也」としるされている。
 明治初期は甲州糸が輸出貿易の先陣をきっていた。養蚕業は逐次発展して、明治中期以後には県の奨励もあったので、農家経営の中核となって有力な現金収入源として、加速度的に普及した。大正時代を経て、昭和時代に入り、ほとんど農家の9割以上が経営に当ったので、農業経営の重要部門を占めるようになった。
 その後、昭和初期の経済恐慌に多少の影響をうけたが、昭和10年(1935)頃の全盛期には、実に桑園で200ヘクタール余あり、産繭量は、春蚕だけで151,000キログラムもあって、養蚕飼育農家は、一千百戸余となった。しかし昭和16年(1941)第二次世界大戦に入ってからは、食糧の自給態勢強化のため、桑園作付の転換を余儀なくされて、養蚕はほとんどかえりみられなくなった。そして敗戦直後の昭和22年には、桑園面積は、わずか5ヘクタール余に減り、産繭量13,000キログラム、飼育農家数178戸となって、明治の初期の頃にまで後退している。
 その後経済界も立ち直って、輸出の増進に伴う復興計画の実行によって、養蚕業も盛んになり、昭和33年も戦後の最高潮時には、桑園も50ヘクタール余に回復し、産繭量も49,000キログラムとふえ、飼育農家数は、320戸余に増加した。
 しかし、昭和35年の糸価の暴落以後、農家経営の基盤が、他の現金収入にかわりつつあることに人手不足もてつだって、養蚕に見切りをつける農家が増えたので、養蚕業の現況は低調である。

 表1 主要年度に見る養蚕の推移(春蚕について)
地区
項目
大正15年
昭和8年
昭和10年
昭和18年
昭和22年
昭和30年
昭和35年
昭和40年

養蚕飼育戸数
213戸
226
232
157
25
50
52
52
桑園面積
60.2ha
54.3
51.8
44.0
0.6
8.3
9.2
7.4
収繭量
51,776kg
38,242
41,771
36,572
1,700
8,201
9,513
9,858

養蚕飼育戸数
105戸
135
132
89
14
31
31
32
桑園面積
32.9ha
28.1
30.0
26.0
0.6
6.2
6.7
6.9
収繭量
23,190kg
27,423
23,183
16,304
1,053
5,738
7,232
8,106

養蚕飼育戸数
263戸
271
271
181
68
105
100
84
桑園面積
48.2ha
51.2
52.3
32.5
1.8
15.2
13.2
14.8
収繭量
53,172kg
35,185
37,387
30,211
5,059
15,026
14,666
12,238


養蚕飼育戸数
 
497
497
274
71
92
90
85
桑園面積
 
74.2
75.1
60.1
1.9
20.0
17.0
16.7
収繭量
 
48,434
48,236
31,011
5,692
15,545
16,336
15,700
                             (県蚕系課の資料による)

二、盛衰の変遷

 養蚕業の起源は、極めて古い時代から行なわれていたと記録にあるが、江戸時代を経て明治維新後、積極的な県の指導によって奨励されている。特に横浜開港によって、輸出品の中でも、生糸・蚕種は重要な品目となり、養蚕は重要産業のひとつとなった。
 本町においては、養蚕業についての古い記録や文献はないが、古老の話によると、江戸時代の末期から養蚕経営をしていた農家も相当数あったとのことである。しかし飼育はきわめて小規模なものであったようである。
 大正5年頃の「町村取調書」によると、養蚕業についての当時の実態が次のように記されている。(原文のまま)
 ○下山……蚕業は、郡中最も早く開けしが、水害後(注明治43年の大水害と思われる)耕地の減少したため、出稼者が多く、従って桑園の管理に力を注がず、蚕業は割に発達せず、養蚕飼育戸数五十五戸。
 ○身延……桑園は作られやや発達しつつあるも、他の町村と比べれば其の数、かぞえるに足らず、本町に製糸工場あり。
 ○大河内……蚕業は、東河内領、最も幼稚にて明治二十年頃までは「直二重箱飼い」の状態なりしなり。その後、一般会社の風潮に伴い、その必要を感じ、桑園栽培がふえ、飼育上の改善に注意し、五・六年前より、長足に進歩した。帯金は比較的早く養蚕業開く、大島に製糸工場あり。
 このような本町の養蚕業が、一躍重要な位置を占めるようになってきた理由は、殖産興業政策の筆頭に、養蚕業の振興があげられ、第二には外国貿易の発展によって、生糸の輸出・蚕種の輸出が急激に伸びてきたことがあげられる。内部的には、経済機構の変化によって、現金収入の道が必然的に養蚕業に求められるようになったからである。なお全盛時代には、本町の農家戸数の9割近くが従事していたことや、大河内地区においては、全戸数の9割2分が養蚕飼育をしていたことによって証明できる。
 その後、養蚕業はますます発展し、農家の現金収入の最たるものになった。大正15年(1926)以降における本町の養蚕飼育の推移は、表1に見られる通りである。
(一)原蚕種飼育
 大河内地区の大島、豊岡地区の清子においては、原蚕種の飼育が行なわれていた。昭和5年(1930)に、片倉製糸の指導によって、始めて飼育がなされた。当時大島部落は、60戸の農家のうち、45戸以上の農家がこの飼育に当たった。普通蚕種の飼育よりも、繭の価格がよく、補償的なものもあったので、春蚕は、ほとんど原蚕種の飼育をした。その後、第二次世界大戦中の中止期を除いて戦後は、昭和25年から、松本市の高原社の指導で、再び原蚕種の飼育が始められた。昭和35年には、梅平部落の6戸も原蚕種飼育をはじめた。豊岡地区の清子部落と、大島部落を、指導教師がかけもちで普及指導に当たっている。現在飼育戸数は、大島部落において10戸余、清子部落の30戸余、梅平の6戸を合わせて、春秋の二期に飼育している。
(二)養蚕実行組合 

 表2 養蚕実行組合(養蚕の盛んな昭和10年)
地区
養蚕組合名
組合員数
設立年月日
当時組合長

山額養蚕実行組合
21
昭和7、9、4
望月和義
仲町養蚕実行組合
25
昭和7、9、4
望月隆利
杉山養蚕実行組合
14
昭和7、9、4
深沢豊八

波木井養蚕実行組合
46
昭和7、9、6
藤田政直
塩沢養蚕実行組合
15
昭和6、8、30
望月豊二郎

大城養蚕実行組合
28
昭和7、9、30
大野国春
湯平養蚕実行組合
14
昭和7、9、30
望月義雄
相又上養蚕実行組合
22
昭和6、9、29
千頭和文斉
相又下養蚕実行組合
25
昭和7、10、10
千頭和利長
清子養蚕実行組合
65
昭和6、8、17
佐野享
光子沢大久保養蚕実行組合
33
昭和6、8、20
島崎久吉
横根養蚕実行組合
26
昭和6、8、17
遠藤勇造


八木沢養蚕実行組合
36
昭和6、9、10
鮎川恭作
帯金養蚕実行組合
65
昭和6、9、10
望月義宝
角打養蚕実行組合
20
昭和6、9、10
伊藤政造
丸滝養蚕実行組合
27
昭和6、9、9
依田小太郎
和田樋之上養蚕実行組合
38
昭和6、11、25
市川純一
大島養蚕実行組合
43
昭和6、9、10
若林憬
甲斐大島養蚕実行組合
44
昭和6、9、10
武藤幡
                      (山梨蚕糸要鑑)

 本町においては、昭和6年(1931)8月に、清子、横光に養蚕実行組合がはじめて設立され、以後表2に見るように、各地区に続々と設立され、組合員数も相当増加した。したがって、当時本町の養蚕業はきわめて盛んであったことが推察される。

三、現況

 戦時中からの老朽桑園によって、粗放経営をつづけてきた養蚕農家は、糸価の安定とともに、養蚕飼育に対する執着もあって、桑園の整備や改植がすすめられ、養蚕技術の進歩や、蚕品種の改良、共同稚蚕飼育所の新設など、養蚕近代化への歩みをつづけてきている。しかし労働力の不足は、飼育者の老齢化を来たしている。
 このように、老齢者で支えられている本町の養蚕業であるが、普通蚕種の飼育とともに、原蚕種の飼育も行なわれている。昭和41年度の原蚕種と、普通蚕種の掃立量は、表3の通りである。
 昭和42年度の農業基本調査における本町の養蚕業の現況は、表4の通りである。
 新農村建設事業と相まって、養蚕の近代化のひとつとして、共同稚蚕飼育所の設置が叫ばれてきたが、本町における稚蚕飼育所の設置は、表5に見られるように、大河内地区の大島と、豊岡地区の横根中にみられる二ヵ所である。

 表3 普通蚕種と原蚕種の掃立収繭量
 
初秋
(原蚕
なし)
晩秋
合計
普通
蚕種
原蚕種
普通
蚕種
原蚕種
普通
蚕種
原蚕種
掃立戸数
174
80
199
216
39
掃立量(箱)
520
283
258
616
79
1,394
362
収繭量(kg)
19,553
6,304
8,403
20,164
1,613
48,120
7,917
箱当り収繭量(kg)
38.0
22.0
33.0
33.0
20.0
                (昭和41年農業センサス中間結果)

 表4 蚕期別飼育規模別数
 
蚕期別掃立卵量(単位箱)
掃立規模別飼育戸数(戸)
地区
春蚕
夏秋蚕 晩秋蚕
合計
2.9箱
以下
3〜5.9
  箱
6〜9.9
  箱
10〜19.9
   箱
20〜29.9
   箱
30箱
以上
合計
(戸)
下山
138.5
53.5
115
307
3
25
18
5
51
身延
100.5
30.5
87
218
1
14
10
3
2
30
豊岡
149.8
49.0
92.4
292.2
18
43
12
73
大河内
157.0
78.0
128.7
363.7
23
43
10
6
82
身延町
合計
545.8
211
423.1
1,179.9
45
125
50
14
2
236
                              (43年農業基本調査より)

 表5 共同稚蚕飼育設置状況(新農村建設事業)
飼育所名
設置場所
設立年
坪数
工費
大島共同稚蚕飼育所
大島
昭和35年
35坪
120.5千円
豊岡共同稚蚕飼育所
横根中
昭和36年
62坪
231.9千円
                  (役場資料による)

(一)養蚕組合
 前記実行組合を一体化して、身延・大河内・下山・豊岡の各地区に、養蚕組合が設立され、現在は町の連合体として、身延町養蚕組合が設立され、地区組合がそれぞれ主体的活動をしている。
(二)養蚕業の将来
 これまで養蚕は、地域特有の産業として伸びてきたが、これからは、特に省力によって生産費を軽減することが望まれている。
 稚蚕共同飼育所の建設や、共同作業化によって、老朽桑園の改植と、廃河川敷地を利用して新植を進め、さらに桑園管理の集団化を図って、壮蚕の共同飼育を進め、自然上簇等の新技術の導入によって、生産費をより低減させ、生産を助長する合理的な経営を考えなければならない時期にきている。