第十一節 林業関係団体とその活動

一、森林組合

 旧幕府時代の入会山は、本県林野の四割七分を占めていたので、入会村民は、明治新政になって当然自分の所有林になるものと思い、お互いに戒めあって山林の保護に尽くしたが、明治9年(1876)山林原野官民有区別処分法が定められて、入会地が所属未定地と決定された。
 村民の期待ははずれて、生活の道をたたれた人々は失望して、遂に入会山林の乱伐をほしいままにした。明治14年(1881)入会山林が、官有地に確定したときには、荒廃の極に達していた。官有地決定後も乱伐は続けられ、惨状目をおおうありさまであった。政府は、この惨状を黙視するに忍びないで、明治30年、森林法を発布して、この荒廃した山林の立て直しを図った。
 この森林法第62条の中に、森林組合設立の規定が設けられていて、所有を異にして小面積の森林を合理的に経営するためには、森林組合を設立して、各所有者同士、一定の方針の下に互いに連絡して、経営することが望ましいとしている。
 樹苗の供給、荒廃地の復旧、病虫害の予防駆除、防火線の設置、火災の予防、消防、林道その他木材の運搬設備等において、共同一致して協力することを強調している。
 ところが、当時自己の利欲にのみ走った村民は、この森林法には一顧だにせず、ひたすら乱伐に乱伐を重ね、森林組合を設立する動きはみじんもなかった。
 そこで政府は、明治44年(1911)4月、農商務省令第15号森林組合設立奨励規則を発布して、森林組合の設立費として、1町歩に付き、50銭以内を交付することを定めたが、山梨県においては、大正3年(1914)までに、島田、西桂の二森林組合しか設立されなかった。
 しかも、時代の進展とともに、人々の山林に対する関心も深まり、自分たちの手で、山林原野は、守らなければならないという意識が強くなってきた。
 本町においても、昭和17年(1942)豊岡、大河内の二森林組合の設立がみられた。
 両組合とも、昭和16年(1941)森林組合法の改革があった直後申請し、昭和17年3月20日付をもって、追補責任豊岡、追補責任大河内森林組合の名称で発足した。
 発足当時の森林組合長は、豊岡は佐野亮、大河内は市川政則で、それぞれの組合発展のために尽くした。しかし、発足当時であったために、特別な独自的な事業計画はなされないで、もっぱら補助金の獲得に終った。
 昭和16年(1941)12月、第二次世界大戦に突入するや、森林組合も国家の要請に従って、軍用材の供給が中心となり、半強制的な徴発も行なわれた。
 戦後は、戦時中伐採した跡への植林が急務となり、その補助金の獲得、そして杉苗、檜苗等のあっせんが事業の中心になった。
 しかし、大河内森林組合はこの他に、利益を得るために、戦時中工場疎開した三井精機の工場を借り受け製材業を経営したこともあった。
 やがて、昭和26年に再び森林組合法の改革があり、両組合も申請し、認可されて、「豊岡森林組合」「大河内森林組合」という、新しい名称で発足した。
 昭和30年2月11日、身延町・大河内村・下山村・豊岡村が合併して、新身延町が発足したが、昭和37年3月1日、大河内・豊岡森林組合も合併して、身延町森林組合がつくられた。
 初代会長に若林孝義、副会長に千頭和利作が就任した。
 事務所を身延町梅平に置き、組合目的の「組合員が協同して、その森林施業の合理化と森林生産力の増進とを図り、経済状態を改善し、社会的地位を高める。」ことをモットーに運営されている。
 その組合運営資金は、組合員の出資と国庫補助によっている。組合員の出資は第1回の払込み300円以上、第2回は、第1回払込みの翌年から6月末までに一口につき、100円以上を払込み、第2回以後の出資の払込みは、配当する剰余金を払込みに充てることになっている。
 現在の組合員は、550名、出資総額175万円になっている。
 森林組合の機関としては、監事会、役員会、通常総会があり、予算・決算・運営方針が立てられている。
 昭和43年度においては、次の運営方針に従って活動がなされている。
  運営の基本方針
  総括的事項
 1、林業技術の導入、2、造林の推進、種苗生産の拡充、3、林産物受託、生産販売の推進、4、林業構造改善事業の推進、5、労務班組織の充実
 指導部門
 1、林業講習会、研修会の開催、2、林業技術の普及指導、3、林業に関する広報宣伝図書購読の推進
 購販売部門
 1、委託、生産種苗の売買並びに林業機械、薬品、肥料等の斡旋、2、林産物受託販売の推進
 利用部門
 1、造林補助金に関する事、2、森林国営共済保険 3、林業機械の貸付、
 受託部門
 1、造林、育成、伐採、搬出の受託、2、林業機械の完全利用、
 金融部門
 1、林業経営安定化の低利資金、林構資金の借入貸付
 管理部門
 1、事務改善整備、2、管理費用の節減、
 昭和43年度の役員改選において、次の人達が選ばれた。
   会 長 若林孝義
   副会長 千頭和利作
   理 事 佐野治郎 鈴木進  長谷川一  小笠原敏光
       佐野重則 松野弘一 千頭和利作 松田茂
       大野義学 望月正一 木内重幸 熊谷里安
       佐野巌  佐野信久 遠藤晴信  依田登
       小泉敏男 望月亀久 市川良政  
   監 事 松野真一 望月八郎 鈴木正己  久保幸男
       遠藤美章 佐野光圀

二、恩賜林保護財産区管理会

 恩賜林保護財産区管理会は、当初、恩賜県有財産保護組合といい、明治44年(1911)3月入会御料地が下賜され、その翌年3月発布された、恩賜県有財産管理規則の中の恩賜県有財産保護に関する規定、第6条「従来全部または一部が同一の恩賜県有財産に対し、草木の払下を受けたる慣行ある数町村は、前条の事務を共同処理する為、法令の規定に従って町村組合を設くべきこと」に基づいて、組織されたものである。
 県は、恩賜県有財産が各町村の半ばを占め、町村民の生活に相当な影響を及ぼすため、その地区の人々の抵抗があり、経営管理が困難で、県の林務機関だけでは、とうてい保護管理することができないことを考え、各町村に保護組合を設立させ、責任をもたせたのである。
 もちろん、県有財産の保護管理をする代償として、① 部分林でない天然樹木を売却した場合は、その売却の代金の100分の25から、100分の30まで、② 人工林においては、100分の5の利益配分がなされることを規定している。
 その他部分林の制度があり、恩賜林県財産のある町村保護組合に特別の配慮がはらわれ、できるだけ、その地区民の生活に影響を及ぼさないようなはからいがなされている。
 県はそれに対して、保護組合の責任を明らかにした、次の事項を規定している。
  ① 保護すべき恩賜県有財産の位置名称及び面積
  ② 火災の予防及び消防に関する事項
  ③ 盗伐、誤伐、冒認、侵墾其の他加害行為の予防および防止に関する事項
  ④ 有害動物の予防及び駆除に関する事項
  ⑤ 境界標識の保存に関する事項
  ⑥ 稚樹の保育に関する事項
  ⑦ 看守人の設置に関する事項
  ⑧ 入会山鑑札に関する事項
  ⑨ 保護規則の違背者に対する処分法に関する事項
  ⑩ その他必要と認むる事項
 以上10項目を守ることを、保護組合に義務づけている。
 次に、身延町の恩賜林保護財産区管理会について記述する。
 本町においては、三保護管理会が設置されており、下山地区を「仙王外五山恩賜林保護財産区管理会」豊岡地区を「姥草里外七山恩賜林保護財産区管理会」大河内地区を「入ヶ岳外二山恩賜林保護財産区管理会」と称して、下山169.48ヘクタール、豊岡1,271.89ヘクタール、大河内402.24ヘクタールの面積を保護管理している。
 また、各地区の保護管理会は、次の表のごとく部分林の経営をもなしている。

 表1 部分林箇所面積 単位、ヘクタール (営林区調べ)
地区名
面積
保護管理会名
受益%
身延町平清水
63.00
仙王外5山恩賜林保護財産区管理会 80/100
身延町鷹取山
5.20
姥草里外7山恩賜林保護財産区管理会 70/100
身延町大島長野
18.67
入ケ岳外2山恩賜林保護財産区管理会 60/100