第二章 学制以前の教育

第一節 概説

 時代的にみるに、奈良・平安時代約500年間は、形式の上では教育制度が始めて整備された時代であり、内容の面では教育の実質が、ほぼ整頓された時代である。
 しかしながらその教育は、主として貴族や上流階級の子弟を対象として行なわれたもので、中流以下の庶民の子弟には及ばなかったのである。
 庶民の教化は一般教育においても、社会教育においても、わずかにその萠(ほう)芽をみるに過ぎなかったのである。当時の都には大学・国学などが設けられたが、これらは官吏養成の目的をもって、その子弟を収容して教育することを本体としていた。
 私学・家学においてもまた権門・勢家の子弟を対象とした教育を行なっていた。
 当時の都から遠く離れた本町にはその跡がみられない。
 鎌倉・室町および戦国時代400年間は、武士道が発達した時代であり、武士の子弟を対象とした教育は盛んに行なわれたが、一般庶民の教育はあまり顧みられなかった。その頃にあった藩校や各種の私学の教育の対象者は武家の子弟に限られ、百姓町人には学問は不要とされていた。
 特に女子には学問は用のないものであるという思想が濃かったので、本町のような農山村にすむ者で教育を受けるなどということは、ほとんど考えられなかった。江戸時代となり、徳川氏が甲斐の国を所領するようになってから、地理的に甲斐が江戸に近接していることや徳川幕府の直轄地であったこともあって、江戸文化の影響を受けてようやく甲斐の中央の地甲府に官学徽典館ができ、地方には郷学・私学が勃興した結果、庶民の教育機関として寺子屋や私塾が漸時発達して、将軍家斉時代の文化年間以後から幕末までに、本県においても二百四十有余を数えるまでに発達したのである。
 この時代風潮に順応して、一小村であった本町にも文化以前(1810)頃から寺子屋・私塾が神官・僧侶および斯道の志のあるものを師匠として存在し始めたのである。
 しかし、実際にこの寺子屋や私塾の教育を受けたものは、一般村民の子弟ではなくて一部富裕家庭の子弟に止まったのであった。
 更に社会教育の面よりみると、明治維新以前はもちろん明治初期になっても、現在のような社会教育機関による社会教育の行なわれた様子はみられない。
 この時代の社会教育は劇場・神社・寺院等を教育の場として行なわれていたのである。
 ここで本町の特色として日蓮聖人が文永11年5月17日の身延入山を機として、久遠寺を中心とした聖人およびその弟子等の僧侶による教化は、この時代の本町町民に相当の影響をあたえたものと考えられる。