第三章 家庭教育第一節 概説人間にとって家庭の歴史は古く、石器時代の遺跡を発掘してみると、そうした時代にもう家庭を作っていたことがわかる。奈良時代になると、その実情を歌って「伏盧(ふせいほ)の曲盧(まげいほ)の内の直土(ひたつち)に、藁解き敷きて、父母は枕の方に、妻子(めこ)どもは、足の方に囲み居て」と万葉にある。こうした人々が、どのような心情によって、家庭生活を続けて来たか。「父母を見れば尊し、妻子見れば、めぐし愛(うつく)し、世の中は 斯くぞ道理(ことわり)」とあるように、父母を敬い、妻子を愛するのが、家庭生活の原則であったことが知られる。子供への愛情を強く歌った、「銀(しろがね)も金(こがね)も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」や夫婦の愛情を物語っている。「我が妻は いたく恋ひらし 飲む水に影さへ見えて 世に忘られず」などはあまりにも有名である。 平安時代になると、色々の文献が出されて、家庭生活が明らかにされているが、家庭が人間にとって最も基本的なものであるという考え方には変化はなかったようである。 しかし貴族は早婚、日の吉凶、お産の恐怖、お七夜、元服、還暦、米寿等人間一生通じての、興味深い行事がうかがわれ、庶民生活も相当複雑になって来ているようである。武家時代になると封建性が確立され、親孝行と祖先崇拝が道徳の規範とされた。「しつけ」という言葉は鎌倉時代になって、特にやかましく使われている。この時代の「しつけ」は、礼儀作法のことであった。武士の家庭は、清らかであるが、しかつめらしく、すべて礼儀作法で割り切っていた。また家庭内の上下の秩序の観念はきびしく家長に次いで長男の権威が重んぜられた。これは長男が惣領として、一族一門を率いて将軍に奉公するという、封建社会の組織の根本をなしていたからである。 なおこの時代の武将は家訓というものを持っていた。武田信玄の弟信繁の家訓は、その1条に「武田家の主人である信玄様に対し奉っては、後々の代まで謀反の心を起すことがあってはならぬ」と戒めている。この家訓によって、家庭は社会へ出る者に、重要な教育を施したわけである。当時の庶民は支配者である武士に仕えるために、一切を生産しなければならなかった。もともと自ら生産し、自ら生活する家庭は生産の場であったわけであるが、農家の構造や、手工業者の家庭を見ると、そのことがわかる。概して武士の家庭には愛情が乏しく、庶民の家庭には、しかつめらしさはなかったが、理性が乏しかったようである。 明治になって、西欧の文化が輸入されると、日本人は新しい家庭の生活を知るようになり、都会では文明の名の下に家庭を改良して、西洋風の家庭生活をはじめる者も出て来た。しかし、日本の態勢は学制頒布以来70年、家を国家の単位として全体主義をつみ上げ、遂に太平洋戦争を引き起してしまった。 未曾有の犠牲を払って、敗戦の焦土の中から発見したものは何であったか、それは人間の発見である。家のために人間があるのではなく、人間のために家庭があるのである。しかも、人間の生涯離れることのできない家庭なのである。 家の制度を廃止され、新しい家庭を作ることの一切がわれわれに与えられた。われわれの手によって、新しい日本の家庭を作らねばならない。新しい家庭を作る人、その人を作ることが、新しい家庭教育である。 (付・新しい時代の家庭の特徴) 家庭は社会の最小単位であるが、戦前、戦中、戦後とその機能や形態が著しく変ってきている。今後の家庭も一層その変ぼうの歩度を早めていくにちがいないが、その主な特徴をとり上げて見ると、 1 家庭の機能に大きな変化がみられること イ 生産機能が衰え消費機能の場となっていること ロ 慰安娯楽の機能が失われてきたこと ハ 医療の機能が失われてきたこと ニ 教育の機能が大きく変ってきたこと ホ 祭祀の機能が失われてきたこと 2 家族構成が小規模になったこと 3 家風がつくられず、愛郷心がうすれてきたこと 4 アパート式家庭が急速にふえてきたこと 5 親子の接触の度合が薄れてきたこと 6 父の座が薄らぎ一家の支柱が母にうつってきたこと 7 近隣の連帯感がうすらいできたこと (付・近代家庭の欠陥とその影響) 家庭の特徴の中でその欠陥についても言及したが、さらに細部に亘ってその欠けたものを摘出すると次のようなことが考えられる。 1 家庭が精神安定の場でなくなったこと 2 家庭での躾がおろそかになってきたこと 3 情緒が不安な子がふえること 4 精神的にいろいろな欠陥の子を生じていること イ 郷土愛、祖国愛のない子どもが生じていること ロ 祖先崇拝の念が薄い子どもができていること ハ 勤労愛好の精神や忍耐力に欠ける子どもができていること ニ 自己本位でわがままな子どもができること ホ 欲望にまけるこどもができること |