三、豊岡中学校

(一)沿革
 昭和22年4月10日、六・三・三・四制による教育改革にともない、豊岡小学校校舎を仮用し豊岡村立豊岡中学校を設置する。井上小一郎校長となり、同年4月15日開校式をあげた。
昭和22年10月 PTAが結成された。
昭和25年5月21日 2階建4教室を新築した。
昭和26年10月 中学校運動場新設
昭和28年1月28日 帽章バッヂを制定した。
昭和30年2月11日 町村合併により、身延町立豊岡中学校と改称した。
昭和31年9月29日 校歌を制定した。作詞米山愛紫、作曲坂口五郎
昭和31年12月 小・中学校共用の水道が完成した。
昭和32年12月8日 ブラスバンド部を結成した。
昭和34年8月14日 台風7号により運動場が流失した。
昭和34年9月26日 台風15号により完成直前の運動場が再度流失した。
昭和35年5月 運動場復興
昭和35年12月21日 完全給食を開始した。
昭和38年1月12日 産業教室を設置した。
昭和40年9月17日 屋内運動場竣工式を挙行した。
(二)校長・PTA会長
年度 校長名 職員数 生徒数 学級数 PTA会長名 備考
昭和22 井上小一郎 8 113 4 鴨狩庸雄  
23 丹沢慈光 7 130 3
24 8 178 5 渡辺義村  
25 8 175 5
26 杉山武 10 187 6 粟冠義朝  
27 10 182 6 片田泰輔  
28 10 180 6 堀内徳三  
29 望月正一 10 209 6
30 9 192 6 島崎栄  
31 8 194 5 若尾享一  
32 7 150 4 小野彪次  
33 7 131 4 柿島武文  
34 7 206 3 佐野光圀  
35 8 128 5 望月政吉  
36 8 146 4 遠藤敏雄  
37 8 168 5 白滝清治  
38 井上熊雄 9 160 5 鴨狩富治  
39 9 149 5 小山久  
40 山本恒雄 9 132 5 望月利夫  
41 7 108 3 鈴木富治  
42 7 108 3 千頭和吉久  
43 7 97 3 遠藤孝  
44 7 108 3 北川惣七  

四、大河内中学校

(一)沿革
昭和22年4月10日 西八代郡大河内村立大河内中学校と称し、設立認可となる。
昭和22年4月20日まで校舎整備のため臨時休業をなし、帯金小学校校舎、大和小学校校舎の一部を校舎にあて、21日より授業を開始した。
昭和26年7月1日 大河内村丸滝464番地に新校舎が落成し、帯金教場、大和教場の生徒が移転した。
昭和26年7月17日 新校舎落成式を挙行する。この日を学校記念日とした。
昭和27年4月7日 3年生が校庭に桜の木100本を植えた。
昭和27年7月17日 創立5周年記念式典を挙行した。
昭和28年7月1日 校庭に気象観測所を設置した。
昭和28年7月17日 校歌を制定し、発表会をおこなった。作詞竹内秀秋、作曲坂口五郎。
昭和29年2月6日 県教委指定学校評価に関する実験学級公開発表をおこなった。
昭和30年2月11日 校名を町村合併により、身延町立大河内中学校と改めた。
昭和34年8月14日、9月26日 台風による大災害を受けた。
昭和35年4月 産業教室を新設した。
昭和36年5月 特別教室が竣工した。
昭和38年1月20日 給食室完工し、同年2月20日給食を開始した。
昭和38年9月29日 校旗樹立式を挙行した。
昭和39年8月12日 プール竣工式を挙行した。
昭和43年11月17日 屋内運動場の起工式を挙行した。
昭和44年9月14日 竣工式を挙行した。
(二)校長・PTA会長
年度 校長名 職員数 生徒数 学級数 PTA会長名 備考
昭和22 依田直義 9 187 6    
23 11 239 6
24 12 285 7
25 12 304 7
26 15 301 8 高山  
27 12 290 7
28 12 299 7 市川良政  
29 13 328 8 佐野祥盛  
30 13 349 9 依田熹一  
31 遠藤誠 12 344 9 望月静  
32 13 334 9
33 13 282 9
34 12 234 8 片田豊  
35 13 250 9 鮎川太郎
望月吾録
4月〜7月
8月〜3月
36 宮沢善則 13 296 9 佐野治郎  
37 佐野武治 14 358 9
38 13 333 8 鈴木正巳  
39 14 322 9 滝川隆治  
40 井上熊雄 13 281 8 平田一三  
41 13 265 7 鈴木孝  
42 雨宮正 12 259 7 佐野大作  
43 12 251 7 若林貴一  
44 12 234 7 千須和弘毅  
(三)体育後援会
 ア 沿革、事業の概要
昭和30年4月、PTA体育部が独立して体育後援会となる。
 設立の趣旨は、学校体育、特に課外体育クラブの活動がきわめて盛んになり、PTA組織一本の形で後援するには、経費その他、運営面で困難な点が出てきた。
 そこで、PTA組織と不離一体の形で、独立の後援会組織を設立しようということになった。会則を決め、会費は口数(一口150円)によって徴集している。徴集は部落責任者が責任をもって努力し、今日にいたっている。
 対外試合費用、体育施設整備拡充、校内の競歩大会、運動会等に対しての物心両面にわたる功績は大なるものである。
 ちなみに44年度の年間予算は22万円である。
 イ 会長

 歴代会長
年度 氏名
30 依田熹一
31 依田熹一
32 依田熹一
33 依田熹一
34 依田熹一
35 依田熹一
36 依田熹一
37 望月吾録
38 雨宮永伯
39 佐野安太郎
40 望月喜一
41 若林貴一
42 遠藤実
43 高見沢一乙
44 鈴木進

五、中学校統合へ

 町内中学校の統合は、昭和30年町村合併の基本条件に明記され、「町村合併の目的を達成する最後の手段は学校統合にある」といわれていた。また、昭和37年に立案された新町建設計画にも、昭和41年度までに統合を完了するという計画がたてられていた。その後、昭和38年9月に町議会内に中学校統合調査特別委員会が設置され、調査検討の結果中学校は統合すべきであるとの結論に達し、昭和39年3月町長、教育委員会に意見書が送付された。意見書の大要は次のとおり
  1、学校規模の適正化
  2、教育財政の合理的運用
  3、教育施設の充実と専門教師の確保
  4、教育効果の飛躍的向上
  5、新町一体性の確保
 以上の理由により、中学校の統合は早急に行なう必要がある。しかし、その推進にあたっては、あくまで町民の理解と納得を得るように努力すべきである。
 この趣旨にのっとり、昭和39年9月町に身延町中学校統合推進協議会、地区に地区推進協議会が結成され、協議の結果、部落懇談会を開き中学校統合の必要性を説明し、町民の理解と納得を得ることに努力することになった。
 ここにおいて、教育委員会は昭和41年5月23日より町内二十ヵ所で懇談会を開催して、鋭意町民の理解を得るため努力してきた。しかしながら、下山地区においては、種々の事情で住民の賛成を得ることができなかった。
 以上の結果、中央推進協議会は、3校統合もやむなしとの結論に達し、当初の4校統合を3校統合に切り替えることになった。さらに、3校統合に切り替えた理由を各部落に巡回説明をなし、賛成を得たので、中央推進協議会は3校統合を実施すべきことを決定し、この旨を町長、議長に報告した。
 これにもとづき統合の正式議決は、町長の提案により昭和44年11月8日の臨時議会で行なわれ、44年4月1日に3校の名目統合を、47年度には新校舎を完成させ実質統合が完了することになった。中学の統合により本町教育の一大発展が期待されている。