第五節 高等学校教育

 明治19年(1886)中学校令が公布されたが、峡南地方は中等教育への関心が薄かった中で、明治23年10月より同25年6月まで、遠藤源十郎が波木井に研精学校を開校して、普通学を教授した記録があるが、本地方の中等教育への発祥として意義深く40年の後に県立身延中学校が波木井の仮校舎で、誕生したのも奇しき縁となり、峡南の教育は身延からの感を深くするものである。

一、山梨県立身延高等学校

(一)沿革
 山梨県立身延中学校を前身とする身延第一高等学校と、山梨県立身延高等女学校を前身とする身延第二高等学校が統合して身延高等学校となった。
  ア、山梨県立身延中学校と山梨県立身延第一高等学校
 大正11年9月23日、生徒定員350名をもって設立が認可され、翌12年4月開校、第1学年入学者100名で波木井仮校舎において授業を始め、峡南中等教育の中心となった。当時山梨県は山梨高等工業学校(現在の山梨大学工学部)の設置に力を入れていたが、県立に五ヵ所以上の中学校がなければ高等学校設置の資格がないとして身延・韮崎の2中学の設置となったといわれている。
 また、身延中学校が本町の梅平に設置と決まるまでには岩間(六郷町)と猛烈な争奪が行なわれてそれぞれ活発な運動を展開し結局身延に落ち着いたといわれている。

 表1 歴代校長
学校名 校長 就任年月日 退任年月日
県立身延中学校 内田与八 大正12. 1.20 昭和 7. 3.30
萩原右三郎 昭和 7. 3.31 昭和15. 3.30
松本健之助 昭和15. 3.31 昭和18. 3.30
渋谷靖雄 昭和18. 3.31 昭和21. 3.30
佐野寿雄 昭和21. 3.31 昭和23. 3.30
身延第一高等学校 佐伯竜纐 昭和23. 3.31 昭和25. 3.15
広瀬勝雄 昭和25. 3.15 昭和25. 3.30
身延実科高等女学校 近藤義朔 昭和 4. 4. 1 昭和 5. 3.30
窪田徳造 昭和 5. 3.31 昭和 9. 8.30
松田寛 昭和 9. 8.31 昭和15. 3.31
身延高等女学校 松田寛 昭和15. 4. 1 昭和15.11.14
丸茂貞亮 昭和15.11.15 昭和21. 3.30
赤木義雄 昭和21. 3.31 昭和23. 4. 1
身延第二高等学校 後藤亘 昭和23. 5. 7 昭和25. 3.15
石塚孝基 昭和25. 3.15 昭和25. 3.30
県立身延高等学校 広瀬勝雄 昭和25. 3.31 昭和29. 3.31
原田虎雄 昭和29. 4. 1 昭和31. 3.31
滝沢優 昭和31. 4. 1 昭和38. 3.31
深沢清 昭和38. 4. 1 昭和40. 3.31
名取貞雄 昭和40. 4. 1 昭和42. 3.31
保坂忠信 昭和42. 4. 1 昭和44. 3.31
大関伝吉 昭和44. 4. 1 現 在

 表2 学校種別年別卒業者数
校名 年度 種目 卒業者数 校名 年度 種別 卒業者数

昭2   76
 
76







昭4     32 32
3   52
 
52 5     13 13
4   40
 
40 6     10 10
5   45
 
45 7     15 15
6   40
 
40 8     16 16
7   77
 
77 9     10 10
8   67
 
67 10     18 18
9   38
 
38 11     21 21
10   45
 
45 12     21 21
11   46
 
46 13     31 31
12   77
 
77 14     50 50
13   78
 
78 小計     237 237
14   81
 
81





昭15     46 46
15   79
 
79 16     53 53
16   61
 
61 17     56 56
17   77
 
77 18 1 部   50 50
18   93
 
93   2 部   54 54
19   82
 
82 19 1 部   106 106
19   152
 
152   2 部   55 55
20   77
 
77   専攻科   132 132
21   104
 
104 20 1 部   139 139
22 実務課 194
 
194   2 部   56 56
22   13
 
13 21 1 部   155 155
23   39
 
39 22 1 部   147 147
小計   1,733
 
1,733   2 部   61 61
臨時 昭20   36
 
36   専攻科   22 22
21   37
 
37 小計     1,132 1,132
小計   73
 
73 中学校
併設
昭22     205 205
中学校
併設
昭22   158
 
158 23     139 139
23   163
 
163 小計     344 344
小計   321
 
321 身延第二
高校
昭23     24 24
身延第一
高校
昭23   97
 
97 24     48 48
24   136
 
136 24 別 科   45 45
小計   233
 
233 小計     117 117






昭25   192 135 327




昭34   151 181 332
26   221 156 377 35   139 190 329
27   174 139 313 36   143 221 364
28   173 171 344 37   125 195 320
29   158 156 314 38   99 146 245
30   191 140 331 39   137 183 320
31   128 176 304 40   217 261 478
32   154 147 301 41   208 263 471
33   123 169 292 小計   2,733 3,029 5,762
     合計  男 5,093  女 4,859  計 9,952

 なお、当時身延山久遠寺からは敷地購入費として15,000円が寄付されて誘致に大きな力となったのである。昭和8年、校歌を制定、生徒定員も500名、750名と逐次増員された。昭和22年4月、学制改革にともない、2ヵ年間併設中学校を設置した。昭和23年、山梨県立身延第一高等学校と呼称、同年8月、定時制課程を本校と都川分校に設け、勤労青少年に勉学の場を提供した。その後原分校をも設置したが、社会情勢の変化により入学者が減少し31年原分校、34年、都川分校、43年、本校の定時制課程を閉鎖した。
  イ、山梨県立身延高等女学校と山梨県立身延第二高等学校
 「本村の教育は男子に対しては県立身延中学校あるも女子に対しては何等中等以上の教育機関もなく、よって不偏の教育を施すにあり」、という趣旨のもとに、時の村長深沢豊治は、村会にはかり、昭和3年2月4日、身延尋常高等小学校内に定員100名の村立実科高等女学校を併置する事を決定し、同4年4月、開校した。しかし女子の教育に関心のうすい地域社会の現状で、関係者はわらじばきの勧誘に、かろうじて入学者十数名を数えるという状態がつづいた。昭和15年4月、学校組織変更に伴い、山梨県身延高等女学校と改称同時に4年制の本科と2年制の実科を設け、定員それぞれ1学級50名とした。昭和16年3月、新校舎が落成し移転した。現在の身延中学校々舎である。昭和19年山梨県に移管され、山梨県立身延高等女学校となり、昭和23年学制改革にともない、山梨県立身延第二高等学校となった。
  ウ、山梨県立身延高等学校
 昭和25年、身延第一高等学校、身延第二高等学校が統合して身延高等学校となり、普通科・被服科・食物科別科を設置して発足した。昭和26年、改組して全日制に普通科・商業科・家庭科を定時制課程に普通科・家庭科を設置した。その後、校庭を拡張・校舎を改築し、屋内運動場、プールを設置して、面目をあらたにした。
 創立以来46年、卒業生は約10,000人を数えている。
 歴代の校長名、就退任年月日は、表1のとおりである。また卒業生の年度別数は、表2のとおりである。