第三節 青年教育
一、青年団活動の状況
(一)青年団活動の沿革
古文書に青年集団として始めてあらわれたのは建久4年(1193)といわれ、若連中の名のもとに何等かの動きがあったように見受けられるが判然としない。
その後、江戸時代の初期慶長年間(1603)に青年集団として部屋住連・若居者・若者・小児連・若衆等と呼ばれ、御茶目・組合吟味之帳・御定目・覚・仲間帳等の規定が設けられている。
これらの集団も次第に計画的な活動へと移行して、明治2年(1869)青年夜学校が生まれるにいたった。
青年集団が青年会と呼ばれたのは、明治27年頃(1894)からで、翌々年発行された「田舎青年」山本滝之助著によると、全国青年会数を699と記している。
明治34年(1901)日本で始めて日本新聞社より「日本青年」が発行され、43年(1910)には、文部省が全国青年優良団として82団体の表彰を行ない、同年4月26日愛知県において全国青年大会が開かれる。
大正4年、青年団体設置に関する訓令が内務・文部両省の共同により出され、青年団の組織が、漸く全国的なものとなったが、ややもすると事業団体的性格にはしり、修養団体としての使命を忘れがちになるので、この訓令により青年団設立の主旨が修養団体にあることを明確にし、その方向が明示された。
続いて、大正7年青年団体振興督励に関する訓令、同9年青年団体自治に関する訓令等が出され、青年団体の重要性はいよいよ高まっていった。
大正10年(1921)通俗教育を社会教育と改称、同年9月2日、日本青年館の設立が許可され、初代理事長に近衛文麿が就任した。
こうして日本の青年団は部落を中心として生まれ、やがて町村単位となり、さらに郡市連合団を結成し、それが道府県において連合し、遂に大正13年10月大日本連合青年団という全国的大同団結の組織をみるに至った。
大正14年5月、大正天皇御結婚満25年の祝典に際し、男女青年団事業奨励のため金75万円の事業奨励金が下賜された。同年10月着工以来4ヵ年を要し、日本青年館の竣工を見る。
大正15年、内務・文部両省の共同により女子青年団体に関する訓令が出され、全国に小学校通学区域等を単位に、女子青年としての修養団体組織化が進められた。
昭和2年(1927)10月東京において大日本連合青年団の発団式が行なわれ、名実ともに男子青年団・女子青年団に発展していった。
大日本連合青年団制定「青年団綱領」
一、我等は純真なり、青年の友情と愛郷の精神によりて団結す
一、我等は若し、心身を修錬し勤労を楽しみ自主創造の人たるを期す
一、我等は希望に燃ゆ、清新の意気を以って愛と正義のために奮闘す
一、我等は国家を愛す、忠孝の本義を体し献身奉公国運の進展に尽す
一、我等の心は広し、人道の大義に則(のっと)り世界の平和と人類の共栄に努む
ついで昭和12年(1937)支那事変に呼応して軍用機の献納等国策に添って、その遂行へと運動の方向が変えられ、昭和14年(1939)4月大日本連合青年団を大日本青年団と改称。16年(1941)1月16日には大日本青年団は解散して、大日本青少年団が結成され団長には橘田文部大臣が就任、地域集団の団長には青年学校長の職にある者があたった。こうして官制青年団の基礎が固められ、団章・帽章・団歌等の制定、軍国主義的色彩が濃厚となり、18年・19年(1944)と大東亜青年総決起運動の展開にまで発展、戦争遂行のための原動力となって活動した。
しかし、戦争も利あらず同年6月には大日本青少年団も解散し、無我夢中のうちに終戦を迎えるに至った。そして、約一ヵ年青年団の存在も忘却され、また結成の意欲すらもないままに混乱の一途をたどった。
この間青少年の思想は乱れ、目標は失なわれ、放心状態の空白の約一ヵ年が送られたが、こうした中にあって敗戦とはいえ、荒廃した社会を直視し、再建の使命を痛感したのはやはり青年であったといえる。
昭和20年10月、身延町(旧身延町)青年団団則が制定され、新生青年団初代団長に中村恒雄が就任したが、当時の混乱もあって、同年12月団則改正により3ヵ月の任期で団長の職を辞任した。昭和21年各地に新生青年団が発足し、平和な町づくりの体制は芽をふいた。このときの身延町青年団々長に佐野正、副団長に佐野雄三、近藤清春、身延町女子青年団々長に望月松枝、副団長に藤田百合子、田島ひさが選挙された。
(二)新身延町青年団14年のあゆみ
昭和30年2月11日、新身延町発足とともに、地域青年団もこの全町統合に種々検討を加え幾多の会合の結果、地域的にも環境的にも相違はあろうとも目的に普遍性を持つ青年として統合し、下山・身延・豊岡・大河内一町三ヵ村の地域集団をもって連合青年団の結成発足を見る。
この間、31年3月4日町連合青年団の団歌制定、団章の制定と意気は盛りあがった。
ア 団歌
身延町連合青年団々歌
作詞 鈴木正巳 補訂 米山愛紫 作曲 森義八郎
一、法城に星かげさえて ゆるぎなし久遠のおしえ
豊かなる希望あふれて 勢い立つ若人われら
和み行く郷土おこさん 身延青年挙れよ挙れよ
二、大いなる理想に映ゆる 旗のもと眉もりりしく
友情に明日を誓いて 花ひらけ若人われら
香も高き文化育まん 身延青年誇れよ誇れよ
三、あこがれは富水の流れ み山なる雲とはるけし
胸燃えて歌え青春 羽ばたけ若人われら
人生をたたえみがかん 身延青年輝やけ輝やけ
爾(じ)来、活動として青少年指導者講習会、青年大会(球技大会、文化芸能大会)、原水禁運動、弁論大会、生活改善研究大会等、活発な活動が展開されてきたが、高度経済成長政策、工業立国政策は地域青年の都市流失を余儀なくし、在町青年の数的減少は深刻な問題となっている。
身延町青年団歴代団長
年度別 |
代名 |
代表者(団長)名 |
出身地 |
昭和30年度 |
身延町連合青年団 |
望月重久 |
身延 |
昭和31年度 |
身延町連合青年団 |
井上年一 |
下山 |
昭和32年度 |
身延町連合青年団 |
熊谷明治 |
大河内 |
昭和33年度 |
身延町連合青年団 |
田中安春 |
身延 |
昭和34年度 |
身延町連合青年団 |
真保英治 |
身延 |
昭和35年度 |
身延町連合青年団 |
青木利夫 |
大河内 |
昭和36年度 |
身延町青年団連絡協議会 |
佐野晁市 |
身延 |
昭和37年度 |
身延町青年団連絡協議会 |
粟冠利正 |
豊岡 |
昭和38年度 |
身延町青年団連絡協議会 |
望月徳重 |
身延 |
昭和39年度 |
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昭和40年度 |
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昭和41年度 |
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昭和42年度 |
身延町青年団体連絡会議 |
秋山英勝 |
身延 |
昭和43年度 |
身延町青年団体連絡会議 |
阿久津行広 |
豊岡 |
(注) |
39、40、41年度は団員の減少、役員 指導者の欠除等から、自然消滅的に崩潰(ほうかい)する。41年に入り身青連再建の気運を盛り上げるべく、町主催の青年教育指導研修会を開催。 |
身延町地区青年団歴代団長
年度別 |
下山青年団 |
身延青年団 |
豊岡青年団 |
大河内青年団 |
昭和30年度 |
井上年一 |
井水五雄 |
千頭和善次 |
伊藤徳一 |
昭和31年度 |
松木慶光 |
穂坂昭五
望月千秋 |
小山進一郎 |
熊谷明治 |
昭和32年度 |
石川静夫 |
依田光弥 |
粟冠卓 |
武藤年明 |
昭和33年度 |
広島公男 |
望月秀哉 |
千頭和善彦 |
市川和男 |
昭和34年度 |
近藤康次 |
深沢市郎 |
千頭和将剛 |
青木利男 |
昭和35年度 |
松木均 |
河内賢二 |
大村文男 |
片田秀光 |
昭和36年度 |
望月邦彦 |
佐野晁市 |
遠藤勇
大野守夫 |
森田久巳 |
昭和37年度 |
石川汪樹 |
近藤義郎
遠藤譲一 |
柿島洋美 |
佐野道夫 |
昭和38年度 |
石川汪樹 |
小笠原武士 |
鴨狩昭司 |
若林勝彦 |
昭和39年度 |
欠 |
望月豊昭 |
佐野久司 |
望月克博 |
昭和40年度 |
欠 |
望月司郎 |
木内秀臣 |
望月克博 |
昭和41年度 |
若人の会設立
羽賀茂次
佐野武夫 |
望月哲夫 |
鴨狩昭司 |
大坪太一 |
昭和42年度 |
広島邦夫 |
秋山英勝 |
阿久津行広 |
片田徹治 |
昭和43年度 |
深沢二二一 |
遠藤忠治 |
遠藤正昭 |
望月省吾 |
  
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