第六章 史跡名勝と文化財

 史跡名勝にせよ、文化財にせよ、その中には深い歴史性があり、思想と実生活がこめられている。そして私達は、この凝(ぎょう)集されたものから常にはげまされ、慰められ、豊かにされて新生命の絶え間ない前進をつづける。
 私達は郷土文化の伝統と人間形成のため、深く郷土の研究をしてその成果を後世に残さねばならぬ。しかし、限りある紙面にそのことごとくを載せることはできないので、文化財保護法により指定を受けたものを主とし、それに町内に残存している一部をつけ加えるにとどめる。

第一節 史跡

一、県指定のもの

(一) 日蓮聖人草庵跡
 この草庵は、身延町身延、西谷墓地1,175平方メートルの内に、18.18メートル四面の石柵を回らして保存され、その右やや後方の丘上は日蓮聖人の御廟である。
 建長5年(1253)32歳の時房州清澄山において開宗した聖人は、当時の天変地夭に鑑(かんが)みて立正安国論を著わし、文応元年(1260)7月16日初めて之を幕府に献じた。
 文永5年(1268)からしばしば蒙古の使者が来たので文永8年(1271)9月12日重ねてこれを献じたために、竜口の法難にあい、ついで佐渡に流された。文永11年(1274)赦免、鎌倉に帰ると再度蒙古の襲来を告げて幕府に警告したが、何等の反響がなかったので、古人の例にならって同年5月17日鎌倉を去り、身延山に来て地頭南部六郎実長によった。そしてこの地に草庵を結んで以来、弘安5年(1282)9月8日、宿痾(あ)治療のため常陸に向かうまで9年間この地にあって、立正安国の大義を説き世人を教化せられた。しかし同年10月13日、武蔵千足郷池上においてついに61歳をもって入滅せられたので、遺言によって草庵のかたわらに墓を建てて葬った。
 文永11年入山の折、建てた5.45メートル四面のかりそめの草庵は4年を経て大破したので、建治3年(1277)修復し、さらに4年後の弘安4年(1281)に改築せられたことは、日蓮聖人御遺文によっても明らかである。かくて18.18メートル四面の居住跡はそのまま護持せられて、昭和34年2月9日文化財として県指定となったのである。
(巻首写真参照)

二、町指定のものその他

(一) 身延山祖廟域(聖域)(身延町西谷)
 祖廟(びょう)塔の右に祖廟(びょう)守塔の大任を果たすとともに、大法宣布の使命につとめられた、第二世日向上人をはじめ、第八十四世日円上人に至るまでの歴代法主の墓が立ちならび、今なお守塔と給仕の誠をささげている。
   昭和44年9月12日町指定
(二) 法界堂 (身延町西谷)
 御草庵跡の南にある、間口7.27メートル、奥行6.36メートルの古びたお堂で、俗にこれを毛堂ともいっている。
 昔は参拝者がここにお骨を納めたものであるが、今は本院納骨堂に納めるので、ただ雨風にうたれわびしげに立っている。
 その昔南部実長公によって建造された、10間四面のお堂の餘材を使って造られたと伝えられる。身延山最古の建造物の一つである。
 御草庵に模して後世に残そうとして造ったもので、鎌倉時代の聖人住居の様子がしのばれる。昭和3年11月大修理を加えた。
  昭和44年9月12日町指定
(三) 日蓮聖人お手植の杉 (身延山奥之院思親閣境内)
 思親閣境内に、日蓮聖人お手植と伝えられる老杉4本が、高く天に聳えその昔を物語っている。本殿に向かって左にあるのは聖父妙日尊儀追善記念(根元幹囲7.25メートル、目通り幹囲5.30メートル、樹高約30.00メートル)、右にあるのは聖母妙蓮尊儀追善記念(根元幹囲7.30メートル、目通り幹囲5.35メートル、樹高約29.00メートル)東の方のは師の御房道善律師追善記念(根元幹囲7.30メートル、目通り幹囲5.60メートル、樹高約30.90メートル)西の方のは蒙古退散の祈念(根元の幹囲5.18メートル、目通り幹囲5.30メートル、樹高約26.36メートル)と伝えられている。(巻首写真参照)
 杉山、波木井等の部落の信者は、毎年浄身潔斉この杉に太い注連縄をかけている。
 ただ惜しいことに、蒙古退散の杉は枯木となり、父・母の2樹は枯枝が多くなったことである。
  昭和44年9月12日町指定
(四)元政埋髪塚 (身延山奥之院思親閣境内)
 思親閣二王門をくぐると左に塚がある。深草元政上人が慈父の遺骨を首にかけ、老母のお供をして登山し、父の骨と自己の髪とを埋めて記念のため桜樹を植えた。(方2.85メートル)。後人その大孝を偲んで碑を建てた。その碑に元政上人の辞世
 鷲の山常に住むてふ峯の月 かりに現れかりにかくれて を刻んである。
 昭和44年9月12日町指定
(五) 大野山本遠寺養珠院殿の墓 (身延町大野、本遠寺境内)
 花崗石(みかげいし)で造った五輪塔で、高さ4.55メートル、台は6.06メートル四方ある。正面に承応二歳癸己八月二十一日終焉、養珠院殿妙紹日心尊霊とあり、石門は高さ2.73メートル、間口2.13メートルで、屋根も柱も花崗石の一石造りで承応3年(1654)紀州徳川頼宣の建立したもので県下まれに見る大きい墓碑である。
 石段の両側には長孫光貞等奉献の大石槃十数基が並んで徳川の盛時をしのばせる。
  昭和41年6月1日指定となる。
(六) 波木井明善堰(せぎ)五輪の塔 (身延町波木井二区中村保平所有地内)
 波木井明善堰の、田の中に立っている五輪之塔は、総高1.60メートルの大きな塔で四方に梵字が刻んである。五輪塔は別石式が多いが、この塔は地・水・火・風・空とも同一の石で軒の切り方屋根のカーブ梵字の刻み方鎌倉期のものとして、石造美術上貴重な遺構である。
  昭和41年6月1日町指定
(七) 波木井宝篋印塔 (身延町波木井三区藤田たか宅地内)
 宝篋印陀羅尼経を納めたことからこの名が起った。鎌倉初期の頃から石造が生まれ、中期頃から関東式関西式に分かれた。
 この宝篋印塔は2基あって形状からみて関東式である。総高93.0センチメートルで、塔の四方に妙法・蓮・華・経と分けて刻してあり、台にかすかに永享(1430)の文字が判読できるから今からおよそ540年以前のものと思われる。藤田宅では下宮永享年間の宝篋印塔と呼んでいる。
 昭和41年6月1日町指定
(八) 大久保唯勝寺付近の遺跡 (身延町大久保)
 この遺跡は本町の最南端にあり標高350メートル、富士川の河岸段丘上にある狭い地域で、とくに唯勝寺の墓地東側に遺物の散布がみられる。土器片の分類では、縄文中期の加曽利E氏、勝坂式、阿玉台式土器の系統が中心で、僅かに五領ヶ台式の土器片もまじっている。
 石器は打製石斧、石錘、皮はぎ、石鏃などで、土器片に比べて多く発見されている。
 昭和41年6月1日町指定
(九) 寺平付近の遺跡 (身延町寺平)
 この遺跡は、身延の谷の東面する山腹にあり、お塔林と呼ばれる旧寺院跡から、南西にゆるやかに下る山腹の標高約360メートル前後の地点に、とくに遺物の散布が見られる。
 土器片から見ると、縄文中期の加曽利E式で、土師器(はじき)とまぎらわしい土器片も採集されたがとくに土師遺跡との複合ということは考えられない。
 石器は打製石斧、皮はぎ、石錘、石鏃などで、特に石錘、皮はぎの多いことは大久保とともに一つの特徴である。
  昭和44年9月12日町指定
(十) 清子丸山付近の遺跡 (身延町清子)
 この遺跡は、富士川の右岸段丘上にある標高約240メートル、東西約200メートル、南北約300メートルの地域で鈴木富治により大久保と同じ種類の土器石器が採集された。
 なお、横溝(標高200メートルの豊岡小学校清子分校付近)からも石器が採集されたが、丸山の出土品と同じものと思われる。
  昭和41年6月1日町指定
(十一) 桜井付近の遺跡 (身延町丸滝)
 富士川の左岸段丘上にある標高約290メートルの地点で、西に七面山、奥之院を、眼下に富士川の清流を、南に身延駅付近を展望できる地で、その南向のあたりから鈴木富治が清子丸山と同じ種類と思われる土器石器類を発見した。ここも昭和41年6月1日町指定となっている。
(十二) 下山城址 (身延町下山本国寺境内)
 穴山氏の城趾であり、本国寺境内と下山小学校敷地にあったもので、明治の初年学校建築の際切り石等が地中より掘り出されたことによっても知られる。これは居趾で本城は西の山上にあって城山と呼んでいる。この築城法は近世初期の遺構を整えている。
 城のあたりに京都になぞらえて、神社仏閣を建立し今なおその遺跡を伝えている。
  昭和44年9月12日町指定
(十三) 波木井城址 (身延町波木井第一区)
 波木井六郎実長の築いたもので、身延山の東に突き出した台地の一角の城山と称する平坦の地、東西182メートル、南北110メートルでここが本丸のあった所である。地勢の変化はあったが、四囲に今なお調練場、城口、土門、東門畑、西門畑、古屋敷、神の平、峯城神社等の地名が存している。波木井三河守義実が武田信虎に攻め殺された峯城とはこの城であるとも言われている。
 昭和44年9月12日町指定
(十四) 南部氏館址 (身延町梅平)
 南部六郎実長は、南部牧の北半分波木井飯野の領主として居館を波木井郷梅平に築いてここに住んでおられた、今館址に立って眺めると、梅平の地小丘の平台をなし、四囲の状況、一見武将居館の地として正に理想的であることが知られる。
 実長公以下八世の南部氏は概ねここの南部館址を本拠としておよそ200年、その間しばしば南朝のために義軍をあげて尽忠報国の赤誠をつらぬいたのである。
  昭和44年9月12日町指定
(十五) 大島の古戦場 (身延町大島)
 時は大永元年(1521)2月28日、今川の将遠州(静岡県)高天神の城主福島兵庫頭正成は、駿遠の兵15,000を率いて、甲州河内に襲来し、9月6日武田勢と大島において激戦数合、遂に武田勢を打ち破り、下山、十日市場を経て軍を甲府に進めたが、10月6日飯田河原で、また11月23日上条河原で大敗し、福島一類をはじめ四千余人討死し、残衆翌2年正月14日身命を乞って帰国したと、塩山向岳寺第九十五世天真源和尚の手記や、妙法寺記に記されている。
 上大島の地を訪ねると、その戦に討死したつわものどもの霊を慰めんと、ゆかりの人の建てたと思われる五輪塔がその昔を語るように今尚残っているが、年を経ていつしか忘れられ、弔うものもなく、塔の文字も読みがたく、ただ桑畑の中に寂しく立っている。
 この戦に今川方に味方した波木井三河守義実は、大永7年(1527)武田信虎に峯の域で攻め殺されたと伝えられている。
  昭和44年9月12日町指定