第三節 文化財

一、文化財保護法により指定のもの

(一)国宝、絵画
   ア、絹本着色夏景山水図        身延山久遠寺 蔵
 縦  126.9センチメートル  横  54.5センチメートル
 時代 北宋時代
 久遠寺の本図は胡直夫(1082−1135)筆と伝えるが、これら三幅(京都府金十院所蔵の秋景・冬景山水図と併せて)は鑑蔵印や法量をひとしくし、さらに筆法も同じであり、もと四季山水図四幅対の別れたものと思われる。
 簡略な構図と僅少な着彩のなかに、きびしい写実的態度を見せ、しかも豊かな詩情の表現と適度の装飾性をも兼ね備えており、誠に東洋山水画中の名作というべきである。おそらく徽宗朝頃の山水画の典型と考えられ、その高雅な気品と澄明な画境は、伝徽宗筆の伝称の生ずるゆえんでもあろう。
 金地院の伝来は付属書翰によると、足利将軍家より大内氏へ伝わり、さらに天竜寺策彦(さくげん)より金地院に伝わったことが知られ、同時に足利氏を出る時はすでに二幅一対であったことも知られる。
 久遠寺本は寛文12年(1672)8月13日遠州掛川の太田資宗から久遠寺に寄進されたものであることが、箱の蓋裏にかかれている。なお鑑蔵印の「仲明珍玩」と「盧紙家蔵」の2印は、ともに明初を下らない中国のものである。(明治38年4月4日指定)(巻首写真参照)
(二)重要文化財、書跡
   ア、宋版礼記正義
   自巻63至巻70  2冊      身延山久遠寺 蔵
 礼記には古来「大載」「小載」の2本があり、本載記には後周の盧辧(ろべん)の注のみであるが、唐の太宗貞観(じょうかん)12年(638)孔穎(えい)達をして五経正義とともに、小載記により礼記正義13巻を作らしめた。しかるに身延文庫本は更に63巻以後70巻に至る8巻の増補ある珍本である。
 身延本には、毎巻の初に「身延文庫」の黒長印があり、63巻以下の毎巻の内題に「唐国子祭酒上軍曲阜県開国子臣孔穎達等奉勅撰」とある。
 現本は縦27.3センチメートル、横18.6センチメートル、厚さ15.1センチメートルで、両巻の内容は左の如くである。
 六十三巻子曰至唯修、正義曰云々十六枚、六十四巻問喪第三十五、正義曰十五枚、六十五巻三年問第三十八、正義曰十三枚、六十五巻儒行四十一、正義曰十五枚以上 上巻
 六十七巻子曰聴訟吾猶人也、正義曰九枚、六十八巻冠義第四十三、正義曰十六枚六十九巻射義第四十六、正義曰十一枚、七十巻燕義第四十七、正義曰十七枚以上 下巻
 最後に「貞婦者若無此事則非孝子一弟弟貞婦也故云可得而学焉也、第七十巻」とあり。毎紙半葉15行、各行26、27、28字で一定しない。本文初句34字を標記し上のように「正義曰」と注し、毎節の終に何字分かを空けた単疏本である。下巻の巻末より2紙の裏7行より刊記となり、孟佑(もうゆう)の書、劉(りゅう)文蒋等初校5人、袁柄寺再校7人の次に「淳化五年(994)五月日」呂蒙心等16人の校勘諸臣の官名が詳記せられている。又本文中諱(いみな)を避けて敬殷の字は必ず欠画し、意諺譲の字は或は欠画し、或は欠画しないものもあるが、字体は剄直(けいちょく)古雅、摺(しゅう)印すこぶる鮮明で、南宋の初刻と鑑定せられている。
 礼記正義七十巻は、北宋咸平2年(999)祭酒によって新たに施印せられたが、今日これを伝えない、しかもこの本の疏文は、皇侃(こうかん)、能安生によって経注に付せずして単行であるのは、貞観正義の旧式を存するもので、零巻ながら、古経の面目を知る希観の珍籍である。
 この本は、表紙に
 「礼記正義 自六十三
至六十六
「礼記正義 自六十三
至七十畢
と墨書の表題があり、由来は不明であるが、おそらく往年金沢文庫より伝えられたものであろう。
 本書と本朝文粋、弘決外典抄は昭和3年6月3日徳富蘇峯参詣の折由緒ある稀有の珍書と驚き、本書の裏打をされ、また、影写複本を作られた。昭和15年(1940)5月3日、重要文化財に指定された。

    イ、紙本墨書本朝文粋(ほんちょうもんずい)    身延山久遠寺 蔵
 本朝文粋は漢文集で14巻であるが久遠寺蔵は1巻(第12巻)を欠いている。撰者は藤原明衡で長暦「1037−9」、寛徳「1044−5」頃の撰である。著者は、姚鉱編の唐文粋によったものである。嵯峨帝の弘仁年中「810−23」より後一条帝の長元年中「1028−36」に至る一七代200年間の文人の文辞39類427編を収めてある。当代文辞の粋を集め後世の典範であるばかりでなく、後世文学への影響も甚大である。
 本書は北条時宗の蔵書を筆写し、最明寺禅門の時清原教隆によって加点させたもので、建治2年(1276)閏3月書写の奥書があり元和元年(1615)徳川家康に借り出され、崇伝道春の斡旋で五山の僧に写させたという。各巻とも縦は29.4センチメートルで、長さは巻によって異るが、大体19.00メートルで従って総長200メートル以上に及ぶ珍らしい書跡である。昭和31年6月28日重要文化財に指定される。
(巻首写真参照)
(三)天然記念物
    ア、上沢寺のお葉付イチョウ     下山 上沢寺境内
 根元の周囲     7.57メートル
 目通り幹囲     6.60メートル
 樹高       23.00メートル
  昭和4年(1929)4月2日指定される(巻首写真参照)

    イ、本国寺のお葉付イチョウ     下山 本国寺境内
 根元の周囲     6.42メートル
 目通り幹囲     5.40メートル
 樹高       24.00メートル
  昭和4年4月2日指定される。
 この2本のイチョウは、普通の結実と趣きを異にして葉の上に結実する変り種で、これについて明治24年(1890)7月白井光太郎博士が葉上種子の出来る事実を発見し、学界に発表された植物学上貴重な資料であって、その後藤井健次郎博士等の学者によって研究され指定されたものである。
 樹齢は上沢寺のも、本国寺のも共に700年近いものといわれている。

    ウ、八木沢のお葉付イチョウ
        上八木沢山神社境内
 根元の周囲 3.9   4メートル
 目通り幹囲 3.0   0メートル
 樹高       25.00メートル
  昭和15年(1940)7月12日指定さる。
 イチョウの雌株が結実するには、雄株の花粉から受精を必要とする。然るに雄株は、実をつけないから無用の長物として亡ぼされる。
 身延地方を中心として、富士川沿岸はイチョウの木が多数あるが雄株は稀である。
 このお葉付イチョウは、雄株で、葉上に葯(やく)をつけたものであり、明治29年(1896)4月17日藤井健次郎博士によって発見され、ひろく欧米の植物学界に紹介された有名な木である。これは珍らしい種類で、お葉付イチョウの雄株で指定されたものはこれだけであり、重要な学術研究資料で樹齢は約300年と推定される。
 国の天然記念物に指定されたお葉付イチョウは、7本あって、そのうち3本が身延町にある。他の四本は、
 早(わざ)田のお葉付イチョウ       (山形県)
 白旗山八幡宮のお葉付イチョウ       (茨城県)
 杉森神社のお葉付イチョウ         (福井県)
 了徳寺のお葉付イチョウ          (滋賀県)
 となっている。

    エ、身延町仏法僧繁殖(ぶっぽうそうはんしょく)地   身延町
 仏法僧渡来生息地として、宮城県狭野神社、岐阜県州原神社、長野県御岳村若宮八幡社の三ヵ所と共に昭和12年(1937)12月21日指定された全国的に著名な渡来繁殖地である。仏法僧は古来「仏法僧」の三宝を唱(うた)うと称せられ、一名「三宝鳥」とも呼ばれている。平安朝以来幾多の文献にあげられ、よくいいはやされたものであるが、中村幸雄が鳥獣調査のため海外各地を巡遊中、仏法僧はいかに月明の夜といえども夜間は活動しないこと、更に昼間も「ブッポウソウ」とは鳴かず、ただ「ゲゲ」とか、「ギャギャ」とか鳴くのみであることを確認し、また東八代郡御坂山塊神座山で「ブッポウソウ」と鳴くのは「コノハズク」であることを確かめ学界に報告しその誤りを正した。
 これは仏法僧が「仏法僧」と鳴くと解し、その幽幻神秘な鳴声が珍重され霊鳥とまで謳(うた)われて、その渡来繁殖地を天然記念物に指定した精神に反し、仏法僧の存在が疎(うと)んぜられるように考えられるが仏法僧は日本国に渡来する夏鳥中美麗な点において、優位を占めており、且つ渡来数が極めて少なく、その食性より見ても「カナブンブ」「コガネムシ」「タマムシ」「ハンノキハムシ」等の害虫を捕食して、農林、園芸、果樹等の生産を助ける有益鳥であるから依然として既定繁殖地は天然記念物として保護されている。

    オ、カモシカ           山梨県一円
 最近本町内にも生息が目立っているし、詳細の記述は第2編第3章生物第2節身延町周辺の動物の部にあるので省く。

二、県指定のもの

(一)建造物
   ア、八幡神社本殿          身延 上の山
 二間社入母屋(もや)造り 正面一間向拝
 軒唐破風 柿葺(こけらぶき)
 身舎 間口     2.50メートル
    奥行     2.12メートル
 向拝 間口     2.50メートル
    奥行     1.63メートル
 八幡神社は当初梅平に鎮座したもので、社記によれば、波木井郷の総鎮守であって日蓮聖人が祟敬した祠(ほこら)であると由緒(ゆいしょ)が伝えられている。その後現地(上の山)勧請(かんじょう)に伴い本殿も移建したものといわれている。
 本殿は慶長年間(1596 1615)浅野右近大輔(たゆう)忠吉の建立したものと伝えられているのを、寛文年間(1661 1673)に今の社地に移建されたものである。
 本殿は桃山時代の特色を示す優美な建築であって、特に木鼻の彫刻、兎毛通(うのけどおし)、桁隠、大瓶束(たいへいつか)、三花懸魚(みつはなげぎょ)等細部の表現が現われており、総じて仕口は慎重、技法は優秀、特に向拝、身舎に金箔(ぱく)押しの残存するあたり、簡素の中にも装飾性の加味されたすこぶる格調の高い建築で、本町における室町期から桃山時代にかけてのこの種建築物として、県下稀に見る洗練された建築美をもつ貴重な遺構として、本県郷土史家の推賞する建造物である。
 昭和41年5月29日指定された。
(二)工芸
    ア、銅鐘             身延山 久遠寺 蔵
 現在久遠寺の宝物殿に陳列されている弘安(鎌倉時代)の古鐘で、口径66.4センチメートル、口辺の厚さ6.40センチメートルであるが遺憾(かん)ながら上帯の上部から上が欠けている。したがって現鐘身は、長さ95.00センチメートル、短いところで81.80センチメートルである。推定によると復原で鐘身95.0センチメートル内外で、竜頭までの総高121.20センチメートル位と思われる。
 陽鋳鐘銘は雅致に富んだ字体で
諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅為楽
甲斐国大井庄
最勝寺之洪鐘
弘安六年癸未
八月日時世
当寺住職長老
比丘空円
 大工沙弥十念
 と刻してある。
 この鐘が身延山にあるについては富士川出水のとき、流れて来たのを拾って寄進したという伝説もあるが、鎌倉時代に地頭の大井庄司より寄進せられたものであると見るのが至当であろう。
 この鐘は、かつて火災にかかったものらしく、その中帯以下の鐘肌にただれの跡が見られ、口径にゆがみも見られ、ことに駒(こま)の爪の部分の一部がいたんでいるのを見ても推察される。
 またこの鐘貴重なのは、その規矩(きく)割である。池の間は縦59.10センチメートルという他に全く類例のない長さで、したがって中帯以下は大変圧縮されている。鐘身の高さを95.00センチメートルと推定して百分比を示せば
 上帯より乳の間まで     21.2パーセント
 池の間           63.1パーセント
 中帯より下端まで      15.7パーセント
 で、この鐘の規矩割と、それから生じた撞座の位置の低いことは、他に類例のない珍らしいもので本邦唯一のものといってよい。
 大工沙弥十念が甲斐に住んでいた鋳物師であることや、この鐘の規矩割のことや、また甲斐における最古のものと思われる点からも、貴重な銅鐘であるから昭和34年2月9日指定された。(巻首写真参照)

  イ、銅鐘(朝鮮鐘)           身延山 久遠寺 蔵
 宝物殿に陳列されてあるこの鐘は、銘によると万治3年(1660)中嶋氏が寄進したものである。現在竜頭と旗挿が欠くが、笠形上までの高さは57.60センチメートル、口径は28.80センチメートルある。笠形の周辺には蓮弁が放射状に26個ならんでいる。上帯の幅は2.70センチメートル、下帯は3.60センチメートルで、どちらにも唐草模様が施してある。乳廓は四ヵ所、各幅は1.5センチメートルで簡素な唐草模様である。帯を三方にめぐらし、内に乳が9顆(か)ある。
 撞(しょう)座は二ヵ所、径は約7.00センチメートル、2つの撞座に纏(てん)衣を上方にひるがえした暢(の)びやかな飛天が鋳出されている。
 原銘はないが、次のような追刻銘がある。
大明之推鐘(背面乳廓の間)
身延山什物(前面乳廓の間)
万治三年庚子
  十月十二日
施主
  中嶋氏
   茶屋長意
  法号円応日是(乳廊下の撞座と天人の間)
 この鐘の鋳造年代は弘安より古く、鎌倉時代の初期と推定されている。
 昭和35年11月7日の指定である。

    ウ、磬(けい)        下山 本国寺 蔵
 磬は、中国に興(おこ)った一種の原始楽器で、後世典儀に使用され、唐初の頃から仏具に転用されたという。
わが国ではいつ頃から使われたかは明確でないが、すでに奈良朝時代法隆寺、大安寺などの資材帳にも散見される。
 平安時代密教の興るにつれ必須(す)の法具として広く用いられ、その後鎌倉、室町時代と漸次盛んに行なわれて現在にいたっているが、大小さまざまで時に肩間28.80センチメートルにも及ぶ江戸初期(1674頃)の覚林坊両面孔雀文磬のような巨大なものもある。
 本国寺所蔵のこの磬は、両面制の孔雀文磬で、上縁六弧、下縁五弧で構成され、胎(たい)厚は総体ほぼ等厚で比較的厚作である。撞座は径は大きく、造成は剛健でしかも精緻、極めて典型的な胡桃式重弁蓮華座で、その左右に昂尾(こうび)式の優美な孔雀が相対して配されている。刻名によれば、和泉国塩穴蓮華寺の什物であったことがわかるが、この寺に伝来の由を知ることができない。他の面に「延元四年五月二十三日」とあり、鎌倉時代の優作のほまれが高い。
 銅製で、絃20.50センチメートル、博8.30センチメートル、肩間18.00センチメートル、撞座径4.50センチメートル、股入3.70センチメートルである。
 昭和35年11月7日指定される。(巻首写真参照)