(三)絵画
    ア、絹本着色穴山信友夫人像    下山 南松院 蔵
 縦81.30センチメートル、横36.00センチメートル、掛軸装
 穴山信友夫人は、武田信玄の姉で穴山梅雪の母である。永禄9年(1566)4月没して南松院葵庵理誠(きあんりせい)大姉を法謚(し)された。
 本図は菩提追善のため同年12月描かれ、天桂玄長(大泉寺開山)が梅雪の請に応じて著賛している。筆者は武田逍遙軒(しょうようけん)と伝えており、逍遙軒筆の長禅寺の武田信虎夫人像とも描写が相近いことが知られる。当否はにわかに決しがたいが、いずれにせよ描写は優秀、像主の面影をよく伝えており、数少ない当時武家婦人肖像画の珍重すべき作例といえよう。
 昭和40年8月19日指定される。(巻首写真参照)

    イ、紙本着色渡唐天神像    下山 南松院 蔵
 縦92.50センチメートル、横22.00センチメートル、掛軸装
 渡唐天神像としては普通の像容であるが、精緻描写になっており、その画風より見れば、筆者は狩野派に属すると思われる。図中に印章1顆が押捺(なつ)されてあるが印文は不詳である。天竜寺妙智院の策彦の著賛よりして、おそらく策彦を師とした穴山信友夫人の遺愛の品であったとも考えられよう。
 製作年代も賛者策彦の没(ぼつ)する前(天正7年以前)室町末期と推察される。
 昭和40年8月19日指定される。
    ウ、絹本着色桃隠和尚像 1軸    下山 南松院 蔵
 縦89.00センチメートル、横37.00センチメートル掛軸装
 永禄9年(1566)穴山梅雪は亡母の菩提を弔うため、南松院を建立した。その際開山として請ぜられたのが桃隠和尚である。本図は画風から見れば地方作と思われるが、描写は色彩豊かで画趣は佳麗である。図上には、長禅寺二世春国光新の元亀元年(1570)11月の著賛があり、およその製作年代も知られ室町時代のものと思われる。
 春国の賛は大泉寺武田信虎像(国指定重文)にも見られる。
 昭和40年8月19日指定された。

    エ、紙本着色日蓮聖人図       大野 本遠寺 蔵
 七面天女示現の図ともいう。狩野大蔵卿の筆といわれ、長さ125.00センチメートル、幅91.50センチメートルの図で身延山にあったのをお万の方の懇望によって久遠寺より譲り渡されたものといわれている。
 裏面に、甲州河内大野山本遠寺常住承応二年癸己孟春辰訴養珠院日心大姉奉修復写、当山第四世日近書判とある。
 昭和35年11月7日の指定である。
(四)書跡
    ア、紙本墨書弘決外典鈔(ぐけつげてんしょう)  身延山 久遠寺 蔵
 表紙外2折5紙10枚 端本
 表紙雁皮紙 用紙鳥の子
 1紙7行 型罫紙1行1.74センチメートル
  弘決外典鈔4巻は正暦2年(991)に村上天皇の皇子で、後、中書王と呼ばれた一代の碩学、中務卿具平親王が、唐僧湛然の止観輔行伝弘決10巻に引用される外典の出処を明らかにし、これを注釈した書で、天台止観の教学を修めるものにとり必読の文献とされていた。
 身延山のこの書跡は、古くから久遠寺に蔵せられてきた弘決外典鈔写本で、(本能寺の変で京都からきた僧が納めたものか)かつては完本であったが現在は端本である。
 以下2冊粘葉綴、上は表紙とも16葉、下は同じく10葉で、表紙に上下共次のような墨書がある。
 左端に「弘決止観外典鈔状花王蔵」
 中央下方に2行に3字宛記された文字が墨で消されているが、右上「本能寺」左下「円珠院」と判読出来る。
 右端中庭に「其の二」とあり、右下隅は「日純」と所有者らしい名を記してある。この本は金沢文庫所蔵の称名寺本弘決外典鈔〔弘安七年(1284)妙性写の奥書あり〕と共に最古の写本と考えられ、著者年代は不明であるが、書体・書風・用紙その他を総合して鎌倉時代を下らないと推定されている。この写本の価値としては、これが弘決外典鈔の刊行の底本に用いられたことにある。10世紀末に撰述されたこの書は、天台学僧の筆写によって世に行なわれていたが、年久しく経るにつれて散佚してしまった。ところが江戸時代に入り、多年にわたりこの書を捜索していた多武峰寿命教院の沙門光栄が、宝永年間に至り久遠寺の経蔵においてようやくこれを発見し、同6年(1709)6月向松堂なる書店をして刊行させたので、再び世に流行するに至ったのである。
 昭和3年(1928)に至り、成簣堂が称名寺本を複製するに先だつこと更に220年前である。これは久遠寺本の功績で、またこれを保存した身延山の力である。
 惜しいことは貴重な典籍が完本でないことである。
 昭和35年11月7日指定される。

    イ、紙本墨書十如是御書巻子本1巻 大野山 本遠寺 蔵
 長さ39.40センチメートル、総長60.60メートル
 作者 本阿弥光悦(1558−1637)は江戸初期の大工芸家で、深く日蓮宗を信じ、鷹ヶ峰壇林常照寺や甲斐の本遠寺と常に往復があった。
 本書は開山日遠上人のために献じたものである。
 昭和35年11月7日指定される。
 なお、別に本遠寺に寛永3年(1626)7月5日書いた扁額、久遠寺に月づくしの和歌の屏風一双、下山土橋隆四郎所蔵の光悦歌巻物、覚林坊の行学院の額など光悦の書がある。

    ウ、紙本墨書葵庵字号        下山 南松院 蔵
縦101.00センチメートル、横50.30センチメートル 掛軸装
 葵庵字号は、生前永禄5年(1562)7月、師であった策彦周良が夫人に葵庵理誠の名称を与えた由来を記したもので、画像とともに信友夫人をしのぶ貴重な資料である。室町時代の作で昭和40年8月19日指定される。
(五)天然記念物
    ア、身延山の千本杉           身延 上之山
 種類 スギ、久遠寺所有で、面積は0.85ヘクタール、本数約250本。材積数約8500石。樹齢250年。樹の大きさは一様でないが、大きいものは、地上1.5メートルで幹囲2.50メートルから、3.80メートル、樹高は54〜55メートルある。
 樹勢は極めて旺盛な美林であり、材積数は1ヘクタール当り1万石で、造林学の権威中村賢太郎博士は材積数の多いことにおいて、東洋でもまれに見る美林であると激賞されている。このように千本杉は造林学上貴重な資料である。
 昭和34年2月9日指定される。(巻首写真参照)

    イ、鏡円坊のサクラ         梅平 鏡円坊境内
 種類 イトザクラ
 イトザクラ(シダレザクラ)の県下第一の巨樹は、小淵沢町松向神田のサクラであるが、それに比べて幹の太さ、樹形の美しさにおいては、およばないが、現在知られている範囲において、本樹はこれにつぐイトザクラでまれにみる巨木である。本樹は鏡円坊の本堂裏北に面した急斜面に立っているもので、その規模は根回り上地面ではかって3.50メートル、地上80センチメートルで3.75メートル、地上1.50メートルで四幹に分かれている。枝張りは東約7.00メートル、西約10.00メートル、南約8.50メートル、北約11.50メートルで、本樹の上部の枝はほとんど垂れないが、下部の枝は長くしだれている。樹高は約13.00メートルある。
 1花序に2花もしくは3花をつけ、花色は淡紅色、花径20ミリメートル、まれに六弁のものを混じ、また旗弁のあるものもある。
 花期は4月上旬でソメイヨシノよりも少し早い開花である。
 幹に空洞もなく、枝先の枯損も少なく、風損も認められず、樹勢はさかんであって、樹齢400年乃至500年と推定される。
 昭和38年9月5日指定される。

    ウ、樋之上のタカオモミジ    樋之上 熊谷義正所有
 種類 タカオモミジ
 タカオモミジは別名イロハモミジとも呼ばれるものであるが、本樹は県下においても著しい巨木であり、気根状の出根がある点では奇木でもある。
 熊谷義正宅の東南1.50キロメ
ートルにわさび田があり、その沢の沿岸に樹齢数百年を経過すると想定されるタカオモミジの巨木がある。
 その規模は、根回り5.00メートル、目通りの幹囲3.90メートル、樹高約25.00メートルで樹勢もまた旺盛である。
 周囲はもとスギの大木の林を形成していたが、昭和30年の雪害のため倒木が目立ち、落葉樹であるこのタカオモミジのみが残り得たものだという。
 本樹は巨木として県下における既指定のものよりもその規模が上まっているし、気根状の垂下物が樹幹に縫合接着している点でも興味が深い。
 昭和41年5月30日指定される。

    エ、本妙寺のイチョウ        門野 本妙寺境内
 種類 イチョウ
 本妙寺境内のイチョウは稀に見る巨木で根回り10.45メートル、目通り幹囲6.75メートル、樹高約27.00メートル、枝張り東13.50メートル、西11.50メートル、南16.00メートル、北15.30メートルで地上より約3メートルにして数本の枝に分岐していて、樹勢極めて旺盛な巨樹で、名木たるに価する。
 寺の建立は応安5年(1372)2月8日で「開山正行房日如上人、本山六祖日院上人御代世」と過去帳に記されているので、本イチョウもその頃の植樹と考えられる。従って樹齢は500年乃至600年を経過したものと考えられる。
 昭和41年5月30日指定される。

    オ、樋之上のヤマボウシ     樋之上 熊谷義正所有
 種類 ヤマボウシ
 ヤマボウシなる植物は、広く全日本に分布していて、別名をウッキボウシ、コクワ、ダンゴキ、ヤマツカ、ヤマグワ等の方言名があって住民に親しまれている。
 一般にその群落は大木は少ないが、熊谷義正所有のものはその規模が他に比して抜群である。すなわち根回り1.70メートル、目通り幹囲1.60メートル、翼長東西10.10メートル、南北12.00メートル、樹高約16.00メートルで、一宮町峰城山のヤマボウシより少々大きく、本樹種としてはおそらく県下随一の大木だと考えられる。
 箱根山には古来ヤマボウシが多く、本種は箱根山を代表する植物の一つにかぞえられているが、こうした大木は少ない。
 熊谷義正所有のものは、イタリアカエデ、イロハモミジ等と混生していて、花季である6月には、きわだって美しい大型の白花(総包)をつけている。
 昭和42年5月29日指定される。

    カ、甲斐白鼻心  山梨県一円生息
 白鼻心はじゃ香猫科に属し、黒田長礼博士の「日本哺乳類図説」によれば、原産地は南支那広東(推定)および台湾で、海南島産もおそらく同一であろうと、その他近似亜種はセイロン・インド地方及び揚子江流域・インドシナ・マレー半島及びハワイにわたり十亜種に分れているとのことである。
 甲斐の白鼻心は、かつて移入した白鼻心が野外に逃げて野生化したもので、山梨県以外では静岡県及び東京都下(何れも本県隣接地)より1〜2頭発見されただけであるのに、本県下には多数生息しており、明治32年(1899)以降昭和32年までに捕獲されたもの約20頭に及び、なお近年になってしばしば捕獲されるので、昭和33年6月19日県指定となったのである。
 山梨県で生息の確認されたのは本町樋之上であると山梨県政五十年誌にある。
 本県産白鼻心は原産地のものと形態上に相違の点があるので亜種として分類し、甲斐白鼻心と命名されたとのことである。
 本獣は御坂及び天子岳連山を中心として古くより生息していたらしく、夜行性であって昼間は寝床の中によく眠り、なお2、3頭合宿の場合は非常に仲睦まじく重なり合って眠っており、かつ毛が汚れたり、ぬれたりした場合はお互に相手の毛をなめ合う等、その愛情はこまやかであるが、見なれぬものが近づくと奇声を発して威かくするのである。
 食物は野鼠・小鳥・仔兎・コガネムシ・クワガタ・カミキリ等森林の有害動物を捕食し、又樹木にのぼることも上手でアケビ・シラクチヅル・ヤマブドウ等の漿果を好み、さらに早春食物欠乏の時期には、農家付近に現われ、甘諸の貯蔵穴に侵入して求食中捕獲されたこともある。なお厳冬中はクマやアナグマ同様一定期間冬蟄(ちつ)するようである。
 身延町でも樋之上外、大島、上八木沢、椿草里等で捕獲されたことがある。