二、短歌
本町における短歌について、町内グループ活動の状況を訪ねながら、遠い昔の有名和歌を記述する。
(一)短歌グループ
ア、須曽乃短歌会身延支部
昭和37年1月21日19名で発足、現在須曽乃短歌会同人佐野八千代支部長を中心に会員30名を数え、毎月1回研究歌会を開いて精進を重ねてその作品を機関誌須曽乃に投稿。また吟行歌会もし、日に日にのびて行く会である。
八十戸の陸の孤島のごとき村へバス通さんと衆はげみおり 牛久保耕子
万緑の樹下を過ぎ来て汗ふけば花に出あいぬ桐のむらさき 高橋つえ子
のぼり来し寺庭に冬をふかれいつ四季咲く桜のいとも小さかりき 藤田武子
かなしきまでに静かにかまえ寒空にたえて久しき二分咲の梅 柳沢みよ子
降り佇ちて館山駅前南国のムード盛り立つ大き蘇鉄に 鍋島八州子
ラッパ水仙の花はいとほし何げなく乳吸う吾子の唇に似て 佐野玉泉
あじさいの幼き花に降る雨とゆすら梅の可隣さよ六月の詩 相河千代
花嫁に添いて歩ゆめば川添道に春を息づくふきのとう萌ゆ 佐野八千代
将と兵無事に帰りてここに集う酒飲む程に手をとりて泣く 池上ただし
イ、下山短歌会
遠藤素人(重利)主宰で、昭和36年11月創立、会員56名で下山、角打、塩之沢にて月例会を開き、機関誌「南風」を毎月1回発行(昭和43年9月第8巻第4号)している。
切々とむねにしみ入るものありて雲流るるを黙止(もだ)し目守(まも)りぬ 望月宗
上塗りのその手さばきのみごとさよセメン塗る人よき妻ありて 遠藤道子
からからと声高らかに笑ふ人ひさびさに来てわれをなぐさむ 遠藤まつじ
灯をこひてまぎれ入りたるひぐらしのなにをあはれに羽ばたきつづく 石川寿恵
姉に荻妹に萩と名づけたるみおやのこころ問はで別れぬ 合田はぎの
水芭蕉咲きたりといふ岩清水こころひかれてのぼり来にけり 前田一京
風に乗りて父のみたまの帰りけむ軒の提灯ゆれやまずけり 鈴木巴
秋雨のそぼ降る宵の部屋ぬちは磨る墨にほふ身に泌むほどに 市川清
百日紅白き花房風そひて今を盛りと咲き誇りけり 望月すわの
水盤の前に座りてしばらくを菊の香りにひたりゐにけり 望月幸恵
無惨にも機体はくだけ飛び散りて水漬く屍は見えずありとふ 遠藤静枝
沈黙の叡智のひらめき放ちつつ白百合朝を庭に咲き出づ 佐藤とき子
今日はどこ明日はどこへとあきなひの行く先き先きをおもう毎日 佐野かつ代
萱の根を掘れば青き芽育ちゐし春のいぶきを待つ草にして 川窪リエ
早春の光をあびて夫の押す耕転機まぶしく光りをかへす 天野和子
刈る萱の中にまじりて山萩の花こぼるれど鎌まきよする 伯耆よし恵
故郷の歌のリズムのなつかしさ四十年はいつ去りゆきし 望月富恵
幾歳を待ちわびたりし今日の日ぞうれしさあまりて涙のみ湧く(子の結婚) 望月くに子
よべ活けしエリカの花のこまやかさあさひをうけて色あざやかに 佐野嘉津恵
徹りたる強きこころの無きところ自治も自由もなにあらめやも 遠藤素人
ウ、かおり会
帯金小学校PTAの有志のグループで、望月三枝子を中心に毎月1回歌会を催し、歌を通じて心のふれあいを求めている。
訪問着輝くばかり着こなして二女めぐみ今日成人式なり 大久保としみ
コスモスの花一輪を浮かべつついずこへ水の流れゆくらん 伊藤香之枝
青空を映して楽し露天風呂寄せ合う肩に萩の花散る 高山民子
結婚の記念日なりと吾が夫は真珠のネックレス買いてくれたり 依田智恵子
仏壇の吾子の写真ながめつつ心ゆく迄泣きし吾なり 伊藤京
ひたむきに友と詠みたる歌なりきよき思い出にしたためおかん 高野とし子
病床のわれ見舞われるグループの顔、顔、顔に涙ぐみたり 深沢君江
とりどりに咲ききそいたる花々に種を送れる友を偲びぬ 高山たまき
団子花かざればここも小正月のけはいあたりに満ち満ちて来ぬ 千須和香悦子
それぞれにポーズをとりて並びいるカメラの前のあどけなき顔 吉野秋子
大学の自治を論ずる吾子三人おのもおのもにゆずることなく 望月三枝子
エ、美知思波身延支部
昭和24年、清水利喜子、松野光代、森田幸子、中山トモヨ達が中心となり美知思波身延支部を結成した。
飯富の若尾武雄や先輩を招いて毎月1回歌会を開催し作歌、歌評等の指導をうけた。また、美知思波主催の吟行等にも参加し勉強を続けた。
吾が庭の畑の一くま堀りならし今まき終えむ草花の種 清水利喜子
野呂川の谷間に湧きし朝霧が仙丈ヶ岳をおおいて登る 望月勅雄
山腹の家にいつとせ棲みつきぬ屋根低くして展けたる視野 一宮興一
土を掘り石を重ねしカマドにてフライパンの油すでに沸騰す 松野光代
一ところに吹き寄せられて物干の洗濯物のぬれて居りたり 森田幸子
紅生姜刻みつつゐて君を恋う今宵ひそかに逢いたかりけり 小笠原美恵子
雨だれのしきりに聞ゆる土間にゐて兄は草履を編みつづけており 市川和正
廻廊をくぐりてゆけば蝉しぐれほしいままなる寺の庭なり 大原はるえ
いらだてる思いは言はじ水仙の小さき花に眼をそそぎおり 中山トモヨ
包丁を持つ手危ふく瓜きざむこの音を誰かきいているべし 市川田津
窓あけて臥しつつ見ゆる崖の上肺病起きろとトラックが行く 赤池慶四郎
裏畑にこぼれ穂拾う鶏は雨降るなかに尻を下げつつ 鈴木恭子
層雲の上にすみたる月ありて白サフランの花のへに来つ 穴山節子
オ、その他
一代の勝負をかけてわがつくる城のかまえに似たる池哉 松野大椿
(二)身延を歌った和歌
立わたる身のうき雲もはれぬべし妙の御法の鷲の山風 日蓮聖人
なにゆゑにくだきし骨の名残ぞと思へば袖に玉ぞ散りける 元政上人
雨しのぐ身延の里の柴垣にすたちはじむる鶯のこゑ 西行法師
山河の滝津瀬よりもいきほひは流れてはやき老の浪かな 日遠上人
来て見れば袖に涙の時雨沢なき遠き日の跡と思へば 養珠院殿
梅の花みのぶの沢ににほいてはむかしながらの春のしのばる 姉崎正治
甲斐はよし身延の山に日蓮のいともありがたきお骨を置く 吉井勇
巻き立つや眼下はるけくこもりたる霧ひとところ乱れむとして 若山牧水
名木の枝垂れざくらは葉となりてふかぶかと雨の中に鎮もる(身延山) 中大路佳郷
おのづから世俗のちりのあらわれて濃霧の中をのぼるゴンドラ 中大路千代子
(三)身延の歌碑
所在地 身延山三門わき慈済橋のほとり
建立 昭和36年10月22日
塵点の刧をし
過ぎていましこの
妙のみ法にあいまつりしを
賢治
昭和文壇に輝く巨星である宮沢賢治の作品は、宗教と文学と科学を融合させた特異のものである。この歌は宮沢賢治が病床でつづり死後に発見されたいわゆる「最後の手帳」にはさんであった紙片に書いてあったもので、自分の死期の迫ったのを感じた賢治が、今生において法華経に遭遇したのを無上の喜びとしてしたためたものである。
三、漢詩
望月鶯渓
○帰県口号 ○選挙所感(大正六年)
万死経来身世艱 平生私淑在前賢
豈期生再入郷関 一剣磨来二十年
回頭十有余年夢 恰好桜桃迎我日
今日秋晴満峡山 春風又向故郷空
○到 身 延
山上霊場絶世塵
太平橋上梵声新
即身成仏非吾志
生死唯期報国民
小林峻山
○祝於身延新庁舎之竣工賦呈(身延新庁舎の竣工を祝し賦して呈す)
日蓮聖境鷲峰彷(日蓮の聖境鷲峰の彷ら)
愛見水明山紫郷(愛し見る水明山紫の郷)
新庁巍然極輪奐(新庁巍然として輪奐を極む)
包蔵町政万年光(包蔵す町政万年の光)
○敬老会場表於感謝
官遊回首幾春秋(官遊首を回せば幾春秋)
歳過杖朝躰尚遒(歳は杖朝を過ぎて躰遒し)
敬老会場喜何極(敬老会場喜び何ぞ極らん)
感銘溢涙自然流(感銘溢れて涙自然に流る)
佐野示羊
示羊は水戸浪士前木理左衛門藤原利房について7歳から12歳まで漢学を学び漢詩に心を惹かれ漢詩を友とするに至っている。
○恭賦恩賜林御下賜五十周年記念
累年災害達天宸(累年の災害天宸に達す)
聖徳無辺雨恵仁(聖徳無辺恵仁に雨ふらず)
五十周年山蔚  (五十周年山蔚  )
咽皇恩百万県民(皇恩に咽びなく百万の県民)
○新年即事
富川千古碧流同(富川千古碧流同じ)
  十年  白翁(   す十年  白の翁)
万里延々長堤椿(万里延々長堤の春)
帰鳥相逐入篁中(帰鳥相逐いて篁中に入る)
松野大椿
大椿は茅原華山を師とし、作詞に情熱を打ち込み、その数、千余首に及んでいる。最近の作二首
○水産省新設論稿了賦律三首録其一(水産省新設論の稿了り律三首を賦し其の一つを録す)
一代辛酸世路殊(一代の辛酸世路殊なり)
敢傾卑陋問江湖(敢て卑陋(ひろう)を傾けて江湖(こうこ)に問はんとす)
書繙万巻懐  鶴(書(かみ)は万巻を繙きて  鶴(こうかく)を懐ふも)
躬跨三朝喟腐儒(躬(み)は三朝に跨(わた)り腐儒(ふじゅ)を喟(なげ)く)
黄鳥頻吟通水底(黄鳥頻りに吟じて水底にも通い)
皓花初笑照山嵎(皓花(こうか)は初めて笑い山嵎(さんぐう)を照す)
微言献替輪功未(微言(びげん)の献替(けんたい)功を輪(いた)せしや未(いな)や)
静眺游魚独守愚(静に游魚(ゆうぎょ)を眺めて独愚(ひとりぐ)を守らん)
○述懐
避俗椿山奥(俗をさく椿山の奥)
創池草里頭(池をつくる草里のほとり)
白雲孤鶴憩(白雲孤鶴いこい)
碧水万麟游(碧水万麟およぐ)
拓地男児業(地をひらくは男児の業)
済民君子憂(民を済ふは君子の憂)
如今鮮自在(如今鮮自在なり)
何羨翰郎舟(何ぞ羨まんや翰郎が舟)
市川甲陽
○偶成
蕭々落木富川頭(蕭々たる落木富川頭り)
殷々鐘声出谷幽(殷々たる鐘声谷より出でて幽なり)
回首乱山重畳処(首を回せば乱山重畳の処)
雲流忽認酒家楼(雲流忽ち認む酒家の楼)
○昭和二十三年
徒送余生野水浜(徒に余生を送る野水の浜)
煮餅茅屋楽清貧(茅屋に餅を煮て清貧を楽しまん)
山川瑞色春将動(山川の瑞色春将に動かんとす)
恭拝初陽一介民(恭しく初陽を拝す一介の民)
四、その他
山内一史
下山の山内家に生をうけ、市川大門町に歯科医を開業、若くしてこの世を去ったが多くの文人と交り「熟柿」、その他数編の著書にその天禀(びん)を現わし、峡中文壇にその名を馳せた一史は身延が生んだ逸材である。
  
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