第二節 書道

一、身延山全国書道展覧会

 昭和23年、身延山全国書道展が、加藤雲洞(松戸市)後藤松渓、市川雲渓等の努力により、身延山久遠寺主催のもとに祖山学院(現身延山短期大学)を会場として開催された。爾来、中里日応、若尾雲峯、野島小舟、池上荒一、佐野淳司、佐野越堂、長田白水、依田竹邸、望月七弥等の協力により15ヵ年間つづけられ、本町書道教育の振興に大きな足跡をのこした。
 昭和28年、身延町教育委員会が発足し、中里日応が教育長に就任したのを期に、教育委員会がこれを主催し、29年、山梨県教育委員会と共催となり、豊道春海(現芸術院会員)を審査最高顧問にむかえ、更に文部省より、地方展としては類を見ない文部大臣奨励賞を一般部、学生部各一の交付をうけ、ますます発展の一途をたどった。審査員も県内より内藤香石(現日展審査員)、大橋堯山、金子玉山、荒井碧堂等、県外より中村春堂、三室金羊、三室小石、船橋春甫、杉浦玉濤、松田江畔等、更に34年より沖六鵬も加わり、最高の指導者のもとに運営され、身延小中学校屋体を会場に、出品点数4,000点を超える盛況をつづけた。
 しかしながら、昭和37年、第15回展を最後に種々の事情により中止のやむなきにいたった。

二、過去の書道家

 釈雲山 大野山本遠寺第四十一世住職で昭和3年(1928)より昭和11年(1936)までその職にあった。当時、昭和の三筆といわれその能筆をうたわれた。しかし本町に在住することが少なかったので、その墨跡はすくない。
 加藤雲洞 日蓮宗僧侶 昭和5年より15ヵ年間、本町に在住する。その間、身延山祖山学院、県立身延中学校で書道の教鞭(べん)をとるかたわら塾(じゅく)を開いて指導にあたり、書道の町としての名声を高からしめた。その薫陶をうけた人々が現在身延町書道の中心となっている。松戸市に転居後も第1回身延山全国書道展より、第15回までその中心として指導された。また、日本書道院の総務として書道界に貢献された。昭和42年、松戸市において逝去する。

三、現在の書道家

 市川雲渓 加藤雲洞に師事する。日本教育書道連盟審査員、日本教育書道連盟能力検定試験委員、大阪書道研究研精会総務として活躍するかたわら、塾を開き指導に専念している。
 中里日応 加藤雲洞、上田桑鳩に師事する。身延山短期大学、県立身延高等学校の書道指導を担当のかたわら塾を開き、近隣子弟の指導にあたっている。
 若尾雲峰 加藤雲洞に師事する。身延小学校教諭、身延高等学校書道講師を歴任し、現在塾を開き、児童、生徒の書道指導に専念している。
 望月松洞 市川雲渓に師事する。特に役場職員と余暇を利用して書道を修練しその技術向上を図り、身延町が山梨県町村事務能率増進協議会書道の部に優秀な成績を収めているのはその指導に負うところが多い。かつて塾を開き児童、生徒の書道指導に貢献した。