第四節 死亡とその原因

 本町における最近の死亡率は表1のとおり全国平均に比べて高い数を示している。これは若年層の都会流出により、町総人口の中で中老年者数の多い事に原因しているものと思う。
 死亡の原因は、表3のように中枢神経血管損傷が死亡順位中第1位を占めている。心臓病や悪性新生物も高位を占め、結核は低位にある。老衰が第3位から第4位の間にあるのは、医術の進歩により平均寿命が延びたことと、人口分布が青年層の転出により老年層に片寄っていることを物語っている。将来は医学の進歩により、中枢神経血管損傷をはじめ心臓病や悪性新生物の治療等も飛躍的に進歩を遂げることが予想されるので、平均寿命も年とともに延びて行き、やがて死亡順位第1位に老衰が掲げられる日も遠くないであろう。
 本町は久遠寺の所在地であるため、全国から多くの参拝者が集まってくる。これらの人々の中には不幸にして行路病者や、行路病死者となる者もかなりの数に上る。中には死を覚悟し、死所を得るため身延を選ぶ者さえある。昭和32、3年頃には心中が流行しその数も多かった。

  表1  身延町死亡率
(人口1,000人対  単位%)
年度
   区分
昭和35 昭和36 昭和37 昭和38 昭和39 昭和40
  身延 9.9 8.0 10.2 9.2 8.0 10.2
比較 山梨 8.3 7.9 8.3 7.6 7.9 8.3
全国 7.6 7.4 7.5 7.0 6.9 7.1
県衛生統計表による。

  表2  地区別年次別死亡数と率
地区
数・率
年次別
下山 身延 大河内 豊岡 合計
昭和38 16 6.7 45 9.8 29 7.1 19 8.8 109 8.2
昭和39 14 5.9 35 7.6 32 8.0 25 11.8 106 8.1
昭和40 12 5.1 45 9.9 33 8.4 21 10.4 111 8.6
昭和41 16 6.9 32 7.1 23 6.0 19 9.3 90 7.1
昭和42 24 10.4 39 7.7 30 7.7 18 8.7 111 8.7
昭和43 26 11.5 42 7.6 30 7.9 18 9.1 116 9.3

  表3  死因順位
順位
死因別
年次別
1位 2位 3位 4位 5位
死因 死因 死因 死因 死因
昭和38 中枢神経血管損傷 23.6 心臓病 20.8 悪性新生物 13.2 老衰 10.4 不慮の事故 4.7
昭和39 心臓病 21.6 中枢神経血管損傷 18.8 老衰 16.2 悪性新生物 15.2 結核 3.7
昭和40 中枢神経血管損傷 22.5 悪性新生物 13.5 老衰 12.6 心臓病 10.0 不慮の事故 8.1
昭和41 中枢神経血管損傷 20.0 心臓病 17.8 悪性新生物 16.7 老衰 15.6 不慮の事故 11.1
昭和42 中枢神経血管損傷 21.6 悪性新生物 16.2 老衰 15.3 心臓病 14.4 肝臓疾患 7.2
昭和43 中枢神経血管損傷 20.7 心臓病 19.0 老衰 16.4 悪性新生物 14.7 不慮の事故 6.0

  表4  年齢別死亡数と率
年齢別
年次別 数・率
0〜5歳 6〜10歳 11〜15歳 16〜20歳 21〜25歳 26〜30歳 31〜35歳 36〜40歳
41 7       2 3 1 3
7.8       2.2 3.3 1.1 3.3
42 3 1   1   1   2
2.7 1.0   1.0   1.0   1.8
年齢別
年次別 数・率
41〜45歳 46〜50歳 51〜55歳 56〜60歳 61〜65歳 66〜70歳 70歳以上 合計
41   4 2 8 7 17 36 90
  4.4 2.2 9.0 7.8 18.9 40.0 100.0
42 2 2 3 8 7 14 67 111
1.8 1.8 2.7 7.3 6.3 12.6 60.0 100.0

  表5  月別死亡数と率
月別
数と率
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 合計
13 5 10 11 12 6 9 6 9 13 5 12 111
11.7 4.5 9.1 9.9 10.8 5.4 8.1 5.4 8.1 11.7 4.5 10.8 100.0

 これらについては町では予算をおいて手厚く取り扱っているが、明治以来毎年功徳会へ助成をして、行路病者の収容や病死者の埋葬等の事業を援助した。このことについての旧身延町昭和6年(1931)身延町議会議決書を参考までにあげると
 一、救恤
1、身延山功徳会ニ金七拾円ヲ補助シ救助ニ努ムル様ナシツツアリ
2、行路病人救護及死亡人取扱ニ関スル状況
  行路病人ナク死亡者参名アリタレバ各々ニ適当ナル方法ヲ講ジタリ
との記録がある。身延山功徳会長谷川寛慶の言によれば、明治39年(1906)以来昭和20年(1945)までに、行路病者約500名、行路死者約200名を取り扱ったということである。