第三章 国民健康保険事業第一節 総説国民健康保険事業は、相互扶助の精神を基本として、疾病・負傷・分娩および死亡に関し、保険給付を行なうことを目的として、昭和13年(1938)7月より実施されてきた。すでに大正11年(1922)からは、健康保険法が施行されており、会社、工場など比較的大きい事業所の従業員が被保険者となり、保険運動が行なわれていたが、国民の大部分を占める、中小企業・労働者・農民を対象とした保険制度はなかった。 国民健康保険制度誕生の、大きな動機となったものは、昭和初期におけるいちじるしい不況である。 この時期(昭和5年−10年頃)における経済恐慌は世界的なものであり、わが国においては、当時貧困な小作農が多かったため、経済不況のなかにあって、とくにひどかったのが農村恐慌である。 農家経済更生のため行なわれた家計調査の結果、貧困農村経済のなかにしめる医療費の額が、相当高い割合を示しており、疾病−貧困の連鎖関係が明らかにされた。 ここで農村における医療の確保、医療費の軽減をはかるための政策が必要となり、農家だけでなく、ひろく一般国民の健康保障という観点から、国民健康保険制度の構想が考えられることになった。この構想のもとに調査が進められ、昭和8年(1933)内務省の外局(社会局保険部)で研究が始められ、昭和9年7月、国民健康保険制度要綱案が、世論を問う意味で非公式に発表され、構想が具体化された。同10年政府は、社会保険調査会の答申をえて、国民健康保険法案を作成し、昭和12年3月、第七十帝国議会に提出した。 この前年には、軍事クーデター二・二六事件があり、岡田内閣は総辞職して、陸軍大将林銑十郎内閣が成立し、政治へ軍閥の介入が顕著になり、政局不安定のうちに、法案は衆議院を修正のうえ通過、貴族院に送付されたが、委員会報告可決成立寸前に、衆議院が解散されたため、ついに法案は不成立に終ってしまった。 しかし、同年ふたたび国会に提出され、ようやく昭和13年(1938)4月1日法律公布、7月1日実施となった。 以来、この制度は幾多の法律改正により、改善がはかられた。組合の強制設立加入義務強化などにより、第二次世界大戦末期には、全国ほとんどの町村に組合が設立されたが、昭和20年敗戦となり、急激な社会情勢の変化、経済界の変動によって運営困難なものが多く、国民健康保険事業を休廃止する町村が続出した。 昭和30年2月11日身延・下山・豊岡・大河内の旧4カ町村が町村合併して新身延町となったが、このとき保険事業を行なっていたのは、昭和24年4月1日事業開始した旧下山村だけであり、合併条件として下山地区だけは、新町移行後も事業が継続されてきた。 昭和33年12月、国民皆保険体制を整備するため、新国民健康保険法を制定し、全文改正したが、身延町では昭和35年2月1日より全地区実施となり現在まで事業を継続している。 |