二、橋梁

 身延橋
 身延町の橋の数多いなかで特異な存在として、身延橋のことをあげなければならない。富士身延鉄道が開通した大正9年ごろは角打と大野の間の交通は渡船にたよっていた。
 現在の富士川は、日本軽金属株式会社の発電のため塩之沢でせきとめられて平常は僅かの水が流れているのみであるが、当時は球摩川・最上川とともに日本三大急流の一に数えられ、激流がとうとうと流れる大河であった。ときには仮橋がかけられることもあったが、一たび大雨があればたちまち流失してしまい、また渡船も渡せないという始末で、さらに夜間は就航しないなど現在に比べると全く不便なものであった。
 富士身延鉄道の最終列車(午後8時53分)で身延駅へ降りても富士川を渡ることができず、空しく一夜を対岸で過すということもあった。
 富士身延鉄道株式会社は、この不便を除くため身延橋架橋を計画し、大正10年(1921)1月12日に着工し大正12年8月18日、当時としては吊橋で東洋一を誇ったともいわれる現在の身延橋が完成したのである。ちなみに本橋の概要をみるにおよそ次のとおりであった。
一、鋼鉄製つり橋
二、132間(237.6メートル)中央径間70間(126メートル)両側径間31間(55.8メートル)
三、鉄塔の高さ47尺(14.1メートル)
四、橋上路面幅2間半(4.5メートル)
五、つり鉄索直径1インチ16分の1のもの28条(片側14索)
六、高欄の高さ8尺(2.7メートル)
七、鉄材総重量265トン
八、起工 大正10年1月12日
九、竣工 大正12年8月18日
一〇、総工費 50万円
 この身延橋が開通すると会社では、県の認可を得て次のような渡橋賃を徴収した。
一般通行人  片道10銭
自動車1台  30銭
馬力     15銭
人力車    10銭
 しかし身延村と大河内村の村民には、会社から無賃渡橋証を交付して無料の特典を与えていたが、その他の地区民や旅行者には評判がよくなかった。この有料橋も、昭和16年(1941)5月1日、富士身延鉄道が国に買収されたことによって身延橋も山梨県へ移管され、同年7月14日より無料となったのである。
 ちなみに、大正12年7月1日現在における身延参詣に関係する交通費をみると、およそ次のようであった。当時の大工さんの日当が70銭ぐらいだったというから随分高いものであったといえる。
一、富士身延鉄道は1日5往復運転で、富士身延間2時間30分、2等運賃2円58銭、3等運賃1円70銭
二、富士川飛行艇は、鰍沢、身延間1日3往復、賃金は上り3円、下り1円70銭
三、富士川鰍沢身延間船賃1円
四、甲府、鰍沢間バス1円、鉄道馬車40銭
五、身延橋三門間人力車90銭、高等馬車40銭
 新身延橋の架橋へ
 大正12年以来40年余を経て、最近の車輌の大型化、重量化と交通量の激増のため、長い間親しまれてきた身延橋もようやくその任務を終え、新しい橋に使命を引きつぐ時がきた。
 すでに昭和36年にはそれまでの木材からアスファルト舗装へと橋の路面改修工事が行なわれたが、その後破損が目立ち、幅員、強度とも現在の交通事情には追いつかぬ老朽橋となり果てた身延橋は、ダンプカーの重さにきしみ、無気味な振動をおこして、あえぎながらじっと酷使に堪えている姿はいたましいばかりである。
 このままでは、交通の円滑、安全という面からも放置できないと、昭和42年10月町議会の発議により、当局と一体の「身延橋架替促進期成同盟」が設立され、県および建設省へ実情を訴えて強力な運動を展開した。この運動は大いに効を奏し、43年に時の保利建設大臣の実地視察も行なわれ、44年度2,000万円の調査費が計上され、国庫補助と県予算により、45年度より県工事として約4億円で現身延橋のすぐ下流へ新身延橋(鉄筋コンクリート)が架設されることになったのである。
 この新身延橋の完成をまって現在の身延橋は撤去されることになっており、大正から昭和にかけて永い年月、数百千万の信徒や地域住民の足をささえ、郷土のシンボルとして親しまれて来た威容もあと僅かの寿命かと眺めるとき、いささかのさみしさを覚えるのは町民共通の感慨であろう。
 早川橋
 身延町の北端早川の急流にかけられた早川橋は明治35年(1902)頃第1回木橋をかけ、大正9年(1920)ごろ木製塔式によるつり橋をかけた。当時の橋大工頭梁は大子山望月喜八の手により、雨畑のみねばりの木を使った。また、第3回の現在の早川橋の竣工は昭和9年9月で、長さ161.25メートル、幅5.5メートル、設計荷重11トン、型式は鋼橋、三径間、工費9万1,800円である。この橋に改築される前は総欅作りのつり橋であったが、大正から昭和にかけて山間地の谷間に当時としてはハイカラな姿を誇って、現在の早川橋にならんで山梨交通の早川橋停留所の場所に架けられていたものである。
 新早川橋
 下山上沢から早川橋に至る2.6キロメートルの国道区間はカーブが連続する狭隘な道路で、交通上の危険も多く、非常な迂回路であるため、対岸飯富に直通する新橋の架設が地域住民および利用者の多年の要望であった。建設省はこの要望に応え昭和41年8月30日より新早川橋の架橋に着手、工費2億7,000万円で上沢と飯富を結ぶ総延長2,170メートル(橋架部分557メートル、幅員8.5メートル)の新路線を建設、43年3月23日竣工式を挙行した。橋は最新の技術を駆使した三径鋼製罐桁方式で、工法はケーソン方式によった。広大な早川河原をひとまたぎに、旧国道5キロメートル余を一挙に2.88キロメートルも短縮し、夜間照明も万全に高速道路なみの快適さでアッという間に中富町と身延町を結ぶ。この橋の完成は、本町の道路史上でも画期的なことであり、甲府への時間距離を大きく短縮したと同時に、隣接町村との広域行政の可能性をもたらしたという意味でも大きな意義をもつものである。なお、新早川橋に至る旧国道は舗装改修し県道に編入された。
 大城川橋
 大城川の相又地域にかかる橋で、昭和34年3月着工、昭和34年12月竣工、設計荷量第1種20トン、橋種型式PC桁橋、工費1千340万円であった。
 栄久橋
 現在の栄久橋は昭和3年2月25日に工費25,000円をもって架橋したものであるが、以前の橋はつり橋であって大正期に入って急速に交通機関が発達するにおよんで、つり橋では耐えられないという時代の要請から現在の立派な永久橋が架けられたもので、その後梅平を縦貫する道路が、ますます重要性を帯びて県道となり、さらに国道となるにおよんで幅員の狭さがさらにこの改修を必要とし、昭和43年度に拡幅工事が行なわれ現在の橋となった。
 波木井橋
 以前は、木橋で、身延村当時はハイカラ橋などと村民も呼んでいた。昭和4年3月、総工費5万3千余円をもって着工し、同年12月26日に竣工したもので、当時鰍沢−万沢間の県道中最も立派なものであったといわれている。
 以上が国道52号線に架けられた橋であるが町内の主な橋に太平橋がある。
 太平橋
 昭和2年5月着工、同年8月31日竣工したもので、擬宝珠をいただいた真紅の高欄は、霊山の玄関口を飾るにふさわしい橋で本町の名所ともなっている。
 富山橋
 県道野呂川波高島線にかかっている橋で、当時は早川入り地域から搬出する木材を、身延線波高島駅から貨物車輸送のため利用されるのが重要な用途で昭和9年8月木橋として着工されたが、数度の富士川増水で流失のうき目にあい、村当局と地元民の運動により、昭和27年8月になって鉄橋の工事が始められた。県予算の関係から逐次一径間ずつ竣工され、昭和28年に三径間竣工、その後昭和30年、昭和42年11月と径間を延長して完工のはこびとなった。