二、通信電信電話の町内事情

(一)電話架設の歴史
 大正9年(1920)富士身延間の鉄道が開通、11年には大野トンネル開通、翌12年身延橋が開通されるなど、この頃身延の交通運輸は大きく飛躍し、急速に便利となった。それでこんどは電話要望の声がもり上ってきたのは当然であったろう。関東電信電話100年史に次のようにある。身延山久遠寺が相当援助したようだが、詳細は不明である。この通話事務に当たっては甲府身延電話線が新設され、接続局は甲府と身延、それに身延と同時に通話事務を開始した下山の3局であった。しかし、電話が施設されても局の電話1本だけでは不便なので、特設電話交換開始の運動がもり上ってきた。当時、小林銀行の身延支店の小林豊三が発起人となって、まず特設電話組合を作り、身延山久遠寺でも約1万円寄付したということである。翌14年の交換開始にあたって局舎は当時としては立派すぎるくらいのものを建て、1階を窓口、交換室、郵便関係その他とし、2階は集会所などに使用した。
 電話番号は2−4番を身延山のものとし、42・44・49番のように人にきらわれるものを除いて抽せんした。小林銀行が22番、松井坊が8番にあたったが、銀行が本店の小林八郎衛門にちなんで8番を欲しがったので、22番と8番をとりかえた。また、29番も「にく」といって人に謙われる番号であるが、これを「ふく」とよんで獲得した人がある。
 また、昭和25年の身延教報誌「身延町の今昔」にも、次のように書かれている。前年猛運動の結果認可された特設電話組合による特設電話も山内加入者五四名を以ていよいよ六月十六日より一般通話が開始された、当時政府は所謂(いわゆる)緊縮方針で架設は困難であったが、出願が前年であったと云う理由で許可されたが、これも身延が単に一発展地という理由のみではなかったことは勿論である。(中略)電話開設は電灯の時と同様に山中の老人子供には珍しがられた。
 特設電話というのは、開設に要する物件の寄付を官が受けて電話を架設することであるが、これにも認可を必要としたのである。身延山久遠寺の援助と、身延特設電話組合の積極的な運動が開通を早めたのであろう。身延郵便局に1本の電話がついた大正13年の翌年6月16日には、54加入者の電話が開通して、交換事務が開始されたのである。西八代・南巨摩両郡下では鰍沢、市川大門、青柳についで4番目であった。
 最初の加入者の中には区域外の身延駅付近から9軒も加入しているが、身延山参拝者などによる商取引の関係だったろうと想像される。また当時大河内郵便局は、12年1月に大島より駅前に移転したばかりで、集配局であるが電話通話事務もなかったためと考えられる。
 特設電話開通を当時の身延教報誌は次のように伝えている。
   特設電話愈々通話
 報せし身延特設電話いよいよ去十六日より一般通話ができるようになった。山内の加入者は五十四名である。甲府、鰍沢、岡谷、八王寺、東京方面との普通通話料は甲府鰍沢方面は十五銭から二十五銭で、岡谷三十銭、東京四十五銭にて一通話は三分間である。因に来る二十一日県知事以下県会議員其他を招待して盛大なる開通祝賀会を開くさうである。(六月十七日号)
   身延電話の成績
 去る六月十六日から通話を開始した身延特設電話当月分の通話数を聞くに、市内通話数は一日平均五百乃至六百、市外通話は半月合計発信四八六、着信四三〇通話で此通話料百二十円であった。(七月十七日号)
 開通祝賀会はさぞ盛大であったろうが、残念ながらその様子は不明である。そして、開通時の利用度は1加入が1日平均市内10回も使用している。市外は0.7回であるが市外回線甲府−下山−身延の1回線だけで1日60回以上の通話であったのでこれが限度であったと思われる。結局市外通話には不便であったため、電話組合は静岡県との回線設置の運動を起した。すなわち、身延教報誌に次のように記されている。
 更に延びんとする甲駿二国の連絡通話
 身延地方より静岡県下に至る甲駿連絡の通信機関は富士身延鉄道の延長と共に益々、必要なるに拘らず、現在郵便、電信、電話の凡てが東京を迂回する始末にて不便尠なからず就中其の影響を蒙むるは接続地たる身延地方なる為、大正十二年四月身延特設電話架設計画に際し身延本山を始め南巨摩郡睦合村、西八代郡栄村並に大宮町等の沿道各町村長郵便局長等が、時の逓信局長田辺七六に会見具申の結果、同氏も本県出身の関係上その必要を痛感し、聯路回線架設を快諾された。然るに不幸震災並に同局長更送等のため頓挫し、昨年四月二十六日辛じて甲府身延線開通、更に本年六月十六日身延特設電話の開通を見たのであるが、未だ甲駿二国連絡の効用なき旨有志の引続き運動の結果、今回漸く許可の内示ありたるを似て之が対策を講ずるため、身延特設電話組合では、八月五日身延町に総会を開き協議を遂げ、大宮町、睦合村等の関係町村と相呼応して、これが達成を期する事にした。因に本電話は一万二千円の費用を逓信省に納入の要あり、該回線開通によって有利の影響を有する大宮町外静岡、沼津、清水の三市並に沿道諸会社等より応分の寄付も纒り居れば、案外容易に進行することと観測されて居るが開通後は名古屋、京都、大阪との通信可能の由にて非常に便利となる訳である。
(大正十四年九月三日号)
 身延山を始め各町村等の寄付金の額は不明であるが、とにかく翌15年12月26日、大宮線(大宮−南部−身延)が開通している。
 身延山郵便局の電話もこのようにして出発したが、昭和20年までに95加入で大した伸びはなかった。しかし、敗戦後は急速に増加して、昭和43年電通合理化時には440加入であった。また市外回線数も50回線となり、交換台は市内5台、市外9台の計14台が並び、無集配局ながら特異の電話通信の集中局として峡南地区の中枢をなしていた。

身延山郵便局の電話加入者数の推移
 大 13 1
   14 57
 昭 5 69
   10 87
   15 94
   20 95
   25 119
   30 208
   35 259
   40 352
合理化時
   43
440

 下山、大河内両郵便局の電話も特設電話で始まっているが、身延山郵便局と異なり、地元有力者と郵便局長が相当の犠牲を払って今日の基を作ったのである。
 下山局は身延山局と同時に大正13年4月26日から通話事務が開始され、甲府−下山−身延の共同回線が利用されたが、電話架設要望の声は2、3年後である。先ず「下山特設電話組合」が作られた。役員名をあげると、山内椿房、遠藤半弥、芦沢九左衛門、佐野信一、望月伝一(イロハ順)の5氏であったそうである。
 25名以上なければ認可されないというので、役員諸氏は商店等も勧誘して何とか30名獲得に成功したが、中途であれこれいう人もあって10名が脱落してしまった。勿論この金策が大変だったようで、地元有力者、個人金融、甲府の無尽会社等を奔走して、一応連帯債務ということで、昭和5年1月21日、20加入が開通した。
 しかしながら、開通後は結局役員がそれぞれ2、3件ずつ債務を受持つようなこととなったが、郵便局長(芦沢九左衛門)は5件を負わされ、完済となったのは何と昭和21年であった。
 電話開設功労者というべき5名の役員中4名まではすでに他界され、現在その労苦の思い出を語る人は山内椿房1人のみとなってしまった。
(下山局長芦沢忠男談)
 身延郵便局(身延山局)の電話開通54加入(大正14年)中、門前町周辺が殆んどであるが、身延駅周辺の大河内局区内の9加入が区域外で開通しているのは、他に類例のないことで特異地域を物語るものである。
 当時大河内郵便局は大島より身延駅前に移転(大正12年1月)したばかりで、郵便集配、貯金保険事業に専念していたのであろう。しかし、昭和4年新任早々の大河内局長佐野弥録は電信電話の取扱開始に積極的に努力した。その頃電信事務開始にあたっては請願によらなければならず、いわゆる請願通信といい、逓信省の許可によって個人負担で開始することであった。大河内局長の請願によって昭和6年3月1日から電信電話通話事務が開始されたが、関東電信電話100年史には次のように記されている。
 大河内局でも局長が山林を売って一、五〇〇円を寄付したはいいが、電報収入が規定額に達せず、三年間というものは不足額をおさめていた
 電信電話の通話事務開始と共に、電話架設を要望する声が高まり、七名の組合員で鈴木音次郎を組合長とする特設電話組合を組織し、佐野弥録局長の私財二千円、大河内村の助成金三千円を開設基金として架設に奔走した。(大河内局長佐野昭談)
 そして通信事務開始の翌年の昭和7年6月11日に7加入の電話が開通して電話交換が開始された。市外回線は身延山大河内線が新設されて、遠距離通話は身延山局中継で行なった。電信もすべてこれによる電話送信であった。
 当時の社会事情で止むを得ないとはいえ、大河内局の電話発展の歴史にやはり忘れてはならないのは佐野弥録局長のこの大きな犠牲と労苦ではなかろうか。
 身延郵便局は集配局で開局も古いが、電信電話事務については身延山局が身延山久遠寺の麓(ふもと)にあった関係であろう、身延山局の方が早期に開始された。そして昭和13年10月11日に身延山局加入電話112番として電話通話業務を開始している。
 また、豊岡村相又に、第二次世界大戦勃発の翌年、昭和17年8月26日豊岡電信電話取扱所が開設されて、電報受付配達と電話通話と豊岡村役場1加入だけの交換事務が開始された。回線は電信電話共用の身延山−豊岡線であった。豊岡の電報配達区域は次のとおり(カッコ内は旧配達局)となって従来の配達局は辺地配達の労苦から解放されるようになった。
 豊岡電信電話取扱所の電報配達区
大城、門野、湯平、相又上、相又下、小田舟原の一部(以上身延山局)
横根、光子沢、大久保(以上南部局)清子(身延局)
 電話開通はその後敗戦までに、2番豊岡村役場についで、3番清子分校、4番横光分校、5番大城公民館、6番豊岡小学校が開通したが、一般加入電話でないのも当時の戦時体制を偲ばせるものである。設備も加入者負担であったので豊岡村で各部落の要所に電話をつけ部落民の利用を考えて開通させたものと思われる。
 こうして敗戦の年の6月11日に豊岡郵便局となったのである。