二、久遠寺の山林

 宗祖入山の砌(みぎ)り身延全山は南部氏より寄進され、以来久遠寺の所有になっていたが、明治維新の際、わずかに四町歩余の境内地を除き、すべて御料地に上地編入された。ために堂宇の修繕、改築用材にも事欠き、また総本山として全国の末寺を統轄し、信仰の中心霊場としての威容を保持する上にも甚だ不都合を感ずるに至った。よって薩・鑑・修三師は山林復古のために努力され、その甲斐あって、明治23年(1890)、日修上人の代に永代委託林を許可され、引続き請願を重ね大正8年(1919)79世日慈上人代全山の払下げ実現し、漸く身延山は宗祖在世時の山容に復古した。現寺有林は約800町歩である。顧みるに歴代の法主は信徒の丹誠を得て山林の経営に努めたのであるが、その中でも第42世日辰上人の事蹟は山林史から忘れてはならぬ。上人は在職5年で、明和2年(1765)10月18日80歳を持って入寂されたが、上人は植林栽培の大願を起され、その抱負と方法を後代に示教された。今日より200年以前未だ林業のいかなるものかも不明の時代に、上人の着眼は実に驚くべきものがある。また入寂の年の2月「身延山中植込十徳」を作って広く信者に頒(わか)った。上人の「栽培賞与本尊脇書」には必ずこの文を認められた。
一、三宝恭敬 二、三宝供養 三、三宝尊重 四、三宝讃歎 五、三宝渇仰 六、霊場荘厳 七、伽藍要用 八、仏神歓喜 九、見者生信 十、宿植徳本
 また小林孝三の功績も多大であった。南巨摩郡旧舂米村小林小太郎の弟であるが、明治28年(1895)より逝去まで山林部栽培主任として18年間夫妻ともに浄妙坊(今は南之坊に合併)に移住して、ほとんど1銭の報酬も受けず献身努力した。更に彼の没後その後を継いで一意専心努力された、藤巻亀吉の功も忘れることはできない。彼は大正2年(1913)栽培部主任となり、在職5年大正5年9月23日67歳をもって逝去した。
 また大正9年より山林部主事を勤めた野尻貞一の功労も逸することはできない。昭和17年退職まで23年間、植林・樹種改良・林道開発等に献身した。昭和19年12月26日80歳をもって逝去した。その他、伊東茂右衛門・金原明善・森岡平右衛門・沢田治助・小林小太郎・伊東茂三郎等があるがここには略す。
 身延山中の杉の巨木も、伐採や数次の台風によって姿を消したが、なお総門や三門裏および千本杉の美林がある。山内の杉は日朝上人が、西谷より本山諸堂を移転の時参道並木として植栽されたとも伝えられ、別伝には養珠院殿が植えられ、その補植を33世日亨上人がなされたともいわれる。千本杉は、1町歩(1ヘクタール)に1万石以上の石積あり、20間(36.3メートル)以上の大杉250本余、東洋一であり、同時に世界に誇る美林である。

三、波木井公銅像

 菩提梯の右側、いわゆる男坂上り口に、立烏帽子水干姿の公の銅像があった。法功を永久に記念するため、大正10年(1921)、身延山林払下復古成就の時に建設された。像は名匠山崎朝雲の作、鋳造は宗祖博多の銅像作で有名な、佐賀市谷口清八で、大正10年5月21日、波木井河畔より建設地まで、波木井区民を始め百数十名の手により半日がかりで運ばれ、6月17日79世小泉法主が除幕式を行なった。しかるにこの銅像も昭和19年に、銅像前左右に立てられた「山林復古寄付列名大銅標」とともに供出されて、現在はコンクリート造りであるがよく前の面影を写している。

四、久遠寺の宝物

 久遠寺は既述のように数度の火災に会い、伝来の貴重な宝物を数多く失っていることはまことに残念である。しかし宝物は年とともに次第に増加している。幸いに火魔を受けずに遺(のこ)された物の外に、亡き人の遺物として納め、追善のため、あるいは保存のため、護法のためなど種々の理由の下に寄付奉納が積って莫大な点数になっている。しかし以上のような経路で収蔵された中には、真偽も弁別せずに納めたものがあるのは当然である。久遠寺は専門家や、宗門の学者によって改めて整理する必要がある。

五、身延文庫

 珍籍に富む身延文庫は、東蔵に納められてあるが、この文庫はかつて島智良という篤学の上人が旧祖山学院教授のかたわら、明治38年(1905)より、大正2年(1913)まで研究整理され、従来模糊(もこ)として何を蔵するか不明であった身延文庫に、一道の光明を点ぜられた功績は甚大であった。大正3年6月7日比叡山留学中に世尊寺で脳溢血をもって急死された。時に39歳、師の死は掌中の珠玉を奪われたように当時の宗門人から痛惜された。
 その後大正13年9月より昭和5年5月まで、故江利山義顕が文庫主任として整理され、次いで身延山大学教授室住一妙が、昭和10年(1935)3月以来従事されたが、江利山師は「身延文庫について」、室住師は「身延文庫略沿革」においてそれぞれ研究の成果を掲げ、ともに島師の功を称えている。