(二)禅宗寺院
  1 正福山南松院 下山3221番地臨済宗妙心寺派
 現住職23世小沢常敏、開基は穴山信友の夫人信玄公の姉君で信君の母法謚南松院殿葵庵理誠大姉で、開山は天輪寺桃隠正寿禅師。本尊は釈迦牟尼如来である。本院は当初文和(1352頃)応永(1394頃)のころ現地より3キロメートル離れた増野山の南松院平にあったが、不便のため現地に移し信君の保護を受けた。信君は後家康に随従して上洛中不慮の死を遂げ、さらに、嫡男竹千代丸が早世したため信君公の養女(秋山氏娘)は、家康の内意により江戸に移り家康の側室となり万千代丸を産んだ。長じて若狭少尉豊臣勝俊女を娶(めと)り、慶長7年(1602)11月常州水戸に封ぜられ、武田族穴山相続のために武田万千代丸と号したが21歳にて早逝し、のち家康公の12男頼房公水戸へ封ぜられしため、兄弟の因由により回向料として白銀三拾両を賜わり、これから当寺は水戸殿の由寺と称し住職代わりには御目見の栄を得、御時服拝料および水戸殿御逝去の節献経礼拝年始寒暑の見舞を書面をもっていたし、本寺の修繕は水戸家でおこなっていた。
 寺領は江戸時代まで朱印25石、黒印320坪、その他山林を含む広大な寺領を所有したが、維新の際国有地になったおり旧寺域東西二町余南北一町半余およそ1,000坪のうち2反8畝になり現在にいたっている。
 建造物も、客殿庫裡玄関武田門はじめ多数の建造物をもち偉容を誇ったが、慶応2年(1866)2月14日類焼のため、宝蔵穀倉通用門浴室を残して灰燼に帰したが、明治12年(1879)客殿庫裡を兼ねて建立し現在に至っている。
 文化財として指定のものの外、古書画軸物什器等多く、夢想流の築庭の名園がある。

  2 飯飽山 天輪寺 南松院末。
 下山大庭に在って穴山、2世天輪寺殿英中俊公大禅定門と諡(おうりな)する(宝徳2年(1450)3月19日卒)河内の領域を応永初年(1294年頃)より領有した信介公の開基であって開山に桃隠大禅師が始祖となり南松院に進住し、のち退いて当寺に隠居し爾来代々の隠居寺となり、また末寺ともなった。
 由緒ある寺であったが寺領農地は開放し、堂宇を初め千体観音像等一切を昭和34年2月6日火災に遭って焼失し、今は遺跡だけがある。

  3 華岳山 龍雲寺 下山山額4614番地 曹洞宗甲府市大泉寺末。
 現住職29代 山本岳乗
 往古は真言宗で、現地より500メートル奥地の不動滝の平に創庵し不動明王を祀る。天永2年(1111)後山崖れのため現地に移る。中葉永正3年(1506)武田甲斐守信縄公(信玄の祖父)が墳寺とし、改宗開基(龍雲寺殿一株義松大居士)となる。開山は敕特賜悦江聚歓禅師を請じ、本尊に国分寺々仏の聖十一面観音像胎内に1300年前45代聖武天皇の妃光明皇后の御襟掛の舎利と御頭髪の2品を秘蔵(大正12年7月観音像の胎内より発見)し、霊験顕(あらた)かな稀代の霊像を勧請安置する。七堂伽藍は境致美を尽くし、荘厳善を尽くしたが、天正17年(1589)およびその後と再度の災火に諸堂残らず焼失し、現在の伽藍は天明年間(1781)の再建である。本堂、庫裡、山門、開基堂、稲荷堂等で諸堂はまだ完成しておらず、往時は朱印地拾石、末寺四八ヵ寺、隔年に年賀に参年し、今は末寺三六ヵ寺、山林は東西198メートル、南北132メートル、境内3306平方メートル、耕地49.6アール。檀徒は2郡25部落に散在し、宗家大屋等が多い。
 寺宝に天平、奈良鎌倉、江戸時代等に亘って皇室あるいは武田家、徳川家等からの拝領、または寄進の古書画軸物什器仏像等が多い。年中行事のうち3月15日に開山忌および大施餓鬼会を行なう。

  4 法城山 長泉寺 下山新町5239番地 曹洞宗 龍雲寺末。
 現住職11代広島慶明
 大永2年3月創立し、開基は済庵首座、開山は澆屋順壑大和尚(龍雲寺3世)である。本尊は火防将軍地蔵菩薩、甲斐守穴山武将の守護神として愛宕堂に祀られている。古くから河内領の鎮防火災の祈願所として煙火を上げ、旧7月23日に愛宕祭を行ない、450年の伝統を持ち今は8月16日に行なわれる。
 堂宇は庫裡(くり)に本堂は造り込み、愛宕堂、長屋等、山林60アール、耕地30アール、往古京都の仏閣に擬(なぞら)えての清水観音、愛宕堂の2院の併寺である。

  5 菩提山 長谷寺 下山字長谷 曹洞宗 龍雲寺末。
 兼務 山本岳乗。
 享禄3年(1560)僧恵庵を住まわせて穴山氏全盛時の建立、京都の神社仏閣に擬(なぞ)らえて新長谷寺と号し、(従前より真言宗の寺があった)本尊は十一面観音像(夾士伊勢春日の作稽文首)で、甲斐守信玄公の寄進の鰐口等があったが、今日他に散逸し、天正10年(1582)の乱に遇い多くの什物寺宝悉く散失する。観音堂、庫裡等があったが、今は寺録解放し敗壌して遺蹟だけがある。