二 身延地区

(一) 日蓮宗寺院
 身延山久遠寺(第一章参照)

  1 覚林坊 東谷
 行学院といい、開山行学院日朝上人、明応8年(1499)78歳行学院を創して退隠の処とし、翌年6月25日入滅した。朝師堂の右手小丘に上人の廟堂がある。
 明治7年(1894)11月、円応坊、信行坊を合併し、昭和24年日朝上人第四五〇遠忌を営んだ。
 現住職、樋口是端、第40世、身延山一老職。

  2 大乗坊 東谷
 朝師堂後方に在って、身延山第31世日脱上人の像を安置してある。日脱上人は晩年鷹取山麓(ふもと)に御隠栖(せい)の目的で、一円庵を建立されたが同庵が文政11年(1828)洪水で流失した際、御木像を大乗坊に安置した。
 現住職 疋田英肇 38世

  3 端場坊 東谷
 御直檀四条金吾頼基公が宗祖に随侍された旧跡で、弘安3年(1280)の創立、四条氏夫妻の御木像を安置する。夫妻の篤信は宗祖の嘉賞したもう所、また日蓮門下の亀鑑とする所である。明治7年(1874)真浄坊を合併する。
 現住職 林是幹 47世

  4 蓮盛坊 東谷
 元和2年(1616)4月、元南谷に創立された坊であるが、文政2年(1818)に修法達者の普門院日憲上人、祈祷所再興のために、この地に在った積善坊を南谷へ移転建立せしめ、その跡へ蓮盛坊を移して来て、摩利支天を奉祀した。明治7年(1874)南延坊を合併した。
 現住職 望月海旭 28世。

  5 逕泉坊 東谷
 始め南谷に「教泉坊」という寺があり、廃寺となっていたのを、東谷南延坊第15世、逕静院日泉上人が文政年間に現在地に再建して開基となった。文化元年(1804)清正公を奉祀する。明治7年(1874)林行坊を合併した。
 現住職 中山海了 11世。

  6 大林坊 東谷
 開山中老僧日源上人(正和4年9月13日化)が、正和元年(1312)9月の創立と伝える。初め東蔵坊、中頃禅定坊、円脱上人代に至って大林坊と改めたらしく、明治初年に西谷にあった至言坊を、同7年(1874)感応坊を合併した。
 願満稲荷大善神を奉祀する。
 現住職 赤松是俊 37世。

  7 大善坊 東谷
 開基大善院日辺上人(長禄2年(1458)12月12日化)は、身延山第8世日億9世日浮上人代の学僧であったが、当地へ坊舎を建立して隠栖した跡と伝える。
 先住が明治39年(1906)に設立した。福祉施設「功徳会」は迂余曲折はあったが、着々発展し、今日多数老人の憩いの楽園として各方面の支援と感謝を受けている。
 現住職 長谷川寛慶 41世。

  8 窪之坊 東谷
 開基 蓮華阿闍梨日持上人(六老僧)本応院といい、永仁元年(1293)6月の創立、上人は終始して宗祖に随侍されたが、宗祖の第7回忌に際し、発願して造立された木像が今日池上本門寺に安置される国宝の宗祖像である。また海外布教の先駆として宗門史上有名である。本山第42世日辰上人および日辰上人感得の虚空蔵菩薩を奉祀する。明治7年(1874)下之坊を合併した。
 現住職 堀一勇 39世。

  9 志摩坊 東谷
 開基 肥前公恵朝阿闍梨中老日伝上人。旧真言宗 小室山妙法寺開基、後宗祖の弟子となる。建治元年醍醐谷に草庵を結び、三ヵ年の給仕をされた。明治7年(1874)秀悦坊を合併した。
 現住職 佐藤玄守 32世。

  10 延寿坊 上の山
 開基 本山第15世日叙上人。穴山梅雪が息女「延寿院妙正日厳大姉」菩提のため天正4年(1576)創立した。疱瘡(ほうそう)の守護神として信仰される。昭和14年(1939)6月、円光庵と合併して現在地に移転した。円光庵は永見家菩提所として本山29世日筵上人代創立されたものである。
 現住職 町田是得 33世

  11 大光坊 上の山
 開基 身延山第28世妙心院日尊上人。元大光庵と称したが、明治3年(1870)第70世日祥上人代坊号に改める。寛文5年(1665)10月の創立、三光堂(日月明星天子)の別当所、境内の露座仏は京極信濃守の寄進、また宗祖御自作と伝える大黒天を祀るまた双輪塔は身延山47世日豊上人代天明元年(1781)建立になり、宗祖第五百遠忌報恩に擬したものである。
 現住職 井上是雄 27世

  12 妙石坊 西谷
 開基 学禅院日逢上人。創立元禄14年(1701)9月七面山登山に第1番目の華表がある。また高座石の遺跡があり、かつて宗祖この石上に説法し給い、七面大明神示現の処と伝える。妙法2神を祀ってある。
 現住職 奥野要俊 27世。

  13 南之坊 西谷
 六老僧日昭上人の開創である。不軽院と号する。創立正安2年(1300)明治7年(1874)上(浄とも作る)妙坊を合併した。
 現住職 南部光養 38世。

  14 智寂坊 西谷
 開基 身延山第32世智寂院日省上人、創立宝永3年(1706)正月、元東谷に在ったが、昭和7年(1932)現地に移転した。上人感得の七面天女を祀ってある。明治7年(1874)妙音坊を合併した。
 現住職 池上要輝 23世。

  15 武井坊 西谷
 開基 正行院日勢上人、創立は延享2年(1745)正月、正行院といい、元東谷にあったが昭和11年(1936)2月回禄後現地に移転した。明治7年(1874)杉之坊、善綱坊を合併した。
 現住職 大坂貞慎 35世。

  16 岸之坊 西谷
 開基 久遠成院日親上人、(世になべかむり日親師といった)宝徳2年(1450)創立、久遠成院といい、元醍醐谷にあったが、明治42年西谷に移転し、更に祖廟整備工事進捗(ちょく)に伴って昭和14年(1939)5月現地に移った。明治6年(1873)了雲坊を合併した。
 現住職 諏訪是弘 46世。

  17 樋沢坊 西谷
 開基は身延山第2祖日向上人(六老僧)で安立院という。当坊の変遷を見るに、明治43年度「天鼓」誌に旧「法雲坊」を改めて「樋沢坊」とする由の記事があり、曰く「慶応元年十二月十四日の火災に樋沢坊が焼失し、以来再建も危ぶまれたので、法雲坊(身延山第十九世日道上人閑居所)に合併して今日におよびたるが、樋沢坊は日向上人の旧跡で由緒浅からざるものあるによって、旧跡保存の上から、再び樋沢坊と改称する」とあり、爾来着々発展の途に就いたが、祖廟整備工事の進捗に伴い、本山の要請によって、昭和14年(1939)6月14日をもって現在地に移転完了した。明治7年(1874)に了源坊を合併し後円坊・玉泉坊・芳春坊を合併した。法雲坊も樋沢坊へ合併した。
 現住職 望月海淑 47世。

  18 林蔵坊 西谷
 常在院といい、六老僧日興上人開基で、創立は正慶元年(1332)正月、元は醍醐谷に在ったが、明治初年西谷に移転、明治7年(1874)隈之坊を合併した。別に西谷所在の戒善坊・慶林坊・佐倉坊を円教坊へ合併したが、さらに円教坊を明治10年(1877)林蔵坊へ合併したものである。
 現住職 芦川要俊 40世。

  19 北之坊 西谷
 開基は当山大檀越南部六郎実長公で、法寂院と号した。開創は永仁5年(1297)6月で明治7年(1874)南向坊・松林坊・一行坊を合併した。
 現住職 貴家是勝 33世。

  20 麓坊 西谷
 宝聚院といい、開基は本山第12世円教院日意上人で同13世日伝上人閑居入寂の処である。往古はこの地より身延山の嶺に登山したもので、すなわち坊号はこれに由来すると伝えられる。明治7年(1874)蓮信坊を合併した。
 現住職 丸山照雄 45世。

  21 清水坊 西谷
 龍華院といい、永仁2年(1294)龍華院日像上人、宗祖遺命の京都弘通のため、身延に登山して七昼夜御廟の下に加護を祈念したところ満願の日清水こんこんとして湧出したので坊舎を清水坊と称した。天保年間円里坊を、明治7年(1874)光精坊を合併した。
 現住職 南部光徳 30世は、先代日実の長男にして南部実長公の後裔である。日実は東京都府中市東郷寺に住している。

  22 本行坊 西谷
 開基、本行院日学上人(比企大学三郎能本)弘安9年(1286)創立し、帝釈天王を奉安する。往古宗祖御開眼の上、能本公に授与された霊像で、故あって長く思親閣に奉安されていたが、安政5年(1858)身延山67世日楹(えい)上人代に、本行坊は開基日学上人の旧跡なる故、同坊に遷(うつ)して老若の信者の参詣の便にしたものである。また八之宮日延上人の御木像、御本尊等を格護している。明治初年本種坊・西之坊・常住坊・大蓮坊等を合併する。
 現住職 下里是忠 46世。

  23 自厚山清兮寺 西谷
 菩提梯の昇り口の左手に見える寺で、74世日鑑上人が自身の隠居所として、自普請で建立された。明治18年(1885)9月22日釿初(かんな)め、19年4月落成した。しかし、鑑師は60歳をもってその年1月13日に遷化になったので1度も住居にならなかった。
 当時、既に上地官有地となっていた旧樋沢坊の跡地の払い下げを願い、明治18年(1885)10月19日寺号公称の出願をした。時の藤村紫朗県令は、明治6年(1873)から20年まで15年3ヵ月間も本県に在住し、庶政百般に亘り改善策を実行し、仏教界への風当りも強く、廃寺や合併を強行はしたが、新寺建立など特に清兮寺のように、無檀家、無禄の無資格寺院など決して普通なら許可すべき人ではなかった。しかし薩鑑二師とは接触も深く、二師の人物には一目も二目も置いていたので、この新寺建立ということも容易に承認されたものであろう。処で日鑑上人の生前には遂に完成を見なかったので、1月21日の本葬儀当日には、葬列が御草庵へ向かう途中、特に清兮寺へ小憩して御住居に擬せられたと旧記にある。同寺の本堂は鑑師の造立ではなく、くだって明治32年(1899)旧姫路城主酒井氏の室文子夫人(顕寿院長遠妙玄日唱大姉明治41年(1908)3月10日行年65歳)の喜捨をもって建立された。同夫人は毎夏必ずここに暑を避けて、読経に日を送ったという。同寺への丹精は多大であった。また十間四面御草庵旧跡のたまがきは、同夫人の喜捨によるもので、明治25年(1892)冬完成したものである。清兮寺の創立が、いわゆる鑑師の隠居所として出発したこと、また上述のように名門顕寿院夫人の同寺への尽力ということが、清兮寺を貴族的な雰囲気にしてしまい、今日衆庶参拝所として一般が杖を引かない。(明治末期から大正初めにかけて、本山関係の名士は多く同寺に宿泊した)鑑師が幕末東京堀之内妙法寺の院代を勤められた事といい、且つは堀之内の武見日怒上人が清兮寺第2代として、同寺を完成したという関係から以来堀之内の支配下に在る。
 現住職 小林教明(代務住職)

  24 定林坊 西谷
 開基 身延山第15世宝蔵院日敍上人、創立天正元年(1573)4月、明治7年(1874)通閑坊を合併する。
 現住職 望月成憲 35世。

  25 竹之坊 西谷
 開基 大国阿闍梨日朗上人、創立弘安3年(1280)9月、伝えいう八役給仕の久本房日元建治3年(1277)逝去、俗時の時3子があり、長子日進、次子日善、末弟日上各師である。日進父の蹤(しょう)を営みて竹之坊とした。日朗上人宗祖を訪ねる時は必ずここを宿とした。すなわち日朗上人を崇(たっと)び当坊開基とし、父日元を第2代とし、自ら第3代となった。第4代日善、第5代日上継承した。進善二師はともに久遠寺の3世4世を継いだ人である。
 大久保石見守の後室妙性院は石見守死後当山に居住したが、逝去後(元和4年正月17日)にその住宅を引いて当坊舎に充てたと伝う(房跡録下)数度の移転を経、また火災にあった。
 現住職 遠藤是光 40世。

  26 恵善坊 西谷
 身延山、三門新建立は第26世日暹(せん)上人代寛永19年(1642)6月(慶応元年焼失)で、当時は供御所としての別当庵であったが、恵善院日信上人(寛政10年9月11日寂)の代坊号を恵善坊とした。
 現住職 遠藤湛淳 10世。

  27 松井坊 中谷
 開基 波木井氏第3代与次郎信濃守長氏公剃髪して日長という。創立貞治3年(1364)伝教大師作と伝うる北辰妙見大菩薩を勧請する。日長上人御持仏である。明治7年(1874)西谷寂光坊を合併する。
 現住職 望月海昌 36世。

  28 円台坊 中谷
 開基 中老僧日源上人創立正和元年(1312)。開山円台坊日用上人正中元年(1324)9月30日化81歳。寿量院文珠稲荷大明神を勧請する。明治7年(1874)仙台坊を合併する。
 現住職(代務)遠藤湛淳

  29 山本坊 中谷 
 開基 六老僧日頂上人、本国院と号する。創立弘安6年(1283)正月、23夜月天子および妙翁稲荷を勧請する。明治初年に妙仙坊を合併する。
 現住職 池上玄庸 39世。

  30 花之坊 南谷
 開基 蓮華院日応上人、創立長録元年(1457)三月日応上人は積善坊流祈祷の大家で、その修行の滝を「蓮華滝」と伝える。明治7年(1874)普賢坊を合併する。
 現住職(代務)望月海昌

  31 積善坊 元町
 開基 本山第13世宝聚院日伝上人、創立天文17年(1548)12月、初め東谷に在り、文政2年(1819)南谷に移転する。身延祈祷相承は代々法主であったが、日伝上人以降この坊に伝える。22世日遠上人は同坊第2世として、祈祷相承された。積善坊流祈祷の中興には、10世日閑、12世日順上人らがあった。
 明治7年(1874)文珠坊を合併して南谷より現地に移転する。
 現住職 村松玄潮 25世。

  32 山之坊 南谷
 元亀3年(1572)身延山第15世日敍上人代創立。開基 日徳上人。明治7年(1874)円柳坊を合併、更に10年東之坊を合併する。古記によると、「元亀三年日敍上人山神を勧請し山之坊別当となり、よって山之坊と号す」とある。
 現住職 佐々木順栄 38世。

  33 鏡円坊 梅平
 旧記に、「教円坊、宝聚山円乗寺、坊号は5世日台上人なり、寺山号は日奠上人なり」とあり、今は鏡円坊と号する。日台上人の字鏡円からとった。山号宝聚山は本山第13世日伝上人によった。日台上人は波木井長氏公の2男、初め3世日進上人につかえ、更に4世日善上人に師事し、12歳にして本山五世にすすみ、比叡山に遊学すること9年、在住35年、その晩年梅平の波木井実長公の館邸を改め、鏡円坊と称し、実長公を初祖に、自ら二祖となった。先年長円坊を合併する。
 現住職 中里日応 34世。

  34 了円坊 塩沢
 開基は了円院日清大徳、詳細の事歴は不明であるが、日清大徳は文政6年(1823)2月12日化とあるから、おおむね、この頃の創立と考えられる。
 現住職 河上親弘

  35 波木井山円実寺 波木井
 日蓮聖人の大檀越波木井六郎実長公の居住跡で、宗祖が身延入山の際「草鞋脱ぎ一ヵ月停住の霊場」といわれている。波木井公は入道して弟子となると同時に居住を寺として「波木井山円実寺」の命名を受けた。開山は法寂院日円上人で、波木井公の法号である。
 なお、身延山参詣の人々は宗祖往年の故事にならい、この寺で草鞋をぬぎ、身延山に参詣するということである。
 現住職 岩田日成 34世。

  36 大野山本遠寺 大野
 日蓮宗由緒寺院(本山)の一ヶ寺。慶長19年(1614)10月創建。
 開基は、紀州頼宣・水戸頼房の生母・養珠院万の方。開山は、身延山22世心性院日遠上人(池上本門寺16世)、上人の大野邑隠棲地に堂宇を建立した。
 日遠上人は、慶長9年(1604)3月、33歳で身延山22世の貫首となった。慶長13年に京都妙満寺常楽院日経上人と浄土宗とが宗論で争っていたが、敗けた浄土宗は駿府の家康に訴え、江戸城で公場対論する事となった。ところが、対論当日の11月15日早暁、日経上人は宿泊所で暴徒に襲われ重傷を負い、弟子方5人によって戸板に乗り登場したが、悶絶状態で対論は不可能であった。日経側敗北と裁断され、翌年2月20日京都六条河原で日経と弟子5人は耳と鼻を削ぐ刑に処せられた。
 家康は、慶長13年12月身延山・池上本門寺・京都諸本寺に対し「念仏無間の文証は経典経釈には無い事」の誓状の提出を命じた。日遠上人は誓状の提出を拒絶、且つ日経と弟子方の裁断は不当なりと難じ、再度、浄土宗との禁断の宗論を訴願した。
 家康は激怒して「日遠の罪は死に当たる」となして、安倍河原で磔刑に処しようとした。この時、日遠上人を崇敬し深く帰依していた万夫人は、殉教を覚悟して白装束で家康を諌め、刑の中止を懇請した。家康は、側室万夫人の志操堅固、殉教の熱誠に感服して、日遠上人を赦免した。上人は「刑余の身である」として貫首座にもどらず、同年12月大野郷に小庵を構え隠棲された。
 本遠寺は、正保3年(1646)7月幕府から山号と寺号の公称朱印状及び寺良260石の寄進を得た。更に慶安3年(1650)10月、万の方の命で紀州大納言頼宣が本堂を造営(現在、重要文化財)して寄進している。
 承応2年(1653年)8月21日養珠院が没すると、遺言のごとく本遠寺日遠上人廟墓の右傍に埋葬され、現に榮域(えいいき)が保存されている。
* 寺宝 日遠聖人直筆曼茶羅、紙本墨書十如是御書(昭和 35・11・7 県指定)、紙本著
  色日蓮聖人画像(35・11・7 県指定)、木造伝釈迦如来立像附厨子
(55・9・16 県指定)、本阿弥光悦筆本遠寺扁額、養珠院夫人遺愛品、その他・・・
 現住職 西尾日良 46世


  37 大野山良円寺 大野
 大野山本遠寺には、往時玄妙庵、良円庵等を始め、数多の塔中末寺があったが、時代の推移に伴い統合され、玄妙庵は他に寺号移転して今はなく、良円庵には他の末寺が合併され、現在良円寺と称している。
 この寺は慶長15年(1610)3月5日開基大檀那紀伊家の家老三浦長門守為春によって創立されたものである。開山は開基為春の室である。長円院妙祖日明大禅尼となっている。
 現住職 厚海学真 大野山一老職を勤める。

  38 玄妙庵
 本遠寺の末寺、開山は玄妙院日寛上人、大正時代まで続いたが、現在は廃寺となっている。
 なお、境内に七面堂があり氏神とし、祭祀されて部落の他の神社とともに祭典を行なっている。

  39 思親閣奥之院
 身延山々頂に在り、(海抜1,153メートル)別に身延の嶺、また芬陀利(ふんだり)の峰ともいう。別当所を孝東院、あるいは大孝院とも称し、宗祖九ヵ年御隠栖の間、節々に登山あって、東方房州の空を拝して、今は亡き御両親と師の御房を偲(しの)ばれた孝養の霊跡である。
 故に、思親、育恩、大孝等の名がある所以(ゆえん)である。宗祖入滅の翌年、師孝第一日朗上人によって、先ず御堂が建立され、爾(じ)後年々参拝の人、宗祖の大孝を偲(しの)ぶ人々の丹精によって次第に道路も開かれ、堂宇も建築されたが、特に身延山第24世日要上人代に、加賀候前田利家の側室、寿福院(1631、63歳)の堂宇寄進があり、霧深き山頂とて建物の衰損の度早く、後数次の改築あり、現今の堂宇は多く内野日運上人別当職時代の丹精によるものである。師は明治40年(1907)より昭和18年(1943)1月遷化まで35ヵ年の長い間在住した。
 別当は、支院住職中より任命で3ヵ年間司堂の任に当らせる。
 現別当 志摩坊住職 佐藤玄守
 なお、奥之院参詣道路に沿って次の諸堂がある。

 40 水屋 (日朗上人井戸)
 思親閣より約880メートル下方にあって往時法明坊(報命坊)または(水庵)とも記しているが、近時は水屋と通称している。
 宗祖が身延山頂御登山の際は、日朗上人が随侍してここから山頂まで清水を運んで供養申し上げたと伝えている。

  41 感井坊 追分
 身延山第31世、日脱上人代創立、道智庵ともいう。七面山道、身延への道、奥之院への道、願満社道の追分(分岐点)で、帝釈天王を勧請(かんじょう)している。

  42 松樹庵
 妙石坊上を追分へ向って登ると、およそ1,100メートルで、宗祖御袈裟掛松の旧跡を伝える同庵がある。

  43 願満堂(洗足)
 妙石坊より北沢の橋を渡り急坂を、およそ1,800メートル登れば、宗祖洗足の霊地と伝える洗足に出る。
 奉祀の願満社、この地の住人、龍王淡路守の守護神に対して宗祖が授けられた名であるといわれ多数の信仰者がある。

  44 七面山敬慎院(海抜1,699メートル)
 開創の時期、縁由に就いて古来の所伝は、建治3年(1277)宗祖説法の座に佳人聴聞し、ついでその本体を明らかにし、後末この身延山を護持し、一乗受持の行人の所願を満足させんことを誓って七面山に飛去する、その跡を今日高座石と伝う。
 宗祖入滅後16年、永仁5年(1297)9月に既に入道して日円と名乗られる実長公と日朗上人とが登山して七面天女を祀った。これが七面山の開闢(びゃく)で、9月19日を大祭の日とする。
 開創はこのように伝えられているが、七面天女の信仰は次第に高まったものと思われる。18世の日賢上人(1599化、41歳)、文禄5年(1596)に「七面大明神宝殿常住本尊」を認めていたので、この頃には七面明神社の立派な宝殿が建立されたことが推知出来る。
 なお、これより少し前天正20年(1592)12月8日に大阪雲雷寺の開山、雲雷院日宝上人は、その曼陀羅本尊と七面大明神を勧請している。時代を経て明神の威光霊験が世に響くに伴い更には養珠院殿(1653、82歳)によって女人禁制が解かれてより、七面山参詣の人々は年とともに数を増した。
 さらに延宝3年(1675)身延山第30世日通上人の代に諸堂が改築整備されて、延宝7年(1679)には時の関白鷹司房輔が七面大明神の自筆の額を奉献して明神の威徳を賛仰するなど同山の繁栄はめざましかった。
 なお、参詣者の増加に従い、七面山の所属に就いて赤沢村と雨畑村との間において、しばしば山境いの紛争が起り永く続いたが元治2年(1865)5月、身延山役僧、七面山別当、地村名主立会いの上、「山は両村に跨(また)がるが、神は日蓮の法に帰依して霊験殊に著しい。宜しく身延山と一同の協議議定を為すべし。」とてここに七面山上の方793アールは、身延町の飛地となって土地堂宇ともに久遠寺の所有となった。
 別当は、思親閣別当とともに本山の任命を受けて、任期3年で就任する。
 現別当 大善坊住職 長谷川寛慶

 上の山八幡社、鬼子母神は別項の民間信仰第二節中にあるので略す。