第三節 新戸籍法と家族制度

一、旧戸籍法の沿革

(一)戸籍の起源と利用
 わが国の戸籍の起源は古く、制度として全国的に統一して実施されたのは、孝徳天皇の大化元年(645)8月の詔勅以後であるといわれているが、その当時は単なる国勢調査であって、現代のような戸籍簿を作成したものではなかった。
 戸籍を帳簿として作成したのは、大化元年から7年後の白雉3年(652)4月、今からおよそ千三百余年前のことである。この時がわが国における戸籍制度の起源であるとみるのが正しいようである。
 当時の戸籍は現代の戸籍と異り、戸籍の調整は土地の分配や租税の多寡、賦役を課する分量を知るための基礎を定めたり、また盗賊や浮浪者の取締まり、親族の関係、刑事責任能力の確認など多くの目的をもっていたものである。
 なお、この戸籍は、戸主の提出する申告を基礎に、戸籍は6年目に1回、計帳は毎年1回調整することに定められていたが、中世になると、人民が課役を免がれるために虚偽の申告をするようになり、天皇はしばしば詔勅を出して、これを厳重に戒めたが、その効もなく、平安中期頃から戸籍の制度も有名無実となり、武家政治の勃(ぼつ)興とともに自然消滅の形をたどるに至ったのである。
 一方また、戸籍と兵役との関係は遠く、戦国時代に北条氏が豊臣氏との対決に備えて、天正10年(1582)北条氏が動員令として、動員可能の人数・弓・槍・鉄砲等の調査をさせたことがある。
 また天正19年(1591)豊臣秀吉が朝鮮出兵に先立ち、戸口調査令を出して、全国六十六カ国の人数調べを行なっている。それは、村ごとに家族人数・男女・老若等を書き上げたもので、これらの戸口調査は、現在の戸籍とは性質を異にし、主として軍用徴兵を目的としていたものである。
(二)江戸時代の戸籍
 徳川幕府は、寛永年中キリスト教を厳禁し、毎年僧侶に命じて、人民の「宗門改め」をさせ、戸長・名主が人別簿を調整することにした。
 そのために、徳川時代には再び戸籍制度が回復する運びとなった。
 「宗門改め」とは、江戸時代には、名主が毎月その町内の生、死者ならびに、地借、店借、同居等の出入を調査し、もっぱら尋ね人などのあるときの検察の便に供した。
 江戸時代後期の戸籍制度は、宗門改めを基本として、これに警察や租税の目的を付加して、その取り扱いを寺院、五人組頭、家主等にさせて、人民の出入、その他一般に関する戸籍上の記録をさせ、現行戸籍制度の基礎を確立するに至ったのである。
(三)明治時代の戸籍
  ア、庚午戸籍の編製
 山梨県における戸籍の編製は、明治3年(1870)にはじまる。明治2年6月4四日民部官達をもって府県に対し、京都府編製の戸籍仕法書が頒布され、翌明治3年3月施行されたから、その干支をとって庚午戸籍とよんでいる。
 庚午籍の特徴をあげれば、次の諸点であろう。このうち3と6(後に5)は壬申戸籍に継承されている。
 1、族属別編製をとっている。
 2、旧支配層(名主、長百姓)によって管掌されていること。
 3、一家を一枚に記載すること。
 4、伍組は、名主、長百姓支配内の下部機構として、出生、死亡、出入については組合より、名主、長百姓へ相届けるという重要な役割をになっていること。
届洩(も)れは、伍組としての越度(おちど)となる。
 5、産業持高、小物成高、船牛馬、宗旨の記載をもっていること。
 6、代替りにおける張懸紙の制度により、幾代を経るといえども其家之系譜を明らかにするようになっている。
 7、庚午戸籍の原本についてみると、まだ苗字の記載がない。明治3年(1870)9月に苗字の使用が許されているから、それ以前に編製されていることがわかる。
 庚午戸籍の実施に当たっては、1村3名の「戸籍改め役」をおき、毎年4度、家別に戸籍を引合せ、逗留人(とうりゅうにん)の訊問(じんもん)を行ない、懐妊のものの臨月を問わせるなど厳重緻(ち)密な措置(そち)をとっている。つまり無籍無産のものを排除するためであった。
 「戸籍改の役」はさらに、「産業の容子(ようす)をも検査し、無業懶惰(らんだ)のものへは教諭を加える」等の役割をももっていた。
  イ、壬申戸籍の編製
 明治4年4月、戸籍法の発布があり、これに基づく新たな戸籍が、明治5年(1872)2月1日から施行された。
 この戸籍は、美濃紙に本籍、氏名、年齢、婚姻、離姻、縁組、離縁等のほかに浮浪人の取締等の行政目的の上から、職業・印鑑・宗旨・犯罪等が記載されている。
 近代的成文立法として相当整備されたもので、これが現行戸籍法の開祖ともいうべきものである。
 なお、明治5年は、干支が壬申(みずのえ、さる)であったことから、この戸籍を「壬申戸籍(じんしんこせき)」と呼んでいる。
(四)明治7年戸籍編製法による改製
 明治7年(1974)2月には、甲第9号を以て戸籍編製法が、「管下戸籍未タ全備ナラス随テ人員遺漏ノ弊ヲ免カレス」という事態を解消しようとして布達された。その内容のおもなものは次のようである。
 1、戸主幼少、婦女のみの場合、空名を掲げることのあるのを、幼少戸主、婦女戸主を許容して、極力現実の人員を把握しようとしている。
 2、「人民適宜ニ任セ戸主ト家族ト東西ニ住居ヲ分ケ家産ヲ別ニスル者ハ総テ分家ト見做(な)シ一戸ヲ以テ論スヘシ」とし、現実の生活単位をそのままに把握する。
 3、各戸に標札を掲げさせ、戸内の人員を掲示する。これは本籍寄留を問わない。
 戸籍改製の実施は、「壬申年編製ノ戸籍帳ヲ根拠ト致シ」その出入を調べることによって行なう。その際、明治5年1月から明治7年6月までの間の出入の年月日は、戸主が自分の調印した届出によって一伍限りとりまとめて差し出した。
 しかし、明治7、8年には、大規模な村の合併が行なわれたため、改製事業ははかどらず、1年後の明治8年2月乙第27号には「今以整頓ニ至ラス」と述べ、合併協議中の村を除き三月いっぱいに編製すべきことを命じた。
 しかしこれとても必ずしも徹底したわけではないらしく、明治8年9月乙第93号では、取調の遷延は「畢竟(ひつきょう)区長職務不注意ヨリ起ル」のであると督責し、10月1日から掛官員が出張調査することを達している。
 なお、明治8年6月乙第72号では、士族に戸籍のみを別簿に編製して差し出すことが達せられている。
(五)明治12、14年、16年山梨型戸籍の改製
 明治12年(1879)の改製は、伍組の記載があるほか壬申戸籍の記載事項をわくにはめて整然とさせたにすぎないが、明治14年(1881)のものは、戸籍に最上欄を設けて、家・屋敷・地券高・田畑反別を記載し、また族の欄の下に改印の欄を設け、最下欄には、家族員の職業を家業とは別に記載するといういちじるしい特徴をもっている。
 さらに、明治15年乙第92号により、明治16年からは戸籍上1欄を設けて婚姻度数を記載すべきことが達せられている。
 婚姻度数の記載は、山梨県に限らず、10年代には、全国一般に行なわれているが、この措置と「二夫に見(まみ)えず」式の道徳との間の関係などについては、明らかでない。
 またこの法令では、職業名の詳記を要求しているほか、最上欄に、山林反別・牛馬・車の欄が増加されている。これは山梨県特有の戸籍様式であり、藤村県政のあらわれであると考えられている。
(六)明治19年式戸籍の実施(戸籍法の全国的統一)
 明治19年(1886)内務省令第19号によって、「出生・死去・出入届及び寄留者届出方並びに違反者処分」が制定され、出生・死亡・失踪者復帰・廃戸主・廃嫡・改名・復姓・身分変換・その他戸籍に関する諸種の事項について、届出義務の規定が設けられ、正当の理由がなく、その届出を怠った者は「20銭以上1円25銭以下の科料に処せられる」という行政処分が定められ、同年12月1日から施行された。
 また、同年10月内務省令第22号をもって、「戸籍取扱手続」が定められ、戸籍簿の調整、記載の方法及び戸籍簿の永久保存の原則がはじめて確立されるに至った。
 これにより、全国統一の完備した制度となったわけであるが、山梨県がこれを実施したのは、1年半後の明治21年(1888)5月30日、達甲第22号「戸籍取扱手続実施心得」によるものである。
 しかし、明治19年式戸籍の実施は、一挙に行なわれたものではない。明治26年(1893)10月達甲第17号により、戸籍簿はすべて一律に新方式のものに切り替えられ、ここにはじめて山梨県の特色ゆたかな戸籍制度の様式は全くその姿を消したのである。
 明治29年法律第89号による旧民法では、身分関係の確立を戸籍のみに依存していたため、戸籍制度も古くからの行政的、戸口調査的性格から一歩前進して、司法的、身分公証的性格をもつこととなり、戸籍法の一大変革が要求されるに至った。
 明治31年6月法律第12号により、新たに戸籍法が制定公布され、同年(1898)7月16日から施行されている。
 この戸籍法は、身分登記の制度を樹立した特色あるものであったが、身分登記制度は、利用価値が少ないばかりか手数を要するために、これを廃止して戸籍法の一本化を図り、大正3年(1914)3月31日法律第26号により戸籍法の改正が行なわれ、大正4年1月1日から施行されることになった。
 これにより、身分登記制度の廃止、戸籍役場、戸籍吏等の名称廃止その他いくたの変革が加えられるに至った。
 以上述べてきたことでもわかるように、わが国が、明治以降近代国家としての体制を整えるために、戸籍制度は、何回か改正されてきたわけであるが、明治初年の戸籍は、いわば、現在の戸籍と住民票を兼ね備えたものであり、当時はこれを住民の基本台帳として、市町村の行政や自治に利用した。
 時代がすすむに従って、人口の移動が逐年頻繁になり、本籍地を離れて実生活を営む者が多くなるにつれて、戸籍は、住所証明の機能を失い、主として身分公証の使命を持つように変ってきた。

二、新戸籍法の意義と家族制度への影響

 昭和20年8月15日第二次世界大戦が終結し、わが国は連合軍の占領下におかれ、これまでの非民主的な諸制度と諸法令はことごとく改廃され、国の最高法規である憲法も改正されるに至った。
 これに伴って民法も大改正が行なわれ、その中でも、親族編と相続編が全面的かつ画期的に改正され、個人の尊厳と両性の本質的平等に基づいて、わが国の家族制度は徹底的に民主化されたのである。
 そして、昭和22年12月22日法律第224号をもって、国民の身分関係を公証する戸籍法が改正公布され、改正民法とともに昭和23年1月から実施されることになった。
 この戸籍は、「家」の登録であった従来の戸籍法とはその本質を一変して、国民各個人個人の身分関係を公証する公文書となったわけである。
 すなわち、改正戸籍は、市町村の区域に本籍を定める「一つの夫婦及びこれと氏を同じくする子」ごとに1戸籍を編製することになったのである。
 このことは、戦後20余年を経た今日、わが国の経済成長に支えられて、ようやく「夫婦と未婚の子」からなるいわゆる核家族の形態となって都市はもちろんのこと、農村にも次第に現われるようになってきた。

 表1 身延町における最近の戸籍件数
     (本籍人口に対して)  昭和44年1月調査
  昭和
36年
昭和
37年
昭和
38年
昭和
39年
昭和
40年
昭和
41年
昭和
42年
出生 265 262 263 282 289 103 268
認知 5 2 13 4 9 4 2
養子縁組 20 27 33 22 19 42 12
養子離縁 20 4 4 2 2 1 2
婚姻 343 319 328 391 328 349 324
離姻 10 24 12 12 13 35 20
親権後権 0 1 1 0 6 0 1
死亡 123 133 146 131 110 110 136
失踪 0 0 2 0 0 0 0
復氏 1 2 3 0 1 1 0
姻続関係終了 0 0 0 0 0 0 0
入籍 2 10 18 10 12 11 6
分籍 0 2 4 5 2 2 2
帰化 0 0 1 0 0 0 0
国籍喪失 0 0 2 1 0 0 1
氏の変更 0 0 0 2 1 0 0
名の変更 2 0 0 1 2 3 2
転籍 82 54 68 71 74 60 77
合計 853 840 898 934 868 721 853