第三節 風俗習慣

一、本町の風俗習慣

 私たちが生活している地域社会には、古くからその土地に生れ伝わる風習が根強く残っていて、私たちの生活全般を規制してきた。
 これは協同の社会を守るための方法として、また連帯感を盛り上げるためにはなくてはならないものであった。
 しかし、戦後は、民主主義に立脚した新しい教育と社会生活の急激な変化によって、これらの風俗も大きく影響を受けている。
 以下、産育、婚事、葬送などの本町の習慣風俗および親分子分について記述する。
(一)産育
   ア 帯祝
 妊娠五カ月の祝のことで「犬のお産は軽い」ということにあやかって、五カ月の戌(いぬ)の日を選んで岩田帯をしめる風習がある。
 帯の長さは昔は縁起をかついで、七・五・三すなわち7尺5寸3分(2.28メートル)のものを使ったともいうが、現在ではあまりとらわれないで、3.30メートル位のものを使っているようである。
  イ 出産
 昔は大部分が家庭で出産した。しかも納戸(なんど)という薄暗い部屋で出産をした風習がある。更に畳の上での出産を忌み、畳をあげて筵(むしろ)を敷き、布団(ふとん)を敷いてお産をした。
 出産にあたっては「産婆」が責任をもってあたり、いない時は特に器用な人が取り上げをしたといわれる。しかし現在では病院で出産をしている人が多くなったが、自宅で出産する場合でも明るくて清潔な部屋を選んでいる。
  ウ 産(うぶ)の神の飯
 出産直後に炊(た)いて産神に供える飯であるといわれ、神棚に供えたり、産児と産婦に膳をつくり産婦にも食べさせる。またこの飯は大勢の人に食べてもらうことがよいとされ、産婆はもとより、近所の人や近親者を招いて、ありあわせのものでたべてもらい子どもの前途を祝い合う。現在ではあまり行なわれていない。
  エ お七夜
 出産後7日目の祝いで、親類縁者を呼んで赤飯を出し、親子を祝福してもらう習慣があるが、現在では必ずしも7日目に行なうということにはとらわれず、二(ふた)七夜か三(み)七夜あたりに行なう家もある。また最近は簡略化されて人を呼ばないで祝いの品に赤飯を添えて配るところが多い。
  オ 宮参り
 男31日女33日とか51日とかいわれるが一定したものでなく、75日とかにするところもある。また、男と女では1日ずらしてお参りする風習が多い。
 33日はトリイマイリといってお宮の鳥居のところまで行き、中に入らず、51日目に正式に宮参りする。
 宮参りには里方や親戚から贈られた衣装を着せて産土神社(氏神様)に詣で、子どもの健康と幸福を祈願する。これは社会的には氏神に対する氏子入りの意味をもっている。
 またこの時にもお七夜といって親戚や近所の人を呼んで祝いをする。オカルコといって米の粉をねって椿の葉にのせ氏神様へ供えたり、帰りに近所の子どものある家に寄ってそれを配り、子どもの仲間入りのしるしとすることもある。また祝いの席で名付親が子どもの髪をカミソリでそり、お化粧をしてやる風習があった。
 なお、里方では宮参りに着せる着物をはじめ、小夜具、襦袢(じゅばん)、胴着、ねんねこ、布団などを作って力餅をそえて届ける習慣があったが、現在では新生活運動が進められ、簡素化の方向に向かっているとともにお祝いは長子のみとするようになっている。
  カ 名付親
 子どもに名まえを付ける場合に他の人に頼んでつけ、その人に名付親になってもらった。これは封建思想の遺物として親分子分の関係を残した。特に子どもが病弱であるとか、親の厄年に生まれた子どもとか、成長が危ぶまれるような場合に昔は「拾い親」「養い親」などの仮親をたて、その人に名付親を兼ねてもらうことが多かった。
 現在では仲人(なこうど)などに付けてもらうこともあるが、戦後の自由主義思想の普及により、夫婦で相談して自由の立場で付ける傾向が強い。
  キ 食い初(ぞ)め
 「100日の食い初め」ともいって、生後100目に食膳へ赤飯にお頭付きを添え、飯を1粒でも食べさせるところが多い。
 なお、歯固めといって小石をそえるところもある。
  ク 誕生祝
 毎年誕生日を祝って赤飯を炊き近所に配る風習があった。最近ではバースデーケーキなどを求めて洋式に家庭内でお祝いする傾向も見られる。
(二)婚事
 封建時代における一般村民は村内婚が普通に行なわれた。明治・大正時代になると村外婚が一般の間に広まり、次第に内諸の世話をする者が出て来て「下ごしらえ」をした。これには主として行商人などが大きな役割を演じたといわれる。
  ア 媒酌人
 仲人ともいわれ、仲人の占める役割は非常に大きいといわねばならない。一般にその家に関係ある人、即ち親分とか、地類関係の人が依頼されたようである。今は自由の立場で決めているが、本人や家との関係で考えられていることが多い。仲人は双方の間に立って斡旋(あっせん)するわけであるが、その間に見合いを行なう。
  イ 口固めの酒
 見合い等で両者が合意確定すれば、昔は気が変わらないようにとか、掠奪(りゃくだつ)結婚を防ぐ意味でこの風習がある。これは仲人が嫁方へ出かけ「たもと酒丶丶丶丶」といって、適当に酒を買い形式的な酒をすませた。
  ウ 酒入れ
 双方で日を決め、仲人が婿方より羽織袴の正式な衣裳で柳樽(たる)を持ち、先方の仲人の案内で嫁方へ行って確定の式をする。その席へは親戚縁者を呼んで小宴を行なうこともある。後日、日を選んで結納の取り交わしの式を行なうが、この席で結納をすませることもある。
  エ 結納
 婿方から酒肴(さかな)、小袖、帯地等にその品々の目録を贈る。嫁方はこれを受けて、更に羽織袴地等に目録を添えて贈る。普通は婿方の半分を嫁方が贈っているが、形式化してしまい近頃は各自、自分の衣裳をととのえる場合もお互いに相談をして行なうようになった。
 なお、結納の際には婿方より嫁方に振舞えるように赤飯を持っていったといわれている。
 結納取り交わしの日に結婚式の日取りを決定するが昔も今も吉日を選ぶ風習は変わらない。婿とりの場合も同じである。
  オ 結婚式
 昔は家で式をすることが多かった。当日の礼装は新郎新婦とも和服か、新郎が洋服(モーニング)で、仲人は新婦を婚家に伴い近親の人が付添い、酒樽・肴等を持って行った。婚家に入る場合は玄関から入ることをさける風習があった。
 式は仲人の司会で行なうが一様でない。一般にまず一同あいさつのあと新郎、新婦の名のり、冷酒、それから三三九度の盃に入る。神酒は雄蝶雌蝶といって双親ある男女の子どもを使って所定の器に神酒を入れ夫婦盃をする。次に双方の家族、親戚と盃を取り交わし名のりの盃をして、その後披露宴(ひろうえん)に入る。
 現在では、ホテルとか旅館を使って行なわれることが多くこの場合は神式が一般的となった。
 まず双方が入場し、冷酒がまわされ、献饌(せん)、神主の祝詞(のりと)奏上後三三九度の盃をしたあと新郎新婦の誓詞が終り、最後に家族親戚の名のりの盃で式を終了する。
  カ 披露宴
 昔は家での式のあと祝宴を同時にすることが多かった。一番座敷から隣保の人の三番座敷まで盛大な宴となるのである。
 現在では結婚式後別席で新郎新婦の関係者や親戚知人、隣近所の人を招いて結婚披露の宴を開く。
 席上仲人が参会者に新郎新婦の紹介をし、参会者より祝辞があり祝宴となる。
 新郎新婦はその席より新婚旅行に旅立つことが多い。
  キ 里帰り
 三ツ目といい、仲人と親分の婦人が付添って里親の許へ行って挨拶をする。先では簡単な内披露をしたが、今はあまり行なわれていない。
  ク 足入れ婚
 元来の足入れ婚というのは形式的には現在の婿入り婚に近いと考えられている。というのは婚姻成立の祝は婿方でするにも拘らず、最初の内は婿は嫁方に起居するという方式の婚姻儀礼である。これは女性の労働力が高い価値を持っていたことによるのである。しかしそのような家族制的、あるいは経済的原因が失なわれ、また一般の嫁入婚の考えに影響されて足入れ婚はだんだん衰微し、嫁入婚へと移って来たわけである。
 その後もアシイレ、デイリゾメ等と呼ばれる婚姻が行なわれるが、嫁が結婚式前にも婿方に出入りできる習慣をつくったものと考えられる。これも嫁入先で女性の労働力を重く見て労働力を提供する意味もあった。これは婚姻の性質が変ってもなお古い足入れ婚の名まえを借りて使ったものであると考えられる。
(三)葬送
     ア 葬式組
 死者の出た家に対して周辺の家々が協力して葬送を円滑にすますことは久しい村人の交際倫理である。一般に組内の人が集まり親族などと相談し、施主の意見も参考にしながら、葬式の日取りを決めたり、仕事の分担を決める。
 まず親戚へ電報を打ったり、飛脚(必ず2人)を立てたり葬式道具を整えることなどが行なわれ、女の人は炊事の手伝いをする。この際施主は一切組まかせで干渉しないことになっている。
  イ 土葬、火葬
 普通土葬が多く竪(たて)穴埋葬である。墓穴を掘るのは組内の人がする場合と隣の組の人に依頼し応援を受けるところとある。棺は寝棺が一般に用いられている。
 火葬は伝染病の死者とか、遠方へ送る時、葬式の日まで日数がある場合などに行なわれるが、最近は町営の火葬場を利用して火葬にすることが多くなった。
 墓地も火葬向きに改良する家がだんだんふえてきているようである。
  ウ 枕飯と枕経
 死後ただちに死者の枕もとに供える飯のことで、茶碗に1杯、山盛りに供えてその上に箸を立てる。同時に洗わない米をひいて(最近は洗った米をひくか粉を買ってする場合がある)団子を作り、高く盛って供える。この団子は埋葬の時に棺と一諸に埋めることにしている。
 枕経は枕落としの経とも言い、死者の枕もとであげるお経のことである。読経後、枕をとって楽な姿勢にし、北枕に寝かせて仏とするのである。
  エ 通夜(つや)
 葬式の前夜親戚をはじめ知人、近隣の人々が寄ってお題目を唱え通夜をする。ふつうは夜を明かすことになっているが、今は10時頃までで終ることが多い。
  オ 戒(かい)名
 通夜の枕経の後戒名がつけられる。一般には法名ともいわれている。戒名は受戒によって得る法号である。
  カ 湯灌(かん)
 死者の直接の始末はどこでも近親者たちで行なうのが普通で、以前は縄帯、縄襷で湯灌の式を行なったようである。しかし現在では昔のようでなくアルコールで形式的に拭う程度である。湯灌の水は日陰に捨てることになっている。
  キ 入棺
 納棺ともいわれ、安らかな形として寝棺が多い。死者の服装は経惟子(きょうかたびら)を着せるのが普通で、脚絆や足袋をつけ旅だちの姿丶丶丶丶丶をさせることになっている。経帷子も幾人もで縫ったり、それらの糸尻をとめないしきたりがある。
 若い女性の場合には美しく化粧して納める。
 棺の中には6文銭などを入れた頭陀袋(づだぶくろ)を入れたり、死者が生前愛用したもの、好んだものなどを入れる風習がある。
  ク 帳場
 葬式一切の事務を執る重要な所で、弔問客からの香奠の処理が主なる役目である。
 一般に組内で筆算に長じた人があたる。
  ケ 式
 遺族親戚知人参列のもとに荘厳に行なわれる。別れの酒にはじまり読経引導により初めて仏となり仏門に導かれていく。僧侶のたいた香が順々に弔問客までまわされ焼香が行なわれて式が終わると出棺する。式には家回向と寺回向がありその家の都合で決められる。
 棺は普通の出入り口を通さず縁側などから出すのが一般であり、「別れの酒」といって会葬者に酒を振舞う風習がある。
  コ 野辺の送り
 棺の前後に装具持が並ぶ。長男が位牌を持ちお膳は長男の妻が持つことになっている。その後に家族親戚が続く。昔は頭に白紙を三角形にして巻いたが今は見られない。
 その後に知人、弔問客が従って墓地まで送るのであるが、葬列の途中花籠に入れた銭をまいたり(長命の人の場合)、左回り3回してから墓地に向うところもある。なお送りに際して親戚、縁者は送り花としてしきみの枝を持つ、最近はしきみのかわりに造花を使うことがある。
 会葬者の服装は喪服とし、女性は黒紋付の和服、男性はほとんど洋服であるが近親者はモーニングの礼装が多い。洋服の場合は左腕に黒布を巻いて哀悼の意を表している。
  サ 埋葬
 墓地につくと棺を納め、その上に枕飯、枕団子、送り花、位牌の覆いなどが入れられ、最初に近親者が土を少しずつかける。それから組の人が土をかけて土盛りをする。その間僧侶は読経を続ける。土盛りされた上に墓標を立て、位牌、弔旗、五色旗、提灯、花籠、香炉などを置き、会葬者は線香をあげ死者の冥福を祈る。
 墓前には茶碗に水を入れてたむける。
  シ 斎(とき)
 送りをすませると家で、読経を終えた僧侶が上座にすわって斎につき、近親者知人などが膳につき、忌中払いをする。
 組の者はその後で忌中払いの膳につく、即日または翌日近親者や近所の人も集まり墓参をする。この場合略式に7日忌を行なうこともある。
  ス 四十九日
 この日に餅を搗き49切れを檀那寺に届ける。ふつう膳上げともいい、ところによっては三七日(みなのか)あたりに早くすませるところがある。
  セ 法事
 新盆には近親者は墓参にやってくる。この時は僧侶も来て読経する。それからふつう1年たつと1周忌を行ない故人を偲(しの)ぶことが行なわれる。更に3回忌、7回忌、13回忌、17回忌、33回忌、50回忌などの習慣がある。本町には神道、キリスト教、天理教の方式で行なうものもあるが省略した。