第四節 俗信、迷信

一、俗信、迷信の意義

 俗信とは、主として近代以前の信仰や呪術(じゅじゅつ)(まじない)が退化、残存して生じた信仰的心性、慣行をいう。ことわざや唱えごととして伝わっているものもあれば、単なる知識として伝承されているものも少なくない。ふつうは予兆(しらせ)、卜占(ぼくせん)(うらない)、禁忌(いましめ)、呪術(まじない)に分けるが、いずれもその内容は天候、豊凶、生死、病老、吉凶の各般にわたっている。概して断片的、非体系的であり無害なものが多いが、そのうち社会生活のうえに、はなはだしい実害を及ぼすものは、これを俗信と区別して迷信とよぶ。俗信の例はきわめて多い。「トビが空高く舞えば晴れ」「カラスが鳴くと死人が出る」などは前兆、予知の例であり、「ふた子栗を食べるとふた子を生む」「ウサギの肉を食べるとミツ口の子を生む」などは前兆・予知であるとともに妊婦への禁忌ともなる例である。神事、農事に関する俗信はとくに多い。また日や方角の吉凶、冠婚葬祭の日どり・旅行・転宅・衣服の裁ち日などの俗信には、干支(えと)・五行説に基づいて陰陽師(おんようじ)などが流布したものと思われるものも含まれているが、しかし俗信の中には民家の間の久しい自然や人間への観察から生み出された民間知識というべきものが少なくない。例えば「朝虹に川を渡るな」「秋の夕焼鎌をとげ」などがそれである。
 もちろん、単なる連想によることばの付(つけ)合いからできた無意味・素朴(ぼく)なものが多いが、しかしその成因は単純のようでも複雑で、これを単に非科学的とする立場だけでは解明することができないものもある。
 迷信とは、主として古代の信仰や呪術が宗教にまで高められずに退化して民間に根をおろしたものであるが、その現象を現実の社会生活に照らし合わせて非科学的か、不合理かによって常識的に判断しているにすぎない。
 したがって正義か迷信かの決定は、時代や地域集団によって異なるので組織や体系をなさない断片的な呪術、宗教的な現象一般を俗信とよび、その中で害悪のひどいものを迷信とするのがよい。
 現在の日本社会において迷信と断定できるものの代表的なものに憑物(つきもの)として、狐つき、蛇つきなどがあり、動物霊魂が人体内に入り「ついた」とか「つかれた」とかいわれて、当人の意志でなく、その家は罪もないのに一切の縁組、交際をさけられ、当人は強烈な生理的障害になやまされる。また十干十二支に関する禁忌(いましめ)があり、陰陽五行説による暦日の吉凶判断等である。

二、身延町内でいわれ信じられている俗信、迷信の実例

 身延町の各地区を歩き、高年齢者から児童にいたるまで、聞き取り調査によってまとめてみた。地域が小範囲であり歴史的にもあらゆる交流があった身延町内なので、地域による特長がほとんどみられなかったが、年齢差により、時代の流れによって、生活環境が次第に科学的に合理的に変化する中での習慣形成から、筋道や道理の通らないことは信じないという傾向になりつつあることを感じた。
(一)葬式、死者に関するもの
 人間は本能的にあくまでも生きたいという意識からか、死に対する恐怖からか、葬式や、死にまつわることがらは極端に忌みきらう傾向は昔も今もあまり変わっていない。
 たとえば「北枕に寝てはいけない」は全員が守り、「着物を左前に着てはいけない」「ご飯の真中に箸を立ててはいけない」もよく知られ、守られているからである。
 「カラスが鳴くと葬式がある」は実際と一致すると言う人が多く、各地で知られている。「ものごとをするとき左廻りはいけない」「木と竹の箸でものをはさんではいけない」「箸から箸へとり移してはいけない」「上から履き物をはきおろすのはいけない」「死人の上をねこが越えると、死人が立ちあがる」は知っているものもあり知らないものもあり、あまり気にしないというものが年齢の低い者ほど多くなっている。
(二)農事に関するもの
 農事に関するものは割合すくない。「菜の種子をまくとき4日、9日は除く」は下山、豊岡地区でいわれている。昔はよく守ったとのことであるが、最近は都合のよいときまいているようである。「田植のとき結んだわらの中に苗を植えると葬式米になる」「苗を結んだわらは植えた方に捨てる」はともに各地区で忠実に守るようである。
(三)夜間に関するもの
 「日が暮れてから塩を買いにいくといけない」というもの、「日が暮れてから塩を買うと火を呼ぶ」というものがあり、後者は老人が多くいっている。店では塩を買いにきたときは火を入れてやった。(豊岡)また塩は狼が好物だからいけない、ついてきたら塩を一つまみやると帰る、(豊岡)「病気見舞は夕方夜間、1日、15日はいけない」も各地区でいわれ、かなり気にして守っている人もある。「夜爪(つめ)を切るといけない」「おむつを夜干しておくと夜泣きをする」「夕方から夜にかけて洗たく物を干してはいけない」「夜裁ち物をしてはいけない」も各地で知られているがほとんど気にしていない。「朝ぐもは福ぐも、夜ぐもはぬすっとぐも」といい昔は朝ぐもをふところに入れたものだそうである。
(四)日や方角の吉凶に関するもの
 「冠婚葬祭の日取り」については全員が吉日を選ぶといい、「衣服の裁ち日」はいいものを裁つときは日を選ぶというものもいるが、大多数のものは気にしていない。
 「とらの日と8日は裁ってはいけない」「みの日に新しい反物を裁つと身をたつといって袖に涙が絶えない」はほとんど気にしていない。
 「旅行は8日出と、7日帰りを忌む」「2人が旅に出るとき方向がちがうと振りわかれ」といってよくないということも老人は気にするものもいる。
 「結婚も方角や生れ年がとら、うまはきらう」ということも残っている。
 「元旦に針を使ってはいけない」「結婚は4歳、10歳の差はいけない」は各地でいっているがあまり気にしていない。しかし「元旦に金を使うと1年中金が残らない」「一夜松はいけない」はほとんど守られている。
 戦前は元旦には各商店は戸締めをしたほど徹底して買いものをするものはなかったという。
(五)神仏に関するもの
 「子どもが夕方遅くまで遊んでいると、かくれ神さんに連れていかれる」は各地区でいわれ子どもにきまりよい生活態度を徹底させるために、かくれ神を持ちだし、恐怖させることによって守らせるという非教育的な方法で指導したことが今日に伝えられたものと考えられる。現在の子どもでかくれ神というものの存在を信じているものはない。
 「新しく便所を建てるとき神の怒りに触れないように鏡や化粧品をうめてやる」も各地区でいわれ実際にうめているが、「井戸を掘るときはくしを入れてやる」はあまりいわれていない。
(六)天候に関するもの
 天候は毎日の生活と切り離せないもので、人類の長期にわたる経験から、ことわざとか唱えごととかいろいろなかたちで今日に伝わっており単に非科学的として片付けられない面もある。
 たとえば「夕虹(焼)は百日の照り、朝虹(焼)は川を越すな」「お月様が笠をかぶると雨になる」「縁の下の石が濡れると雨になる」「蜂が巣を低いところに作ればその年は台風がくる」などである。
 「風が強く吹いたとき、鎌を立てると風が止む」「履物を投げあげて表が出ると晴れ、裏がでると雨」のように根拠のない一種のうらないもあり「猫が顔を洗うとき耳を越えると雨になる」も各地でよく知られている。
(七)夢に関するもの
 「早朝の夢は正夢である」「火事の夢は運がよい」「歯の抜けた夢をみると人が死ぬ」「胸に手をのせて眠ると悪い夢を見る」は各地区でいわれ月の初夢に「一富士、二鷹(たか)、三なすび」といってこれらをみると縁起がよいということも各地でいわれている。
(八)妊婦に関するもの
 「妊婦はいぬの日に腹帯をしめるとお産がかるい」は各地区共通にいわれておりみな実行しているとのことであるが、内容を信じて行なうというよりも、親もとでは娘のお産ができるだけ軽くすむようにと、お産の軽い犬にあやかりたい気持からであろう。
 このほか意味のない俗信として「うさぎを食べると三つ口の子を産む」「かぼちゃをたべるといけない」「ふたご栗を食べると双(ふた)子を生む」というようなものがある。
(九)飲食物に関するもの
 身延各地区ともいい伝えられている俗信に「赤飯にお茶をかけるとお嫁に行くとき雨になり、汁をかけると雪になる」「とろを食べた茶わんでお茶を飲むと中風にかかる」といって不消化をいましめ「食後すぐ寝ると牛になる」といって躾(しつけ)の材料とし、「ご飯をこぼすと目がつぶれる」といってお米の尊さを教えてきた。また「茶柱が立つと縁起がよい」ということを知っているものは茶柱が立つとなんとなくいいことがありそうな気がするといっている。
 「茶柱が立つとお客がくる」というのもあり同じ地区でもさまざまである。
 「子どもがお茶を飲むと風が吹く」「朝茶はその日の難のがれ」「毎朝梅干をたべると昼間星が見える」「逆(さか)さ水(水にお湯を入れて湯加減をする)はいけない」「どんどん焼のだんごを食べると虫歯にならない」「冬至にかぼちゃをたべると病気にならない」とか「中風にならない」といって、今でも冬至にかぼちゃをたべるところがある。「14日のだんご汁を家のまわりにまくとへびがでない」(帯金・波木井・清子)「花嫁に秋なすを食わすな」「職人は汁かけ飯を食べると腕があがらない」などいろいろある。
(十)着物に関するもの
 周到な計画や準備が大事であるという立場で、「和服を仕立てるとき、えりを半くけで寝てはいけない」「出がけの縫いものはけがのもと」というようなものがある。その他、着物に関するものは、「えり首にほくろがあれば着物がよけいに着られる」「旅の出がけに、げたが割れると難をうける」「ほうきを逆さにして着物を着せると客が早く帰る」または「手拭でほうかぶりをすれば早く帰る」といっているところもある。
 「洗たくものは竿へ通した方からはずさなければいけない」、「夜新しい着物を着るときつねがつまむ」、「七夕のときものほし竿をおろすと長保ちがする」などがある。
(十一)住居に関するもの
 「便所の前に南天を植えるとよい」、「逆さ柱は栄えない、」「ねずみが一度にいなくなると火事になる」、「しきいを踏むのは父の頭にのぼるのと同じことである」、「便所の掃除をよくする人はよい子どもを生む」などが身延町ではいわれている。
(十二)干支(えと)に関するもの
 「丙干(ひのえうま)に相当する年は災(わざわい)いが多いといわれ俗にこの年に生まれた女は嫁して夫を剋すると信じられる」と新百科事典にある。
 本町の出生数を丙午の年の前年と翌年と比較してみると次の通りである。
昭和40年  289名 (前年)
昭和41年  103名 (丙午の年)
昭和42年  268名 (翌年)
 となり、毎年の出生数の平均二百数十名に対してその半数以下になっている。
 この原因には、さまざまのことがあろうがやはり丙午の年はさけたいという考えかたが今日もなお残っているようである。
(十三)その他
 身延各地でいわれている俗信のなかに、「歯が抜けたとき上歯が抜けたときは下の方(縁の下)へ、下歯が抜けたたときは屋根に捨てる」はよく知られ、ほとんどのものが現在も実行しているのには驚く。
 しびれたときは「つばを3回ひたいにつければよい」、「しびれしびれ京へあがれ」といいながらつばをつけるところもあるが、かなり数多くのものが実行している。いぼについては、「はしでいぼいぼ一本橋渡れ」とか、「いぼがでたら米に米の字を書いて、ながしの下にいけると治る」というのがある。
 「ものもらいがでたら、へそに塩をぬる」、「ものもらいがでたら、ふるいをのぞいて塩をへそにぬる」とか、「雨が降ったとき、石を三つ雨だれに投げこむとよい」、「くしを畳でまさつしてあてるとよい」など、ものもらいについてはいろいろ各地区でいわれており実行しているものもいる。
 「3人で写真を撮(と)ると真中の人は早死にする」、「山かがしの抜けがらをたんすの中に入れておくと金持ちになる」、「かんの虫を治めるのには虫封じをするとよい」また、「朝藤・夜縄」といって、それを燃やすのには注意しなければいけないといわれている。波木井では、それに加えて「朝藤・夜縄・昼すがい」といい、昼はすがいを燃やすなといっている。そのほか
 「七夕の日に髪を洗うときれいになる」、「眉(まゆ)毛の間が遠いと遠いところに嫁ぐ」、「さるの日に炬燵(こたつ)をたててはいけない」、「さるの日に建築を始めてはいけない」、「びわの木を家に植えてはいけない」、「たびをはいて寝ると足が大きくならない」、「帯金の氏神様はとうもろこしをきらいだから植えてはいけない」など数多い。
 以上のように、「葬式、死者に関するもの」から、「その他」まで13の項目に分類して記してきたが、これらの内容を総合的に考えてみると次のようなことがいえる。
 人間はよりよく生きたいし、幸福な生活を送りたいという気持から、死を恐れ、死に関する一切のことがらを日常生活の中に入れまいと努力している様子がうかがわれる。
 たとえば、「北枕に寝る」という人はなく、誰もがそれを避けている。冠婚葬祭のような、最も大事な行事になると、日頃いろいろな迷信や俗信は一切気にしない者も全員が吉日を選んでいる。人間がよりよく生きようとする気持の続く限り、これらの俗信は続きそうである。
 善悪の判断や、科学と非科学的なことがらを判別することがまだ困難な子どもに年長者が俗信を教えると、それを忠実に実行している点がみられた。それは、
 「上歯が抜けたら縁の下え……」は小学生はほとんど実行しており、信じているものも数多い。次いで実行しているものに、
 「いぼいぼ1本橋渡れ」があるが上級生になるに従って信ずるものが少なくなってきている点は当然のことであるがよろこばしい。
 身延地区においていわれている俗信は各地区ほとんど区別しがたいが、「田植のとき結んだわらの中に苗を植えると葬式米になる」というのは富士川の西側地区でいわれている。
 「たびをはいて寝ると足が大きくならない」は下山で、「帯金の氏神様はとうもろこしがきらいだから植えてはいけない」などは地区の特色あるものとしてあげることができよう。
 俗信は「……すれば……になる」という形式で多くのものが伝えられてきている。つまり表現を仮定と結論に分離することができるが「……になる」という結論がはっきりせずに、「……してはいけない」という不完全な形で伝わっているものが多い。
 例えば「日が暮れてから塩を買いにいくといけない」ということだけを知っていて「火を呼ぶからいけない」とか、「狼が好物だからいけない」というような結論を知らない。つまり原因があって結果のない不完全な形となって伝えられている。特に中学生は、「日が暮れてから塩を買うことはいけない」という俗信さえ知っていない。このことからも意味のない俗信が次第に姿を消していく過程の断面とも考えられる。原因だけで結果のないものに次のようなものもある。「洗たくものは必ずたたんで着なければいけない」、「便所の前に南天を植えるとよい」、「びわの木を家に植えてはいけない」
 このように迷信・俗信は今後滅亡の一途を辿(たど)る運命にあるといえよう。このことは戦前と戦後を比較してみるとはっきりしてくる。吉凶に関するもので述べたごとく、元旦には誰一人、商店を尋ねたものがなかったというが今日では元旦にお金を使うことを気にしないものが年々多くなりつつある。
 このように身延町の生活が科学的、合理的な方向に向って一歩一歩前進している姿を俗信・迷信の研究を通じてはっきり知ることができた。