第七節 口碑伝説と民謡童唄

一、口碑伝説

 口碑伝説は、民俗の伝説的信仰や、習慣、個性などを率直に表現しているといえる。そして、特定の場所や事実と結びついて語られるという特徴をもっている。また、文字が生まれて記録された歴史と口碑伝説がはっきりたもとを分かってからは、一部の人々により、最も信じやすい形に改作され、ある程度の歴史性、合理性をおびて語られているものも多い。原色百科事典(小学館)によると、その発生過程から伝説を次の三つに分類している。
1、説明的伝説−自然現象、事物、慣習への民衆の説明的欲求によるもの。
2、歴史的伝説−ある歴史事件に関して、基礎知識をもった上層部で作られた話が民間に沈下して固定化したもの。
3、信仰的伝説−超自然的な霊格が話の中心となるが、もともと個人の異常な神秘的・宗教的な体験にもとづいて成立したもの。
  また、民俗学辞典(柳田国男監修)によると、その話の内容から、①木、②石、③塚、④水、⑤坂と辻、⑥山、⑦谷と沢、⑧島、⑨森と野の一隅、古い屋敷址、⑩社寺、堂閣、旧家というふうに分類している。
 本町の伝説を収集してみると、どの部類にも多くの伝説があるが、日蓮宗総本山である身延山を控えているため、おのずからそれにまつわるものが多いようである。また、「くつわ虫」のように似た伝説が他の地域にあるもの、「杖たち清水」のように、その人物が違うだけで、日本各地に流布しているものもある。なぜこのような伝播が行なわれたか不明である。いずれそれは民俗学の研究にまつことにして、ここでは、学問上の分類にとらわれず、町の記録として、あるがままを記述するだけに留める。時間的な制約で、集録できなかったものも町内の各部落に相当あるのではないかと思われるが、将来伝説だけ集めて刊行するような機会があるならば、それはまた、その機会に譲りたいと思う。
   さかさいちょう 下山 上沢寺
 上沢寺に、太さ六抱えもある大いちょうがある。
 700年前、日蓮聖人が身延山入山の頃、穂積村小室山(現増穂町)の善智法師(真言宗)が、聖人と法論して負け、それを恨み弟子に命じて、日蓮聖人を上沢寺に招じ、毒の萩もちを出した。日蓮聖人は庭で遊んでいた白犬にもちを一つ投げ与えた。すると、白犬はそれを一口食い、黒血を吐いて悶(もん)死した。
 両僧は隠しきれず前非を悔い、宗旨を変えて日蓮宗に帰依し、その弟子となった。日蓮聖人は、身代わりになった犬を哀れみ、寺の境内に葬り、その上に持っていたいちょうの杖を突き立てた。
 その杖に根が生えて成長したのが、この大木であり、枝が下を向いているから、さかさいちょうとも、また、葉上に実を結ぶことからお葉つきいちょうとも呼ばれている。その他毒消しいちょうとも呼ばれ、この木に触れただけでも、身体の毒が消えるといわれている。その葉を粉にしてせんじて飲めば毒消しになるといわれ、また、その実は安産の護符になるといわれている。「甲斐伝説集」
   榧の木峠 相又坂本
 日蓮聖人が身延山へ御入山の折、この地に休息なされた。そのとき携えていた榧の木の杖を道の傍にさされた。これより芽を生じ大木となり、ここに榧の木峠の名がついたということである。「豊岡村郷土資料」
   蛇石 清住町
 いつの頃かは不明であるが、大蛇が住んでいた。蛇は竜となって天上するまでに、様々の苦心をするという。水中に1,000年、岩の上に1,000年、人家に3日間、姿を他の動物に発見されないようにして修行し、初めて天上できると伝えられている。−その修行中の蛇であったろうか、山から海へ出る途中、大石に圧されて死んだ。その大蛇の骨が、現在も民家に保存されているという。蛇を圧死させた大石−蟠龍石(はんりゅうせき)−といい、また、蛇の骨も蛇石といっている。「身延の伝説」
   紐掛石 粟倉
 昔、甲斐の盆地が一面の湖水であった時、東光寺の国母地蔵と鰍沢の蹴裂(けさき)明神が、鰍沢の下の岩石を切り開いて一国の水を落とされた。その時紐をかけて引っぱった岩を紐掛石といい、今もその岩には、あさり、蛤等の貝の化石が残っているという。「甲斐伝説集」
   黄金石 清子
 昔、中山のふもとに1軒の家があった。その家は先祖からの大金持ちであった。しかし、金はあっても子どもがなかったので、毎日神に祈っていた。すると、1人の子どもが授けられた。丸々と太った男の子であったが3年たっても、4年たっても歩くことができなかった。神仏にも祈ってみたが、やはりだめであった。
 そこで、家人は小判を大きな袋へ入れて、その子の前におき、「おまえは、もはやこの家におくことはできぬ。この金をもって出ていけ」といった。その子は不意に立ち上って窓から舞い出し、中山の中腹にある家のような大きな石の穴の中に入ってしまった。すると何者ともしれぬ者が、その穴に外からふたをしてしまった。それからはその金持の家はだんだん衰えてしまったという、この石を黄金石と呼び、現にその石にはふたをしたような跡がある。「豊岡村郷土資料」
   高座石と七面天女 西谷
 七面山参道の第1の関門、山と山との峡、ここに昔は七面山一の鳥居があったという。水は淙々として響き、杉の緑はしたたるばかりのところ、苔むした大岩…この上で、ありし日、日蓮聖人は法の道を説いておられた。
 土の上に、樹のかげに、坐って聴問している信徒の中に、ただ1人の年若い少女がいた。初めのうちは、だれも気にとめなかったが、日数を経るにつれて、人々の目はこの少女にあつまるようになった。どこから来たか、どこの人か、しかしだれも知る者はなかった。それで村人は、聖人と結びつけてあらぬ噂(うわさ)をたてるようになった。1日、波木井公は高坐の上の聖人に少女のことを問うた。聖人は微笑して少女に「本体を現わして人々の疑いを晴らせ」と言われて、花瓶の水を少女の髪にそそいだ。すると、黒雲にわかにあたりにたちこめ、嵐が木々の梢を鳴らし、驚く人々の目の前で少女は竜と化して黒雲に乗って、はるか七面山の方角へ飛んでいった。
 少女が残したことばは、「有難い説法を承りました。私は七面山に住む蛇神です」これがやがて、七面天女として祀られる因縁となったのである。「身延の伝説」
   うば清水 杉山
 日蓮聖人が身延山へお着きになり、堂宇を建築されるまでの一カ月間、甲州を御巡錫(じゅんしゃく)なさったことがあった。その折、渇を覚えて、1軒の農家に水を求められた。農家のうばは、はるばる谷を下って水を汲んできて聖人に奉った。聖人はそれを御覧になって、哀れに思われ、持っていた杉の杖をもって地面を掘られた。するとその杖の先から清水が湧き出した。
 それが現在の姥清水と呼ばれる冷たい清い水であるという。また、身延町元町、波木井にも、これと同じいわれの井戸が残っている。
                          「身延の伝説」
   桜清水 横根
 横根に桜清水の霊場とよばれるところがある。真言宗実教阿闍梨という人が、真言宗秘密の法力を修め、国家安寧を祈願していたが、文永11年日蓮聖人が鎌倉より身延山へ入山の折、そこに休息し老婦に水を乞い、渇をいやされた。その時その水を、天の甘露もかくやと賞し、「手に結ぶ水の流れの久しきは、妙の御法の縁なるらめ」と詠ぜられたという。そして、携えていた桜の杖を泉のほとりにさし込まれた。後にその杖より芽を生じ、枝も繁茂した。実教阿闍梨も不思議に感じ、後に日蓮宗に改宗し、寺も、玉林山実教寺と改称したという。「豊岡村郷土資料」
   塩の川 粟倉
 下山から粟倉へ行く山道の途中に塩の川とよばれるところがある。水が少しばかり流れている。昔、塩を背負った人が、この川の付近で転び大けがをした。そしてこれが原因でついには死んでしまった。今でもまだこの水は塩辛くて、これを飲むと死ぬといい伝えられて、だれも飲む人はいない。「下山村誌」
   尻なしたにし 下山 本国寺
 日蓮宗の古刹(さつ)本国寺は、名僧最蓮上人が日蓮聖人に帰依した由緒ある寺である。
 この寺に日蓮聖人が見えられた時、1人の老婆がそばを供養した。ところが、そのそばの汁の中に1匹のたにしが入っていた。日蓮聖人は、大慈大悲の秘法をもって、汁に煮たたにしを生かし、境内の池に放った。それが今すんでいる「尻なしたにし」であるという。
 これについては、もう一つのいい伝えがある。当時この近隣一帯に悪性の熱病がはやったことがあった。それを憂えた最蓮上人は、日蓮上人より授った秘法をもって、その熱病をたにしに封じこめ池に放った。熱病は治まり事なきを得たが、それ以来この池のたにしには尻がないという。「甲斐伝説集」
   粟冠の鰍(かじか) 相又
 日蓮聖人が身延山に入る途中、相又川の岸で石の上に腰をかけて休んでいると、老婆が、畑からの帰路通り合わせ、聖人をわが家へお連れして中食に粟飯を供養した。その時、汁の中に一匹の鰍が入っていた。聖人は如何ともなしがたく、それを食し終って後、老婆の家を辞して相又川でお口をすすがれた。
 その後、この川畔の正慶寺の近くに、粟粒を頭につけた鰍が現われたので、日蓮聖人由縁の珍魚とたたえた。また、老婆の家は聖人に粟冠の姓を授けられたという。正慶寺内には今も「御腰掛石」がある。
 このことから、正慶寺を「粟飯の霊場」ともいい、今も粟冠の鰍がすんでいるという。「甲斐伝説集」
   七面山の池
 七面山には、池が七つあるという。そして第7の池は決して見ることができない。もし見ると、その人は必らず目がつぶれるといわれている。
 ある時信州の樵夫(きこり)が山の中で迷ってこの池のほとりに出た。清らかな水と静かな森にすっかり魅せられた樵夫は、美しく乱れている池のほとりの名も知らぬ紫の草花をむしり取って池の面へ投げた。すると、不思議にも今まで少しも波がなかった水面に渦巻が起きて、それがだんだん大きくなって、果ては岸をかむ大波がものすごい勢でおし返すようになった。そして、その波の間から竜が突然飛び出して天上した。この有様をみて驚いた樵夫は、一散に山麓へ逃げ下った。しかし、その時あわてて斧を置き忘れて来た。それで今後もし斧が発見された池があったら、それが七面山の第7の池であるといい伝えられている。「身延山の伝説」
   稚児が淵 身延山
 昔応永の頃、花若、月若という2人の稚児がいた。たいそう美しかったので、1山の僧が、この稚児を寵(ちょう)愛したため、2人は「武人身を投げる」という辞世を残し、池へ身を投げて死んだ、衆僧哀れんで祠を立てて2人を祀(まつ)り、稚児文殊といった。「甲州伝説集」
   稚児文殊の井 身延山上之山奥之院道
 「稚児が淵」伝説のもとになった話だといわれている。昔、本山に文殊という稚児がいた。その美しい姿に思いをよせる女人があった。そして少年文殊は、その女人の思いで、足に子を懐妊した。寺内にあるものが、そのような身になったのを恥じて、一夜筆の穂に糊をつけて干し固めて、それで咽喉をついてこの井戸に入水して死んだ。その井戸は、大杉の根元にあり、清水が根から湧き出しており、碑も残されている。「身延の伝説」
   牛淵 大城
 大城川の上流に牛淵という淵がある。
 昔その淵に黄金の牛が住んでいたという。そして、その牛が斃(たお)れてからは、大城川には砂金が流れるようになったといわれている。
 また、その淵に、上流より雨乞いの祈祷(きとう)札を流すと、雨が降るときは、その札が直ちに水中に深く巻き込まれ、雨が降らないときは、下流に流されていってしまうといわれている。「豊岡村郷土資料」
   富士川の鼻黒舟 和田
 その昔、富士川の通船がようやく開けた頃造られた1艘(そう)の川舟にまつわる話である。ある年、舟大工が幾人かの人夫を集めて、富士川の河岸で舟を造っていた。冬の寒空は吹雪となったが、納期も迫っているので、川原にたき火をして精出したが、なかなか能率があがらなかった。そこへ通り合わせた名門の主が、いささか気の毒に思って、「広くもないが俺の土間に移ってやったらどうか」と親切に勧めた。棟梁は、助け舟が現われたと喜んで、早速舟材を運び、数日にして新造舟が完成した。しかし、ふとしたはずみに、舟の鼻頭にかまどの墨がついた。せっかく仕上げた舟を納めることもできないので、棟梁1人思案にくれていた。折から、市川代官所から下検分に参られたので、事の次第をお詫び申し上げるとお聞き届けになり、主人の心尽くしをも大そう嘉賞された。その新造舟の名を「鼻墨舟」といった。「甲斐路三号」
   山と魔 ① 西谷
 西谷の檀林の学問僧は、卒業期には新談義ということをしなければならなかった。卒業生の1人(この学生は、頭もあまり良い方ではなかったが)は、どうしても新談義の文句を暗記することができなかった。それで、卒業試験ともいうべき新談義の高座の上で、ハタとつかえて文句が出て来なかった。先輩の1人は側から「忘れたところは飛んで、暗記しているところのみいえ」という意味を簡単に「飛べ、飛べ」といって注意した。ところが、あせっている学生の頭は、それを判断することもできず、意味をとり違えて高座から下へ一飛びに飛んだ。そして、一直線に付近の谷へ落ちて、そのまま行方不明となってしまった。それ以来、その谷(あくび沢)には魔物が出るようになったと伝えられている。つまり、その若僧が魔になったのである。「身延の伝説」
   山と魔 ② 西谷
 村の少年仁蔵が、大野山の会式に遊びに行くつもりで楽しみにしていたところが、父からたき木を取りに行くことを命令されたので、不平を言いながらあくび沢へ来た。そして、断崖から落ちて死んだ。…例の魔物にさそわれたのだといわれている。…そして、この可隣な少年は、思いを祭りの賑やかさに残して死んだためか、やはり魔物となって、その付近へ行く人をまどわしたと伝えられている。
 後に祠を作って少年を祀った。それが現在も「仁蔵森」と呼ばれて残っているという。それ以来魔物は人に害を加えなくなったといわれている。  
                          「身延の伝説」
   おとらのがれ 下山
 下山から身延奥の院へ通じる道に「おとらのがれ」というところがある。
 昔下山の里に、おとらという美女が住んでいた。ある日、おとらは奥の院に参詣し、そこの若僧と相思の仲となった。以来おとらは、雨雪もいとわず、毎夜五十余町の急坂を登って若僧と逢曳(あいびき)を続けた。若僧は、このおとらの情熱に恐れを感じ、ある夜女の帰りを送って行きながら、高いがれ(崖)の上から女を谷底へ突き落とした。その後、夜分にそのがれの付近を通ると、おとらの泣き声が聞こえるという評判がたち、若僧も得体の知れない病気にかかって死んだということである。「甲斐伝説集」
   びんぜえし 大河内
 びんぜえしという名の峠がある。昔交通が不便だった頃、この峠の西の身延方面と、東の富士裾野方面と交通するのに、杣(そま)人などを頼んで言伝えをしてもらったので、この名前が生じたのだといわれている。「甲斐伝説集」
   きもとり沢 下山
 昔、新町に茶屋兼宿屋を業とした斧兵衛という人が住んでいた。その隣に米造という6、7歳の子どもが、その母親と佗(わび)しく暮らしていた。斧兵衛は、その米造をわが子のようにかわいがっていた。
 ある寂しい夕方のことであった。斧兵衛は「坊や、いいところへ連れていってくれるぞ。お観音様へお参りに行かざあ。」といって、米造を連れ出した。米造を背負った斧兵衛は、観音様(清水観音)へは行かずに沢をどんどん登っていった。二抱えもあろうと思われる欅(けやき)の大樹があたりを覆(おお)い、夕闇をなおいっそう色濃くしているあたりまで来ると、斧兵衛はその大樹の下に米造を下した。そして、腰の刀をひきぬき一思いに切ろうとしたが、危険を悟った米造は、「おじさん、かんにんしてよ。」と斧兵衛の刀(やいば)を握った。冷たく光る刃は、米造の指を、ばらばら地面におとした。もはや逃げられず苦悶する米造から、きもを奪いとり、斧兵衛はいずこともなく逃げ去った。斧兵衛には、一族に業(ごう)病にかかった者があったので、それを治そうとしてきもが欲しかったのである。
 一方村人達は、斧兵衛と米造の行方を捜しまわった。とある日観音様の方から、白い紙をくわえた1羽の烏が飛んで来て斧兵衛の家の棟にとまった。不思議に思ってみると、何羽も何羽も来てとまった。これはきっとこの沢の奥に何かあるにちがいないと一同揃って行ってみた。そしてそこに悲惨な米造の屍(しかばね)を発見したのであった、斧兵衛の行方は不明であった。以来この沢をきもとり沢という。「下山村誌」
   しぐれ沢の法塔 和田
 慶長13年、身延山22世、心性院日遠上人は、浄土宗との討論が、その筋のとがめを受け、幕府の弾圧のために駿府の安倍河原の磔刑場(たくけいじょう)に引き出されて、まさに一命を落すまぎわ、紀州頼宣卿の御生母おまんの方に助けられた。後再び富士川を渡って、身延山に帰ることになり、大河内卿時雨(しぐれ)の沢の望月則光の館に一時身を寄せた。その後寛政10年(1798)に大野山19世日堅上人が建立したのがその塔である。正面には、南無妙法蓮華経、側面には左の和歌が刻してある。
 来てみれば袖に涙のしぐれ沢無き遠き日のあとぞ思へば
                          「甲斐から駿河へ」