私の椎茸研究のあゆみ熊谷義正
私は昭和3年大阪府認可校皇漢医学専門学院を卒業して郷里山梨に帰り、峡南地方の産業振興は地理的好条件に恵まれた林業副産物としての椎茸栽培にありと確信したのでこの研究に意を注ぎ、昭和4年国立林業試験場で1ヵ月間椎茸栽培技術の講習を受け、翌5年大河内椎茸栽培普及会を組織した。当時県下で椎茸の研究をする者は他になかったのでもの珍らしく、世間の嘲笑も買い、また羨望の的にもなった。研究は一進一退、七転び八起きの苦難の途を歩んだが着々と成果をあげ、時あたかも大戦に突入し昭和15年以来軍需供出のため椎茸増産の急務に迫られ、大河内椎茸栽培組合を組織、組合員を督励して本県唯一の椎茸組合として頭角をあらわし、当時の県知事斎藤昇も来村し、栽培実況を視察し激励の光栄に浴したのである。 戦後は天野久知事が県森林組合連合会長を兼任され、私は県嘱託、特殊林産普及員として県内の椎茸栽培専任指導員として奉職した。 私の椎茸栽培技術の成功のカギは当時林業界の権威として知られていた東大の三村鐘三郎博士、国立林業試験場の北島三郎博士、藤原光長博士等の御指導やヒントを頂いたたまものである。 本県随一の椎茸研究場として、全国的にも稀に見るものであり、種菌栽培なので県内外の見学者も多く、山梨シイタケ発祥の地と言っても過言ではない。 昭和30年の町村合併に際し身延椎茸組合と改称、ますますその研究と普及につとめて来たが、昭和40年大日本山林会会長より林業界の功労者として県内で初の表彰を受ける光栄に浴した。今後とも郷土の名産として椎茸の普及研究改良に微力をつくしたいと念じている。 (山梨式林業研究所長)
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