思い出二題清子 渡辺義村
その1 清子の結球白菜待望久しかった身延線は、大正9年5月富士身延間が開通したが、工事は引続いて甲府へ向って進められていった。身延山参拝客も急に増加し、諸物資のうち特に野菜類が不足がちの状態になった。県農務課ではその対策として、身延山付近へ供給地を設けようとして、種々調査の結果清子がえらばれた。 大正14年5月木下技師が突然小生方を来訪され、野菜類増産について種々説明され、秋蒔結球白菜の種子2合(約3.6デシリットル)を試作用に提供されて帰った。同年秋渡辺義村・若尾政重・遠藤熊二郎・遠藤作治の4名が試作し、はじめてではあったが好成績を得ることができた。その結果翌大正15年には、栽培者も増加したので、清子蔬菜組合を設立して、種子の共同購入、栽培法の共同研究等をはじめた。 同年秋第1回の品評会を開催した際木下技師の案内で、県立農事試験場から富岡場長と桜林技師が来会され、成績の良好であることを激賞された。3年目からは、部落のほとんど全戸が栽培するほどになり、身延山方面へ出荷するようになった。次第に身延駅や下部温泉方面までの需要にも応ずるようになり、清子の特産といわれるようになった。 勿論品評会は年々開催され、昭和18年まで続いた。しかし、第二次世界大戦の激化につれて、主要食糧増産のため結球白菜の栽培は、自ら減少せざるを得なくなってしまった。終戦後は、食糧事情の好転しはじめた頃から、栽培は復活して戦前に劣らぬ成績を得るようになった。年々豊岡公民館主催の農産物品評会には、清子の結球白菜が多数上位入賞をしめている。 |