奇蹟の「題目部隊」戦闘実録
梅平 望月義正
昭和12年7月15日、私は陸軍騎兵曹長として中国の戦線に充員召集され、第1野戦自動車廠第3移動修理中隊の一員として20ヵ月間、常に第一線の快足部隊と行動を共にした。基地天津から馬廠・済南・泰山・台児荘から徐州戦へと激しい戦闘に参加、帰徳において北支から中支の東部隊に転属、青島から船で上海、南京を経て蕪湖に上陸、合肥・六安・大別山を踏破、武漢の攻略から九江に下航・盧山・洞庭湖・星子より徳安・修陽を経て南昌戦に参加したのである。
この20ヵ月の間、長島隊長指揮のわが中隊は、何十回もの会戦、敵襲の危険に遭遇しながら、移動修理部隊として第一戦部隊の戦車・飛行機・自動車・船舶等兵器の修理にあたり、その優秀さは部隊感状にも匹敵するものとたたえられたが、それにも増して注目をあつめたのは、この激烈な長期の戦闘下、中隊に1人の戦死者はおろか戦傷者さえも出なかったというおどろくべき事実である。世界の戦争史にもおそらく例を見ない奇蹟として当時大阪朝日新聞をはじめ各社の報道班員によって写真入りで紹介された「題目部隊」こそ、私の参加した長島隊だったのである。
私は出征の際、青鹿新太郎氏より武運長久を祈って日蓮大聖人御真筆の御本尊をいただいて従軍したのであるが、長島隊長も大の日蓮信者で、部隊全員を加護していただくようお前が御本尊に給仕せよと私に命令され、私は隊長公許のもとに部隊の守り本尊として給仕したのだが、不思議にも前記のごとく数々の戦闘に1人の犠牲者も出さなかったことはまさに大聖人の有難いご加護以外の何者でもなく、仏縁あって身延の聖地に生まれ、生死をかけた戦場に日蓮大聖人の信仰者としての誇りを無言のうちに示し得たことは勲章にもまさる喜びであった。
以来30余年、昨43年11月17日、東京において長島隊生存者の親睦会が開催されたが、全員太平洋戦に応召、或は戦災等二重苦三重苦をなめた者ばかりで生存者50パーセント、46名が出席した。今日まで、生き残ったこともひとえに御本尊の加護のたまものと一同で御本尊に涙して合掌礼拝したのである。
一同の総意により青鹿新太郎氏を親睦会の顧問に推し、由緒ある御本尊は会の守り本尊とし、奇蹟の「題目部隊」今もなお健在なりとの誇りをもってわが家の宝として永久に保存する覚悟である。
  
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