私の八月十五日大野 深沢徹
昭和16年2月、私は戦火の東京から父の郷里身延へ疎開した。両親は東京に残り、子どもだけが田舎へ逃れたのである。私は県立身延中学校の2年に転校したが、ここも東京の中学と同じく学問不在の場所であった。毎日「勤労動員」という名のつらい労働が続いた。ある日は波木井の宮の花で松の根をけん命に掘ったり、(この松根から取れる松根油が飛行機の潤滑油になったという)またある日は大垈の山奥から1日に7束の杉皮を背負子(しょいこ)で塩ノ沢駅に運びおろす作業が命ぜられたりした。けわしい山道を、3束か4束のじっとり濡れた重い杉皮を運び出す仕事は、いつも空腹の少年たちにはひどくこたえた。満足な米の弁当を持って来られる生徒はごく少なく、さつまいもを切りこんだふかしパンだの、ほとんど麦ばかりのにぎりめしがせいぜいだった。「代用食」がふつうの世の中で、甘いものなど、およそ口に入ることはなかった。甲府が空襲で全滅してその惨状が人の口伝えに語られ、毎日作業をしている私達の上空を何の妨害も受けずにB29の大群が悠々と東へ向うのがあたりまえになると、私達も何か追いつめられたような、「これで勝てるのだろうか」という気持ちにかり立てられた。 作業はますます激しくなり、今の美登見町営住宅のある台地に山と積まれていた材木を和田峠の頂上までかつぎ上げる重労働が続いた。太い丸太を2人で肩に支え、あの急坂を1日6本運ぶのがきまりであった。暑さと、空腹にあえぎながら頂上にたどりつくと、監督の先生がスタンプインキで腕にひとつ筆の尻で〇のハンコをおしてくれる。これが6つにならないとその日の作業から解放されないのだ。中には頭の良いのがいて、スタンプが乾かぬうちに仲間の腕にそれをおしつけてコピーする。うまく行けば1回もうけというわけである。うすくしか写らぬときは、汗のせいにするのだが、この名案も間もなくバレてしまった。 腹の立ったことには、せっかく苦労して何ヵ月もかかって運び上げた材木の山を、またもとの角打へ運びおろせ、という命令である。さすがに中学生たちも怒り出して、「こんなことだから戦争に負けるんだ」などという者もあったが、しょせんはまた無気力な、さいの河原のような労働をつづけるほかはなかった。急坂の登り下りに、わら草履がすり切れ、登りはつま先、下りはかかとに小石がくいこみ、血がにじんだ。 こんな或る日、天皇の「玉音」放送があるというニュースが流れた。「いよいよ1億玉砕、本土決戦の勅語だ」といううわさが真実味をおびて語られた。 その日もひどく暑かった。2度目か3度目かの材木をかついで駅前まで来た私は「赤塚」の前に人だかりがしているのを見た。異様な雰囲気であった。ラジオからアナウンサーの声が流れていた。むずかしい言いまわしではあったが「戦争が終った」こと「敗けた」ことはよくわかった。「ポツダム宣言」が日本の無条件降伏を要求していることは中学生でもたいていは知っていたのである。 泣いている人もいたし、「俺は降伏なんかしないぞ、これからが決戦だ」としきりにどなっている若い男もあった。 いりつけるような炎天の中で私たちはしらじらとした思いで立ちすくんでいた。今朝出て来たばかりのわが家へむしょうに帰りたかった。何か大変なことがおこって、家族が離ればなれになりそうな不安とおそれが私の心をみたしていた。 だが、それとともに、不思議な安ど感も湧きはじめていた。「もうこのつらい作業もやらなくていい」「父が召集されることもない」ということはたしかだった。 「おい、帰ろう」私は相棒の学友に言ってさっきまで肩にくいこんでいた重い丸太を道ばたにころがし、そのまま家に向った。次から次へ材木をかついでくる中学生がみんな同じ行動をとっていた。「赤塚」の前はたちまち材木でいっぱいになったが、教官もだまって見ているだけであった。 はじめての規則やぶり、途中下校、それはまったく自然に行なわれた。誰もとがめるものはなかった。それは軍国日本の秩序が崩壊しはじめたことのしるしであったのだ。 この日から、貧しく、しかしめまぐるしい変革と新鮮なおどろきをともなった私たちのほんとうの青春の日日がはじまったのである。 |