大東亜戦争の生んだ思い出の記元町 望月善長
その1 身延一乗学苑練成道場戦争は日ごとに激化してきたが、銃後の大衆は神国と神風を信じて、あらゆる困苦欠乏に堪えてきた。しかし、戦争に絶対かかせない人的資源の欠乏は、当局者の最も苦慮するところであった。その時悪事にふみこんで現在収容中の不良少年を短期間に練成し、更生させて役立たせようという窮余の一策が考え出され、練成場として天下の霊場身延山に白羽の矢が立ったということはけだし当然のことといえよう。 甲府検事局よりの要請を身延山は快諾して、梅平上河原に道場を新設し、「身延一乗学苑練成道場」と命名し、指導主任には宗門の逸材中西本秀師を選任したのである。ところが意外のところから、猛烈な反対の声があがったのである。すなわち不良少年を収容した場合、その盗癖による農作物の被害、空巣盗難等果ては婦女子暴行等の場合、町においてその責任はどうするかという、当時としては当然考えられる反対の声であった。 時の町長佐野徳造氏はその間に立って相当苦慮されたが、時代の要請はグングンと道場開設に進行していったのである。町は隣接町村に呼びかけて布団の供出寄付をしていただき、婦人会には慰問その他衣服の修理等に奉仕を願ったのである。食糧の不足を補うために農事の手伝い派遣、果ては山林の下刈り手入れ等に出勤、その見返りとして食事を提供してもらったものである。 入所当時のヘラヘラな少年がわずか1、2ヵ月の練成で別人のようになり出所して行った。したがって甲府検事局の力の入れようは当然で入所式ごとに検事正が臨席した。なお特筆すべきことは時の総理小磯陸軍大将が視察に来られたことであった。終戦と同時に閉鎖されたことは論をまたないが、このような施設があったのは身延山あってのことと思う。また当時政府当局がどうしたことか、当時助役の小生に対し司法省の名をもって桐のスカシの辞令書に「身延町長望月善長」南部地区司法保護委員会参事を嘱託すると記され送付してきて唖然としたが、時効になった今日当時をしのぶ記念品として額入りにして保存してある。 |