その2 学童疎開 東京四谷第四小学校から第七小学校まで、それに芝白金三光小学校児童が身延へ疎開することになった。総務課長の古谷英一君と旅館寺院を戸別訪問して受け入れ方を懇請した。当時はまだ戦勝祈願に武運長久祈願にと参詣客も相当あり、各方面とも難色を示し承諾を得るまでにはかなりの困難があった。その際の質問を1、2あげよう。 1 町当局は寺院というものをいかように考えておらるるや
2 東京の家屋あるいは両親等の被爆により学童が孤児となった場合はどうするか。
3 宿料の少額食糧の保証について
これらの問題をそれぞれ処理して受け入れたが、戦争が日に日に苛烈となり、参拝客の減少と同時に東京より家族の慰問客がこれにかわって、収入源となる等皮肉な現象となった。発育盛りの子供にはさびしさより空腹の方がこたえたようだった。1日里親として町内の協力者に呼びかけ、児童に心入りのご馳走をしたり、紙芝居を持って宿舎を回ったことなどみんな楽しい思い出である。終戦後11年当時議会議長で疎開学童のオヂイチャンとして親しまれた佐野勇治郎が死去した際は、立派に成人したかつての疎開学童数人が参列したのも印象的で、今頃はみんな相当の地位になり、社会に貢献しているだろうが身延の空は終世忘れないことと思う。 |