身延町合併余話角打 佐野祥盛
町村合併は経済利点を主眼とする以上各町村の財政規模の相違があり、これが一番合併促進の障害となることはもちろんである。当時大河内村はこの点他にすぐれて恵まれ、いつも400万や500万の預金をかかえており、かつ財源として大口償却資産税(1,500万円)、鉄道納付金(350万円)煙草消費税(330万円)その他電気ガス税等、対岸町村にない財源をたくさんもっていて、単独でも充分やって行ける自信があり、とつおいつしたのであるが、合併に乗り遅れては将来どうかとの声もあり、種々研究審議したのである。そこで合併に参加することとなり、審議会へも毎回出席し12月20日豊岡で開かれた審議会において、今日なお批判を浴びている最初の脱退が起ったのであるが、これにつき一言したい。 当時大口償却資産税は29年度より5ヵ年経過すれば、そのほとんどが山梨県へもって行かれることに法律が新たにできたのでその点深く関心を寄せたのである。 年度が1年ずれることは1,500万円の得失にかかわる問題だからである。 ところが、対岸の町村長や審議委員は全然影響がないので無関心かつ一顧の価値なしとし、あくまで2月11日発足を主張してやまない。これに対して大河内側委員は4月1日から発足すれば向う5ヵ年分丸く取れるから1,500万円得をすると主張して真向から対立したのである。 (註)当時法律は大口資産税に限り29年度から5年後には県がとってしまうことが出来たのである。但し合併町村に限り合併の時より5年を限るとあるので、身延の場合実質には30年度から5ヵ年間よいことになるので4月1日からだとこの時点へ入り1年分1,500万円得をする。それに反し2月11日の合併だと僅か49日で全然1年分を損してしまうのだ。
この利害得失につきかんで含めるように説いたが、相手は三ヵ町、多勢をたのみとして聞き入れない。遂に大河内側10名の委員もがまんしきれず席を蹴ったのである。すぐあとでわかったのであるが、裏面には、大河内を除けという動きがあったのである。その理由の第1は財政的に恵まれ、人口規模において身延にまけない大河内へのねたみ、第2は郡がちがうということ。第3は大河内の人間は理屈をこねる、かつ選挙の場合厄介だ。 これが有名な大河内脱退さわぎの真相である。このことが県に知れ、その夜のうちに地方課長が見え、「現在の利害にとらわれて将来の大計を誤らぬよう慎重にされたい」と勧告やら斡旋やらあり、実は大河内として単独でも充分行ける自信があり無理してまで入る必要もなく二の足を踏んでいたのであるが、将来のことを考えると所謂お先真っ暗でわからないしどっちでも良いという気持で県のあっせんにまかせたのである。 これもあとでわかったことだが、対岸の3町村も「大身延だなどと豪語しても玄関口を占められ、かつ持参金付きの大河内が入らぬようでは合併の意義なしではないか。この際大河内をだましてでも入れるべきだ」と勧告されたとのことである。 それをあたかも大河内が困って入れてもらったなどと伝えられているが、事実を知らざるも甚だしい。 こんな事情から新身延町が誕生したが、合併当初の財政状況はいずれも丸裸で転びこんだ貧乏世帯で、発足後1年間の苦しみは想像以上のものであった。 そこへ大河内がヒモのつかない自由に使える財源をもちこんだのだから、いかに助かったかを身にしみて知ったのは当時の当局である。 当時合併の第1として最も困難な財政状況下にとり組んだのが役場庁舎建設であるが、財源としては僅かに580万円に起債を基に、身延山を強請(ねだ)るようにしてもらった500万円で、今日の2,000万円の新庁舎を作り上げたのである。この建築は実に大河内の持ち込んだ大口の償却資産税1,500万円、鉄道納金350万円、煙草消費税330万円などの財源を生かし、節約して使ったことにより完成したのであって実に感慨無量である。 この点、旧身延町にも識者がいて、私に大河内へ感謝するといってくれたこともある。 (初代身延町長、元大河内村長)
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