李健公妃の疎開
八木沢 鮎川省三
戦争がいよいよ苛烈になった昭和19年に李健公妃には、総門の山之坊へ3人のお子さんを伴なわれて疎開された。
毎日のようにお子さんを連れられて、殿前あたりを散歩なされたのをお見受けした。
ところが8月1日突然に、5日身延国民学校へ非公式にお成りになるとの知らせがあった。当時のことだから、役場と学校ではお迎えのため、校舎内外の清掃をはじめ準備に忙殺され、清兮寺(せいけいじ)からジュウタンを借りて来て、校長室をお控所にするやらしてその日をお待ちした。
当日は好天気で暑い日だった。いま山之坊をお出かけ、10分後にはお着との電話があったので、校長は職員児童とともに玄関前でお迎えした。
玄関に立たれると小さいお子さんの靴をぬがせられようとされたので「そのままで」と申し上げると「大そうきれいになっておりますので」と申されたので重ねて「そのままで」と申し上げてご案内した。
お控所では、王家事務官が「校長より学校の概況を言上いたします」と申し上げて入口まで下った。
校長の説明を起立されて聞かれ、ついで6年生の加藤稲子と河井かほるの「必勝の信念」と書き上げる習字の様子をご覧になり、なお児童の健康、栄養の状態などについてお尋ねになり、後、炎天下の運動場での全校児童の体操を、お子さんともども興味深くご覧になりお帰えりになった。
佐野町長と校長は、山之坊へお礼に伺い、加藤・河井の習字を差し上げて来た。
後日、春日王家事務官から聞いた話だが、お子さま方に「よくお出来になりましたこと、あなた方も一生けんめいまけないように勉強するように」とはげまされたとのことだった。
  
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