印刷【町指定文化財】清正公堂

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指定日:昭和44年6月1日
所在地:身延清住町1
所有者:逕泉坊
時 代:江戸 文化年間(1804~17年)
大きさ:間口7.31m、奥行9.09m

概説

 戦国武将加藤清正を神とする信仰は、熱烈な法華経信者として日蓮宗信仰と結びつき、江戸時代から明治時代にかけて全国的に広まった。逕泉坊は、廃寺となっていた教泉坊復興のため逕静院日泉上人によって開創された坊であり、文化元年(1804)に清正公堂を建立した。
 清正公堂は、嘉永七年(1854)の地震、文久四年(1864)の火災によって焼失。現在の建物は、文久四年(1864)二月釿初、明治六年(1873)上棟した。間口7.31m、奥行9.09m、向拝3.64mに2.71mで上り龍、下り龍で本堂につなぎ、仏がかくし彫りされていると伝えられている。正面は松竹梅の中に尉と姥と鳥が彫刻され、柱の上端の表には唐獅子、左右には象の彫刻がある。正面の彫刻裏には「小沢流 伊豆国江奈 小沢半兵衛邦秀、喜道永秀、徳蔵俊秀」の刻銘がある。小沢半兵衛邦秀が父、喜道永秀は次男、徳蔵俊秀は四男。小沢半兵衛親子は安政五年(1858)から三島大社の彫刻に携わり、喜道永秀は文久二年(1862)に三島で病死したので、向拝の高砂などの彫刻は、安政初期に小沢半兵衛親子が手掛けたものと考えられる。

口伝「身延攻め」
 元亀三(1572)年、甲州の武将武田信玄が大軍を引き連れて身延山を己の居城にせんものと攻めて来た。その時、一山の主なる人々が清正公堂の地で鬼門除け「法敵退散」の祈祷をしたところ、突如大雨に見舞われ身延山を攻める事が出来ず、ついに武田の大軍は甲府へ引き戻ったと伝えられている。
 後に身延山に番地を作るにあたって、清正公堂の土地は鬼門を除けた貴い場所であるという理由から、身延町の一番地と定められ、身延町はここより始められている。

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