印刷シン・ドウノヘヤ

 


4月12日(金)

   今日は「武田信玄」の命日です。歴史を勉強している私にとって、歴史上の人物には一般的に尊称はつけませんが、本当のところは「信玄」と呼び捨てにすることには少し抵抗があります。幼いころから「信玄さん」、「信玄公」と、周囲の身近な大人たちがそう呼んでいたので、「信玄さん」というのが当たり前で自然な呼び方でした。今での若い人にとっては少し違和感があるかもしれませんが、ある一定以上の年齢の山梨県人にとって「武田信玄」は、それほど特別な存在なのです。

   さて、元亀4(1573)年4月12日、西上作戦の途次であった信玄は病気が悪化し、甲府に帰る途中信州駒場で53歳の生涯を閉じました。死因は胃癌や肺結核、その他の原因だったともいわれています。信玄は死に臨んで子の勝頼や信頼できる家臣を枕元に呼び寄せ、死後三年間は死を秘密にすること、後継者は孫の信勝を指名し彼が成長するまでは勝頼が陣代として統率すること、遺体は甲冑を着けて諏訪湖に沈めること、影武者に弟の逍遥軒を立てることなどを遺言しました。この結果、信玄の逝去地や墓など複数の候補地が知られるようになったといわれています。特に墓については、私が調べた限り22か所の該当箇所があり、逝去地、埋葬地、火葬地、分骨地、後世の仮託された伝承地や供養墓など信玄治世下のカリスマ性が見て取れます。信玄の死と墓については、さまざまな謎でいっぱいです。

   身延町内でも慈観寺、満福寺で新たに信玄の墓が発見されました。富士河口湖町本栖の七社大明神、南部町十島の葛谷城跡など、これまであまり注目されてこなかった山梨県峡南地域方面にも、信玄の供養塔が複数存在していることが再確認されました。亡くなっても武田信玄の影響を受けていた人たちが、この地域にも一定数いたことが判明しました。


4月5日(日)

   今年は桜の開花が遅かったのですが、博物館の駐車場周辺の桜も強風による花吹雪と雨によって、花は散ってしまってほとんど残っていません。山梨県は桜の名所が多いところです。身延山のシダレザクラのほか、日本三大桜のひとつ北杜市の山高神代桜は樹齢2000年といわれ、なんと弥生時代から咲いていることになります。韮崎市のわに塚の桜とともに数日前に満開を迎えたようです。         昨日、乙ヶ妻のシダレザクラと徳和の新羅桜を見に行ってきました。乙ヶ妻の桜はほぼ満開で丘の上に咲く一本桜はさすがに見事でした。県外からの見物客も多かったです。徳和吉祥寺の新羅桜は、昭和28年に倒木した先から天に向かって枝を伸ばし、現在の樹形を保っています。落雷により一部空洞となっており、内部の焼痕が痛々しいのですが、その生命力には驚かされます。

     さて、桜を日本人が今のように愛でるようになったのは、平安時代からです。奈良時代の万葉集では花といえば梅の花のことで、やがて桜がとってかわってその主役に躍り出ます。桜の花は日本全国にいたる所に存在しています。天然の山桜のほか、園芸種もたくさんあります。桜前線によって春の訪れを日本中に告げます。木全体が一度にすべて花で覆いつくされるその華やかさと、わずかな期間しか咲きほこらず花吹雪として散って風に舞う姿は、そのはかなさについても魅力のひとつです。桜は日本人にとって特別な存在であり、日本の花の代表ですよね。この季節の桜花、花の景色と可能ならばそれを愛でての宴を十分に楽しんでみましょう。


3月31日(日)

   今日をもって令和5年度の最終日となってしまいました。あっという間に一年間が過ぎ去ってしまいました。何度も同じことを繰り返すようですが、日々の時間の経過が最近早まっているようにつくづく感じます。日々の出来事に対して感動しなくなっていて、毎日のくらしに慣らされている証拠なのかもしれません。前にここに書いた「ジャネーの法則」(10/3.6)を痛感しています。

                          昨日、今日と、とても暖かいです。車の中では暑いくらいになっています。昨日の最高気温は隣町の南部町で日本最高の27.8℃を記録しました。今日もぐんぐん気温が上昇しており、徐々に暑くなってきています。最高気温は身延町で27℃になる予報です。

   この暑さによって花も一斉に咲きはじめ、ヤマブキ、アオキ、オオイヌノフグリ、レンギョウ、タチツボスミレ、イヌナズナ、ニホンタンポポ、チューリップのほか沈丁花はもう終盤です。この沈丁花にはクジャクチョウが蜜を吸いにきて止まっており、アリや二ホントカゲも活発に活動をしています。


3月29日(金)

   昨日から今日の午前中までかなり強い雨でした。博物館駐車場の山側の沢からも、普段はちょろちょろとわずかにしか流れていない水が滝のようになっていました。下部川も水量が多く、濁流となって轟音をたてています。金山周辺から新たな砂金粒が、本流に供給されたのではないでしょうか。

   お昼前から天気は回復し、太陽が顔を出してきました。外はあったかい春の陽気です。館内は相変わらず冷え冷えとしていますが、忙しく動き回っている職員は汗をかいています。桜の開花は甲府気象台の標本木において、東京と同じく本日発表となる予定です。湯之奥金山博物館に隣接する下部リバーサイドパークでは、ほぼ咲き終わった河津桜が葉桜となって、ソメイヨシノは2~3分咲きといったところでしょうか。柳の木は緑色の葉が伸び始めています。さあいよいよ春です。いろいろなことが新しくなる年度初めももうすぐです。


3月23日(土)

   今日は朝開館前から雪がふってきました。山梨土研究会主催のシリーズ現地で学ぶ「下部温泉と湯之奥金山の歴史」の実施が危ぶまれましたが、雪はやがて冷たい雨にかわってなんとか開催することができました。身延町教育委員会とともに甲斐黄金村・湯之奥金山博物館にも協力依頼があり、下部温泉、周辺史跡、金山博物館を学芸員と一緒に案内しました。

   最初に下部温泉郷内をバスで通過しながら案内し、金山の入口まで行った後に門西家住宅へ行って建物を見学しました。門西家はもと佐野氏を名乗っており、湯之奥村の名主や関守を務めた名家です。江戸時代中期に建てられたこの建物は、富士川谷特有の民家形式である入母屋造りであり、国指定重要文化財となっています。規模が大きく梁組が整然とし木割の太いことが特徴の建物で、昭和44年の解体修理の際には屋根裏から金山で使用されたセリ板や木槽も発見されています。次に慈照院前の駐車場に移動し、ここから熊野権現神社に行って下部温泉の開湯の伝説を聞き、町指定の文化財となっている本殿を見学しました。神社では下部温泉のかつて賑わっていた当時の写真を見ながら、昭和の懐かしい時代の解説をしました。

   博物館では中山金山のジオラマの説明や展示品の解説をし、日本における初期の山金の採掘⇒粉成⇒汰り分け⇒吹き溶かしの工程を確認しました。最後に参加者に砂金採り体験をパンニング皿ではあるけれども、当時の採取の方法で砂金を探してもらいました。砂金粒ではあるけれども、黄金の魅力は絶大です。比較的若い方も年配者の方も、一生懸命水中の砂と格闘をしていたのが印象的でした。


3月19日(火)

  17日のシン・サンポの第2弾です。十五所神社は、15柱というたくさんの神様をお祀りしています。社名もこの祭神の数からきています。いつから鎮座しているのかは定かではありませんが、様々な神様を合同でお祀りすることによって、この地区の人々のどんな願いに対してもいずれかの神様がそれぞれかなえてくれそうなありがたいお宮でした。拝殿には絵馬や俳句の額がたくさん奉納されており、地域の人々にいかに親しまれているかが分かります。

  この境内には数種の道祖神があり、ご本殿の脇の玉(瑞)垣の中に5基が並んでいます。縄文時代から続く石棒型3基が中央にあり、右側に石祠形1基、左側に双体道祖神1基です。また、瑞垣の左側には石祠があり、きれいなハート形の穴があります。これは猪目(いのめ)といって日本古来からある文様です。当社ご本殿は一間社流造ですが、妻飾りに見られる懸魚(げぎょ)はハート形の透かしのある猪目懸魚になっています。


3月17日(日)

   第2回シン・サンポを久那土地域で行いました。春のうららかな陽気の中、久那土駅に十六名が参加。久那土地区の史跡を訪ねました。久那土駅⇒随応寺⇒十五所神社⇒道祖神⇒馬頭観音⇒大草道祖神場⇒美枝きもの資料館⇒久那土駅のコースでめぐりました。

   「久那土(くなど)」は「道祖神」の異称です。疫病・災害など災厄をもたらす悪神・悪霊が、集落に入るのを防ぐとされる神です。また、「久那土」はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もあります。「賽の神」「道陸神」「衢神」などの別称があり、多くの神々が習合されている複雑な神様です。村の入り口や集落内の辻に祀られることが多く、この地域では集落内の各組ごとにそれぞれ祀られています。

   地元からの参加者からは、甲斐源氏三沢氏の由来や三沢の地名由来となった三つの沢を説明していただきました。十五所神社では、宮司さんのご配慮で神社の由緒のお話だけでなく、拝殿内の天井絵や絵馬を特別に見せていただいたりしました。

   最後に美枝きもの資料館に寄りました。冬季は休館であるので、まだ今年は開館したばかりとのことでした。上田美枝氏が収集した江戸時代から昭和までの特徴的な着物を中心に、皇室関係や島嶼部の着物のほか、芸術的な調度品も展示されてありました。同じ町内に住んでいながら初めて来館したという参加者も多く、貴重な収蔵品の数々に驚きの様子でした。また、全員におみやげもいただきました。

   やはり今回のシン・サンポで一番特徴的なのは各地区にあった道祖神です。文字碑のほかに丸彫りの双体道祖神や石棒形道祖神、丸石道祖神などいろんなバリエーションが見られました。当地域には道祖神像の優品が多く、他の地区にない道祖神信仰の深さをしみじみと感じました。

   本日の参加者されました皆さんお疲れさまでした。そして、本日立ち寄らせていただいた、十五所神社の関係者、美枝きもの資料館のスタッフの方に御礼申し上げます。どうもありがとうございました。


3月14日(木)

   湯之奥金山博物館は下部温泉郷内にあります。下部温泉は歴史が古く、『甲斐国志』に「熊野権現(下部村) 社記ニ承和三丙辰(836)年、熊野ノ神此ノ処ニ出現シ給ヒ温泉湧出ス故ニ温泉宮ト別号シ奉ル。修理大夫姓名欠ク造営ス。天正二(1574)年甲戌年穴山信君亦建立シテ神領一貫三百文寄附シ禁牓ヲ掲グ。天正壬午ノ乱後神祖此ノ温泉ニ御入浴アリテ制札等下シ賜ハルト云フ神主依田近江。」とあります。下部町誌には「・・・甲斐国主藤原貞雄二男修理太夫正信疥癬を病み川合の郷知温辺の湯をお訪ねになり入浴してたちまち全治す。その夜丑の上刻頃枕元に神霊が現れ「我は熊野権現なり。汝温泉より未申の方へ湯の保護神として我を祀るべし」と。霊夢覚めて驚き入りこれによって熊野三社大権現を祀り神殿並びに拝殿を建立す。・・・」とあり、平安時代には温泉が湧出して湯治が行われていたことが伝えられています。確実な史料としては建治4年(1278)日蓮書状に「しもへのゆのついてと申者を、あまたをひかへして候」とあります。

3.15   日本全体を見渡しても、確実に江戸時代にまでさかのぼりうる温泉はきわめて数が限られており、現在の温泉のほとんどが近代以降の開削によるものだそうです。温泉の研究者の間では、①確実な史料が残されていること、②現在でも源泉が湧出していること、③湯権現が祀られていること、④温泉関連の遺構が残されていることなどがそろわないと開湯伝説の実証は難しく、実際そう古くは遡れないものが多いと言われています。そういった点からすると下部温泉は、確実に鎌倉時代までは遡ることができ、湯治場が早くから広く一般に知られていた温泉地ということができます。

   この熊野権現神社本殿は、天正二年(1574)に造られたことが棟札からわかり、三間社流造、向拝を持つ桧皮葺の社殿です。拝殿を兼ねた覆屋に覆われてはいますが、傷みが激しく落書きも目立っています。


3月4日(月)

   山梨市牧丘町倉科の大滝山上求寺は、奥の院を大滝不動尊、甲州子の不動と言われており、武田信玄公からも厚い信仰を受けていました。2月28日にこの大滝不動尊の祭礼護摩法要が営まれました。祭主は身延町八日市場の大聖寺ご住職。ご本尊の不動明王前に方形に組まれた護摩壇が用意され、灯明より火が点けられた後、5人の僧侶によってお経が唱和されました。火力が強まるとお堂内の信者が、それぞれの願い事の書かれた護摩木を順次火中に投じて合掌。今年は暖冬というけれど雪中のお堂内は寒く、護摩の火が暖かく感じられました。諸願成就、世界平和も祈願しました。

2.28.1   「さそわずば くやしからまじ桜花 さねこん頃は 雪の降る寺」と詠んだ信玄の歌は、この大滝不動尊を参拝の折に恵林寺の千代桜を詠ったものだそうです。(「上求寺説明板」)


2月29日(木)

   26日に下山地区のEさんとHさんに案内していただき、下山の大沢石切り場跡に行ってきました。この石切り場の道路脇の巨石には、石を割るためにあけた矢(クサビ)穴の跡が今も直線状に残されています。矢穴を使って石を割る技術は安土桃山時代にはじまって、明治時代以降にも行われました。矢穴の大きさで時代の推定をすることが可能で、この場所でみられる矢穴は3寸(9センチ)ほどであり、江戸時代中期の採石稼業と考えられます。伝承では富士山宝永火山の噴火の際に、身延山菩提梯(山門先の石段)が崩れた時に利用されたと言われていますので、年代的には合致します。

    大沢川の石切り場より少し上流に法光山妙見寺があり、こちらも案内していただきました。戦国時代の草創で火災により小堂のみだったものを、地元有志の助力で現在の境内に整えられました。池や庭園も整備され、かつてはアジサイの名所だったとのことで、山畔にはその名残が残っています。本堂前の池には鯉が悠然と泳ぎ、下の池では驚くほどの数のヒキガエルが群集して繁殖行動における先陣争いの真っ最中でした。冬眠から覚めて活発に活動するヒキガエルに、春の到来を真近に感じることができました。


2月26日(月)

   昨日からロビーで「甲斐の山々」の写真展が始まりました。第2回館長講座で峡南地域を中心とした「甲斐の信仰の山々」と題して、撮りためた写真をもとにそれぞれの山にまつわる山岳信仰のお話をさせて頂きました。その時使用した写真を中心に、それぞれの山頂やそこから見える周囲の山々のきれいな風景写真を展示しています。

   山行に何回も行っていると、「ブロッケン現象」にも何回か遭遇しました。これは山頂や稜線上において、日の出や日没前など太陽の位置が低い時に背後から太陽光が差し込み、霧や雲に自分の姿とその周りを囲んで虹の輪が投影される光学現象です。日本では、阿弥陀様が光背(光輪)を背負って出現したものとして有り難く信仰されていました。「御来迎」、「仏の後光」とも呼ばれています。展示しているのは白根三山縦走中に中白根山で早朝に観測したもので、この日は帰りの日没時にも同様に観察することができて、1日に2回も遭遇できて非常にラッキーでした。この名前の由来はドイツのブロッケン山で頻繁に観測されて報告されたことから、「ブロッケンの(妖)怪」、「ブロッケンの怪物」とも言われて、西洋では不吉なものとされていたようです。


2月25日(日)

   連休3日目、朝出勤時の家を出るときは雨だったのが霙に変わり、博物館到着時には雪になっていました。今日午後から第3回目の館長講座「山梨県の考古学-峡南地域を中心として-」の日なのですが、あいにくこの雪のため参加者はまばらでした。

   雪も講座が終わる頃には雨に変わって駐車場には積雪はなく、少し標高の高いところが雪で白くなっていました。リバーサイドパークに植えてある河津桜も可憐なピンク色の花が咲き始めており、対岸の醍醐山方面の雪景色と見事なコントラストを示してくれています。


2月19日(月)

   17日に久間先生のもの作り教室が開催されました。江戸時代に石見銀山などの坑道内で使われていたサザエの貝殻を使った「螺灯(らとう)」作りです。実際にはサザエの殻に油を入れて火を灯した道具ですが、LEDを使った灯りです。参加者はハンダゴテを使って器用につくりあげ、暗い映像室の中でいろいろな色に輝く出来栄えを確認しあいました。

    サザエは漢字で「栄螺」と表記し、螺旋状の貝殻がその由来となっています。「螺」とは巻貝の殻のことを言うそうです。サザエといえば国民的漫画の「サザエさん」が連想されます。昨日、早朝のテレビで再放送していたのを久しぶりに見ました。かなりの長寿番組なので、何人もの配役の声や時代設定などが変わっているのに気づきました。過去の番組内容との比較をすると、いつまでも長く変わってほしくないという思いと、時代とともに変わるのはしょうがないという思いが複雑に交錯します。


2月11日(日)

   節分、立春、旧正月、春節と今月に入ってから暦のうえでも春の気配が感じられます。3日は節分でした。節分とは文字通り季節を分ける日のことで、もとは四季に合わせて4つあったのですが、今は春の立春の前日のみが一般に知れられています。邪気を払う行事等が行われ、身延山久遠寺でも節分の豆まき(節分会)が盛大に行われました。各家庭では「鬼は外、福は内」の掛け声ですが、久遠寺では鬼子母神を日蓮宗の守護神としているため「福は内」のみで、「鬼は外」の掛け声はありません。

   2月10日は中国で春節(旧暦の正月)が始まりました。2月17日まで8日間の連休となるようです。この長期休暇を利用して日本に旅行で来られる人も多いようですが、コロナでの規制が緩和されたにも関わらず、コロナ前の爆買いツアーや大挙して特定の観光地に押し寄せる姿は鳴りを潜めているようです。中国本土の景気低迷の影響でしょうか。日本でも明治6年(1873)まではこの旧暦で正月を祝っていました。現在の日本の暦は太陽の動きをもとにして作られた「太陽暦(新暦)」を採用しているのですが、以前の暦は月の満ち欠けをもとに太陽の動きを加えた「太陰太陽暦(旧暦)」を使用していました。

            

 5日に雪が降った後は比較的暖かい日が続いたので、山際のアオキには新芽が膨らんでおり、その近くの低木(名前不詳)の葉も緑色になり始めました。その低木はよく見ると1輪の白い花が咲いています。季節は着実に進んでいます。春はすぐそこに・・・。 


2月10日(土)

   三連休の初日です。5日に降った雪も駐車場ではほとんどなくなりましたが、日陰の所はまだまだ真っ白です。日照時間がほとんど0だった1月とは異なり、日も高くなってきたため昼間のわずかな時間帯ではありますが、駐車場にもお日様の光が差し込んできてくれています。雪解けもこのところ急速に進んでいます。暦の上では立春を過ぎて春です。早く本格的なあったかい春にならないかなぁ。

     駐車場に至る通路の山際にある博物館の文字看板を、業者の方がクリーニングしてくれました。色褪せた古びた看板だなぁと思っていたのですが、洗浄しただけで当初の姿があらわれました。聞けば開館当初から、旧施設の看板の文字を書き換えたものだとのこと。古いものには経年変化の味がそれなりにあるけれど、ぼやけたものより鮮明なもののほうがシャキッとしていいなぁ。これから文字も塗り替えられる予定です。


2月1日(木)

 12月、1月と2か月間にわたって空調設備工事で休館中だった本館も、本日から再開いたしました。平日なので一般客は大人ばかりだったのですが、館内の観覧と砂金採り体験をしていただきました。久々の開館なので、運営委員さんやAU友の会の方も様子を見に来てくれました。ありがとうございました。

 職員一同張り切っております。皆様のお越しをお待ちしております。


1月25(木)

   峡南地区(南巨摩郡中心)の中世城館跡マップ作製を、山梨県埋蔵文化財センターで進めています。22日に埋文センターの早川町担当者と当館学芸員とともに、地元早川町硯匠館の天野館長の案内で奥沢金山の場所に行ってきました。雨畑湖の湖底では大型の重機が行き来しており、周囲の山々から流入して堆積した砂利を積みなおしていました。

   雨畑の老平からゲートを開けてもらい、笊ヶ岳の登山道となっている林道を天野さんの先導に続いて慎重に車を走らせました。林道の奥沢谷は切り立った崖になっており、狭いうえに林道上に落石や枯枝が時々行く手を阻むので、これらを除去してもらいながらゆっくりと進みました。この道は私も10年ほど前に笊ヶ岳へ登山した時に歩いた道なのですが当時の記憶は曖昧でほとんど忘れており、最後に説明を受けた廃屋となっている民家のところの記憶がわずかにあるだけでした。

   かつて金山のあった坑道付近は、河川の氾濫によって流入した土石にすっかり覆われており、流量も多いことから近づくことができません。しかし、左岸にある坑道は現在でも残っている可能性があると、天野さんから説明がありました。日をあらためて天気の安定している時期にまた来てみたいと思いました。

   過去の歴史の痕跡は、時代とともに徐々に失われていってしまうものです。早川諸金山だけでなく甲斐や全国の諸金山のそれぞれの現在の状況と、かつて操業していた当時からの変遷を正しくしっかり記録しておく必要性を再確認した今回の現地調査でありました。


1月16日(火)

   14日は、小正月の道祖神祭りの伝統行事が各地区で行われました。道祖神場や集落の広場などには、お山(お柳)と呼ばれる竹を細く割って色紙を巻き付けた柳の枝のように装飾された柱が立てられ、お小屋(お庁屋)と呼ばれる一時的に神様の宿るための小屋が杉の葉などで作られました。

     現在でも大草集落において、丸石道祖神のある道祖神場四隅に竹を立てて紙垂(しで)を付けた縄を張り、広場にお小屋が設けられ片隅にお山が立てられていました。一般的にお小屋は、14日晩のドンド焼きにおいて正月飾りの松飾りや注連の類と一緒に焼かれます。米粉を練って繭玉や球の形をした団子をつくり、これをドンド焼きの火であぶって家に持ち帰り、家族がこれを食べると風邪をひかず虫歯にならないとされています。また、縄に貼られた書初めが空高く舞い上がれば書道が上達するという風習があります。他の地区でもこれらの施設の一部が設けられていたり、道祖神周囲の注連縄や紙垂、御幣などが新調されていました。

 町内各地区の道祖神

 博物館日記にもあるように、お山飾りをエントランスに毎年飾っていましたが、今年は空調設備改修のため飾ることができませんでした。


1月6日(土)

 今年は辰(竜・龍)年です。辰は十二支で唯一想像上の動物です。

   干支(えと)と十二支を同じだと思っている方も多く見られますが、干支とは正しくは「十干十二支」の略です。「甲(こう・きのえ)、乙(おつ・きのと)、丙(へい・ひのえ)、丁(てい・ひのと)、戊(ぼ・つちのえ)、己(き・つちのと)、庚(こう・かのえ)、辛(しん・かのと)、壬(じん・みずのえ)、癸(き・みずのと)」の十干と、「子(ね・ねずみ)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う・うさぎ)、辰(たつ)、巳(み・へび)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い・いのしし)」の十二支の動物を組み合わせた60種類の数を表す言葉です。60で一回りして最初にかえってくるので、60歳を還暦というのもここからきています。

   古代中国では、暦や時間、方位を示すのに「十干十二支」が使われていました。この影響を受けた日本でも同様に使われ、昔の成績表「甲、乙、丙」や契約書の書類中の「甲、乙」としても使われていますね。

   今年の干支は甲辰(きのえたつ)です。「甲」は、学業成績では一番上のランクであり、等級では最上位を表しています。山梨県の古い国名「甲斐国」の「甲」です。「甲斐」の国名は、古くは「歌斐」、「柯彼」とも書かれていましたが、好字二字令により「甲斐」に統一されました。ちなみに「斐」の字は、麗しい、美しい、綾があって美しいという意味です。

   「辰」は十二支の5番目で、「木の陽」に分類されます。草木の成長が一段落し、整った状態や、春の日差しが平等に降り注ぐ中春のイメージを表しています。「辰」の原字は、「蜃」で、二枚貝が開き弾力性のある肉を動かしているさまを描いたもので、「振」、「震」の意味を持っているそうです。年が明けた1月1日から能登半島地震で「震」の影響が出てしまったのは、循環する歴史の必然なのでしょうか。

   「甲辰」と組み合わされた今年は、陽の気が動いて万物が振動し、急速な成長と変化の歳になりそうです。能登半島地震にみられるような振動やマイナス面での変革・変動は、遠慮したいものです。

  本栖湖からの竜ヶ岳と富士山                    巌竜山慈観寺経蔵の竜の彫刻(切房木)


1月2日(火)

新年あけましておめでとうございます。

元日から能登半島では大地震が発生し、山梨でも揺れが確認されてビックリしました。

被害に遭われました方々に、心よりお見舞い申し上げます。

さて現在12月から空調設備の改修工事中ですが、今日から8日まで期間限定で砂金採り体験のみ開館しております。ひさびさに来館されましたお客様の姿がみえて、職員一同張り切っております。本年もどうぞ宜しくお願いいたします。


12月4日(月)

   2日に南アルプス市で「御勅使扇状地の古代牧を考える」をテーマに山梨郷土研究会の研究例会がありました。南アルプス山麓の八田の牧を中心に4本の発表とシンポジウムがありました。甲斐国は古代より「甲斐の黒駒」に代表される馬生産の伝統があり、三つの勅旨牧のほか私牧も多く存在していました。

   身延町関連では、「飯野牧」、「南部牧」が「日蓮上人身延山御書」の文献上にも登場する私牧で、甲斐源氏のうち富士川流域の河内地方を拠点とした南部氏が富士川右岸に設けていた牧と推定されています。甲斐国内の牧の経営は甲斐源氏とのつながりが強く、武士道を弓馬の道と言うように流鏑馬に代表される弓馬の鍛錬に精通すると同時に、良馬の生産に関与していたことがうかがわれます。

 『身延町誌』では「飯富」を「おぶ」とも呼ぶことから「飯野」を「おおの」と訓じ、現身延町「大野」の地域に比定しています。また、南部氏が源頼朝に従って奥州藤原氏を攻め、その論功行賞により奥州糠部郡の各所を賜って移住し、甲斐で育んだ牧場経営にあたって、奥州南部氏として勢力を拡大して扶植するもとになっています。


11月30日(木)

   日本には美しい四季があります。一年の中を二十四節気七十二候に区分し、自然界の草花や生き物の様子など陽気の微妙な変化が細かく表現されています。二十四節気の「小雪」も過ぎ、北国や周辺の山々からも雪の便りも届くようになりました。今朝の通勤時には富士山、甲斐駒ケ岳、八ヶ岳、白根三山、鳳凰山などの雪を頂いた姿を車窓から見ながら金山博物館にきました。今は七十二候の第五十九候「朔風払葉」(きたかぜこのはをはらう)で、冷たい北風が木の葉を舞い落す頃に当たります。

   駐車場やリバーサイドパークの紅葉がかなり進んできました。紅葉も黄葉もまだまだ残っている木もあるのですが、山に接しているため山の木々から北風に飛ばされてきた枯葉が建物の入口や段差のある所に吹き溜まりとなっています。季節の移ろいは確実に進んでいます。

   本日が臨時休館前の開館最終日となりました。ご来館いただいた皆様ありがとうございました。2か月間の空調設備改修工事のため、休館とさせていただきます。


11月28日(火)

   長野県の守屋山に登ってきました。守屋山は諏訪市と伊那市の境界にある標高1,651mの山で、東峰と西峰があります。山頂からは北アルプス、御岳、乗鞍岳、中央アルプス、南アルプス、八ヶ岳、蓼科山、浅間山、美ヶ原など360℃の眺望があり、諏訪湖全体を一望できました。

   守屋山は、諏訪大社上社本宮のご神体とよく言われますが、そうではないようです。境内から守屋山を仰ぎ見ることができないだけでなく、古文献にもそのような記述は見いだせないようです。    東峰には(物部)守屋神社の奥宮の石祠があり、神の依代である磐座(いわくら)と思われる岩の脇に鎮座していて、地元の方々の崇敬を集めていることがわかります。守屋山の周辺の村々では、日照りが続くと守屋山に登って雨乞いをしたそうです。石祠の前には模造弓2個とステンレス製の鎌1個がお供えされていました。前回の訪問時にはなく、どうも最近置かれたもののようです。これらは雨乞い神事のための奉賽物なのでしょうか。鎌は風切り鎌または諏訪神社特有のなぎ鎌祭祀に関係するものなのでしょうか。


11月25日(土)

   23日は「甲斐の信仰の山々―南巨摩地域を中心としてー」と題して第2回目となる館長講座を実施しました。ご来館していただいたみなさん、ありがとうございました。

   甲斐国は周囲を高い山々に囲まれており、北には八ヶ岳、関東山地が北から東、西側に赤石山脈(南アルプス)、南に富士山、中央には山梨を東西に分ける御坂山地が囲繞しています。県土の八割を山岳地が占め、平地の極めて少ない山岳が連なる地勢であります。

   古代において甲斐国の枕詞は、「なまよみ」で「なまよみの甲斐」として訓じられてきました。「なまよみ」とは一体何なのでしょうか。「なま」は「生半可」のなまで中途半端・不完全なこと、「よみ」は「黄泉」であの世のことと解釈した場合、「なま黄泉の甲斐」すなわちあの世とこの世の境界の地を指すとの説があります。(諸説あり)古代の中心であった奈良や京都方面から甲斐国をみると、夏でも雪を頂き噴煙を上げていた霊峰富士のさらに向こう側にある地域であり、現生(うつしよ)と常世(とこよ)(死後の世界)との境目の地域として認識されていたのかもしれません。「甲斐」は「交ひ」で交わる・交差する意味です。

   この「なまよみの甲斐」原典は、万葉集第三巻の高橋虫麻呂が富士山を詠った長歌ただ一つです。「奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁駿河能國与 己知其智乃 國之三中従 出立有 不藎能高峰者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 霊母 座神香聞 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曽 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鎮十方 座祇可間 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞」と出てきます。

   読みは「なまよみの 甲斐の国 うちよする駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛ぶも上がらず 燃ゆる火を 雪をもち消ち 降る雪を 火をもち消ちつつ 言ひも得ず 名づけも知らず くすしくも います神かも せの海と 名付けてあるも その山の つつめる海ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎじぞ 日の本の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」となります。

   意味は「甲斐の国、駿河の国とあちこちの国の中心に立っている富士山は、雲も行く手をはばまれ、鳥も上がってゆくことができず、燃える火を雪で消し、降る雪を火で消してしまいます。言葉では言い尽くせないほど神秘的な神の山です。せの海と名付けてある湖も、富士山が包んでいます。富士川もその源は富士の山です。日本を鎮めていらっしゃる神の山、宝の山なのです。駿河の国の富士の高嶺は、どんなに見ていても飽きることはありません。   現在では「なまよみの甲斐」は「なま黄泉の甲斐」ではなく、「行(並)吉みの甲斐」と解釈されて、美しい山並みの意味で使用されたとする説が有力視されています。


11月20日(月)

   実りの秋もそろそろ終盤です。湯之奥金山駐車場に隣接する山裾の木々やリバーサイドパークには、赤、紫、青、茶などのいろんな色の実がなっています。今日確認できたものに、ナンテン、コムラサキ、アオツヅラフジ、ノブドウ、ヘクソカズラ、ヤマボウシ、フユザンショウなどがあります。地中に根を張って自ら動くことのできない植物たちは、その果実を鳥や動物に食べてもらって消化しきれない種子がフンと一緒に排出されて移動します。植栽されたコムラサキとヤマボウシ以外は、このシステムによって当地にもたらされたものなのでしょう。

   植物の種子の移動は散布種子と言って、5類型に分類されます。前述の①動物散布型種子は糞とともに排出されるもののほか、ひっつきむし(ばか)の様に動物の毛や皮膚に付着して運ばれるもの、クルミやドングリなど食料として運ばれ貯蔵されたものの食べ残しが発芽するものなどがあります。風によって運ばれる②風散布型は冠毛や羽などの付属体を持つもので、タンポポやカエデなどがこれに当たります。③水流型は雨や川・海流などによって運ばれるもので、ヤシやヒシなど水辺の植物に多いタイプです。④自力散布は、植物自らの力を使ったもので、乾燥による収縮率の違いなどの力によって果実などが裂けて瞬間的に弾けることで種を飛ばします。フジやホウセンカがこれです。⑤重力散布は種子や果実にこれといった特徴はなく、親の周囲に重力によって自ら落下させる方法です。トチ、オニグルミ、クヌギ、カシなどですが、落下した種子は①動物貯蔵型や③水流型など二次的に動物や水によって運ばれることもあります。


11月19日(日)

   今朝も寒かったですね。身延町の最低気温は0℃。日中でもほとんど日陰の博物館一帯は、構内のベンチにあった朝の霜が真っ白にそのまま10時過ぎまで残っていました。

   この寒さで紅葉も一段と進んできたようです。博物館の駐車場の周りやリバーサイドパークにある葉の残っているモミジも、やっと色づき始めました。紅葉が進んでいる部分は赤色、朱色、橙色、黄色、緑と葉の色も同じ木なのに枝や場所によって様々です。色の濃淡とその複雑に入り交じった姿が、興味をそそります。特に黄色の葉なのに、葉脈の部分だけが赤く色付いている葉や中間色の色合いが変化している葉はふしぎです。モミジの歌の歌詞の2番に、「渓(たに)の流れに散り浮くモミジ 波にゆられて離れて寄って 赤や黄色の色さまざまに 水の上にも織る錦」とあるように、同じ木の葉なのにその環境によって色がさまざまに変化しています。

   紅葉や落葉は葉っぱの老化現象によるものだそうです。日照時間が短くなったり気温が低くなったりすると光合成の効率が低下して、葉を維持するプラス部分がなくなってしまうため葉を落とす準備を始めます。光合成に必要な成分の葉緑体(クロロフィル)は緑色なのですが、この栄養分を来年の春に再利用するため枝や幹に回収します。この過程において、赤色の成分のアントシアニンや黄色の成分のカロテノイドなどが合成されるため、色素量のバランスが変化して葉の色が変わり紅葉や黄葉になるということです。


11月15日(木)

   博物館の入口に並べてある菊の花がほぼ満開になりました。黄色の花がたくさん並んでいるのはそれなりに壮観で、金山博物館にふさわしい風情です。今日は菊をほめてくれる入館されたお客様もあって、提供した当事者としてはうれしい限りです。

   菊の株が思いのほか大きくなったので株がくっついてしまって、植えてくれた友人も驚いていました。鉢上げすると一つひとつの菊株の樹形が不安定になって、風で枝が折れたり地面にくっついたりしたので、紐でフェンスに括り付けてみました。来年チャレンジする時には、株の樹形がうまく球形に整うように間隔に注意して植えてみたいものです。このうまくいかなかった経験を、次年度の成功につなげたいと思いました。


11月12日(日)

   下部リバーサイドパークのヘリポートの北側にある桜の木1本に、花が咲いているのに気がつきました。駐車場やグラウンド・ゴルフ場の周囲にはたくさんのサクラの木がありますが、ほとんどがその葉を落として冬支度を終わらせています。わずかに紅葉した葉を残す木もある中で、唯一八重になった白や薄ピンク花がちらほら咲いています。わずかに緑の葉をつけている枝もあります。この桜は「ジュウガツザクラ」といって、春と秋から冬にかけての2時季に花を咲かせる種類のサクラでした。八重なので一重の「シキザクラ」とは別物になります。

    

 秋の桜なので「秋桜」と表記すると「コスモス」のことになるので、「十月桜(ジュウガツザクラ)」の命名となったのでしょうか。サクラの花が咲いていたので正直驚きました。今月に入って2度の夏日があったこともあって、ここのところの高温による異常気象が原因の「狂い咲き」や「返り咲き」と思ったのですが、そういう種類の木なのだと知って納得しました。

 

 同じように秋に咲く八重桜に「子福桜(コブクザクラ)」があります。ふつうは1つの花から1つの実ができるのですが、この桜は2つ以上の実をつけるらしいのです。それで「子宝の桜」ということで「子福桜(コブクザクラ)」と名前が付けられたそうです。これは「ヤツブサウメ」と同様に一つの花に複数のめしべがあって、たくさん実をつける種類のようです。

 


11月10日(金)

  「エノコログサ」は、漢字で書くと「狗尾草」なんです。狗は犬のことで、その形が犬のしっぽの毛のふさふさしているところに似ていることからの命名だそうです。「イヌコログサ」とはならずに「エノコログサ」になったのは、誰かの発音がなまっていたものを正式名称に採用されたからだと考えられています。でも、一般の私たちには「ネコジャラシ」としての通称名の方になじみがありますね。その穂が風に揺れるのを見て、猫がじゃれ遊ぶ様子から名前が付けられました。この形に似せた猫用の遊具は、ペットショップやホームセンターで今でも売られています。

   現在は穂も茶色になってしまいましたが、夏まではきれいな緑色をしていました。野山にあるのはいいのですが、繁殖力が強くて畑や庭では手のかかる雑草です。犬のしっぽに似ているから「エノコログサ」、猫がじゃれるから「ネコジャラシ」、英語では「Green foxtail grass」(狐のしっぽ草)と同じ草なのに、犬だったり猫だったり狐だったり。いろいろな動物に関連付けられているのは面白いですね。


11月6日(月)

   篠井山(四ノ位山)は、その山名が凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)に由来し、山上の篠井神社の祭神とする説は昨日のブログのとおりです。彼は平安前期の歌人であり難読人名にもよく登場し、紀貫之とともに古今和歌集の選者としても著名な人物です。「心あてに 折らばや折らむ初霜の おきまどはせる 白菊の花」(小倉百人一首)は代表歌で、甲斐の国の地方官(国司)として直接赴任してきたことが知られており、富士川に関する歌もいくつか詠んでいるのが伝わっています。

   躬恒には地元で古くから伝わる、篠井山に関わる伝説がありました。『富沢町誌』(下巻)によると、ある時この地に居住していた凡河内躬恒は篠井山に登り、山頂に「山霊」鎮護のための宝物を埋めたというものです。明治24(1891)年5月、この話を信じた何者かによって篠井山頂が無断で掘り返され、宝物がどこかへ持ち去られるという盗掘事件がありました。盗掘した跡には三種類の陶器片と唐銅の蓋の擬宝珠が拾得され、これらの遺物が保存してあった木箱の蓋にこの経緯が記されていました。

   昭和59(1984)年、篠井山の山頂に宝物を埋めてあったという壺が南部町徳間で発見されました。「藤原顕長・惟宗遠清」など14行64文字が書かれた渥美焼の壺で、経塚の外容器であったことがその後判明しました。この経塚は経典を後世に残すためのタイムカプセルとして平安時代末の12世紀に造営されたものですが、凡河内躬恒ではなく「藤原顕長」が願主(スポンサー)だということが書かれた文字からわかりました。

     北峰一段下の満願寺跡の先には、江戸時代元禄年間に一字一石経の経塚が造営され、経碑が建てられています。篠井山が時代を超えて、信仰対象の霊山として地域の人々に崇められていたことを物語っています。


11月5日(日)

   先日の休みを利用して、南部町の篠井山に行ってきました。篠井山は、標高1,394mの富士川右岸にそびえる険しい高山で、古くから山岳信仰の対象です。双耳峰の様に2か所に高い地点があり、北方に篠井明神社、南峰に最高所の三角点があります。南峰は山梨百名山の標柱や方位展望板があり、東に富士山、南東には駿河湾から伊豆半島まで望めました。北峰の山頂には篠井明神が祀られ、楮根・御堂地区の本殿とその覆屋があり、尾根を北に少し下ると満願寺跡の説明板の立つ平場があります。

    登山道は最初、福士川の上流部に沿って付けられており、不撓不屈の滝、明源の滝、絹糸の滝などの清流を見ながら川の右岸左岸を縫って登ります。川にはイワナと思しき魚が見られ、水量の多い淵には塩焼きにしたらおいしそうなサイズもいました。その後、ヒノキやスギの植林地帯をジグザグに登り頂上に到着しました。

   篠井山は四ノ位山とも別称され、甲斐の役人として赴任してきた凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)がこの山に登ったことから彼の位階を山名にしたとの説があります。周辺集落を流れる幾多の河川の源流となっていて田畑を潤しているため、山すその集落の農耕神としても崇敬されてきました。篠井明神社は大山祇尊(おおやまづみのみこと)のほか凡河内躬恒を祭神とする説もあるそうです。


10月30日(月)

   28・29日に「考古学と中世史シンポジウム」が帝京大学文化財研究所で開催され、当館学芸員と行ってきました。

   第一部「金銀山の世界」では「金銀山の鉱山技術」―中世後期の技術変革―と題して、当館開館時から長年ご指導いただいている井澤英二先生が発表されました。湯之奥金山を包括する甲斐地域が中熱水金鉱脈のエリアのひとつで、純度の高いやや粗粒の金が採取できたことが、初期の山金採掘を可能にさせた要因であると説明されました。ちなみに、佐渡や伊豆の金山は浅熱水金鉱脈で、主として金銀の合金として存在し金粒は細かく比重で分け採るには工夫が必要であり、金銀を分離しなければ金にならなかったと解説されました。

      このシンポジウムは、世話人代表の一人故萩原三雄氏が中心となって立ち上げられたものです。萩原先生は当博物館の運営委員長として、中山金山の発掘調査から当博物館の設立に関して、学問的専門分野から主導的立場で関与されてきました。シンポジウムの各発表の中でも、萩原先生の広い視野で将来を見据えた学際的な取り組みが再認識され、余人をもって代えがたい先生の存在の大きさが再評価されました.

 


10月26日(木)

   急に秋が深まってきました。朝夕の気温が10度を下回るようになり、肌寒さを感じるこの頃です。しかし、昼の気温は平年よりやや高めで推移しています。

   我が家の周辺の家の庭には、キンモクセイ木犀)を植えている家が何軒もあります。また、数軒先の家にはギンモクセイ(木犀)が咲いています。今年の秋はキンモクセイの開花が遅かったので香りが漂ってきたのは今月の中旬過ぎになってからでしたが、ここのところの朝の冷え込みで花も終盤となり、もう香りもあまり感じられなくなってきました。開花から散るまでの期間が意外と短いことは、実家に百年以上の大木があったことから知っていましたが、今さらながら再認識した次第です。近所の木の下には、花の散ったオレンジ色の花びらが溜まっていました。キンモクセイの花言葉は。「謙虚」「気高い人」「誘惑」「陶酔」などです。キンモクセイの香りは高貴な印象を与えるのに花自体が小さいこと、独特な強くて甘い芳香を漂わせることから来ているのでしょう。

                         

   駐車場の山際にオニグルミの実が落ちています。緑色の落ちたてものから、熟して黒くなったもの、外側の仮果がとれて核果と呼ばれる硬い殻部分のみのものもあります。種子のかたい殻の中には仁という食用の部分があり、それを動物(野ネズミ)が食べた跡の穴があけられたものもあります。クルミの名前は、呉(中国)から来た実とか、その丸い形からくるくる回る実とかの説があります。クルミは湿地に多く分布する落葉高木で、古くは縄文時代の遺跡からも炭化した殻が出土しており食用に供されていたことがわかっています。甲斐国は古代からクルミの特産地であり、奈良時代の平城宮跡から出土した木簡(木札)にも税としてクルミを甲斐国から進上していたことを裏付ける文字が書かれていました。クルミには、体内で作ることのできない多価不飽和脂肪酸という体に良い脂質やタンパク質、ビタミン、ミネラルなど多くの栄養素を含んでいます。甲斐八珍果のひとつである旬のクルミを味わってみてください。


10月23日(月)

   今日は旧暦の9月9日、「重陽の節句」です。中国では奇数のことを陽数と言って、縁起が良いとされてきました。特に最も大きな陽数である「9」が重なる9月9日を「重陽の節句」と定めて、菊酒を飲んだり栗ご飯を食べたりしてお祝いしました。

      節句とは、季節ごとに行われる無病息災や子孫繁栄を願う伝統行事です。日本では現在五節句が主に知られており、1月7日「人日の節句(七草の節句)」、3月3日「上巳の節句(桃の節句)」、5月5日「端午の節句(菖蒲の節句)」、7月7日「七夕の節句(青笹の節句)」、9月9日「重陽の節句(菊の節句)」の五つになります。元はもっとたくさんの節句がありましたが、江戸時代に公的な行事を行う式日としてこの五つを定めたことにより、五節句と呼ばれるようになったということです。その時期の旬の食材や、邪気を払うとされる行事食を食べたり、それぞれの節句ならではの飾りを楽しんだりして過ごすことが定着しました。(5/5ブログ参照)

   前述のように今日は別名「菊の節句」です。菊には邪気払いや不老長寿の効果があるとされています。キクの花言葉は「高貴」「高尚」「高潔」です。気品あふれる菊の花は、皇室や皇族関係の紋章にも定められていることはご承知のとおりです。博物館前に飾った菊の鉢は、小さな花がたくさん咲き始めていて賑やかにお客様をお迎えしています。また、リバーサイドパークの植栽と川との間や植栽中には、ノコンギク(野紺菊)が可憐な花をつけています。

 ちなみに、食卓にサラダなどでおなじみのレタスはキク科の野菜なんですョ。


10月22日(日)

   10月19日のNHKニュースで「高濃度の金「藻」のシートで回収成功 東京青ヶ島沖の深海」と放送がありました。海洋研究開発機構などの研究グループが、深海の熱水噴出孔に藻を原料とした特殊なシートを約2年間設置し、熱水に含まれている金をこれに吸着させて、高濃度の金を回収することに成功したものです。金は1トンに対し20グラム相当の割合で藻に吸着していて、さらに銀は1トン当たり7000グラム相当の割合があったそうです。

   採算の面から直ちに商業化につながるわけではないのですが、この技術は温泉や下水にも応用可能ということで、新たな金の採取方法となる可能性に夢が膨らみます。(5/29ブログ参照)


10月21日(土)

   今年の紅葉は少し変です。博物館駐車場の中ほどにあるモミジは、紅葉しないで葉が枯れ落ちて半分以上すでに枝のみになっています。しかし、山裾側にあるモミジは、まだ緑の葉のままです。夏の猛暑が続いたのと、ここのところの急な朝の冷え込みのせいでしょうか。

   空は澄んだ青空で空気はカラッとしているため、秋らしくとても気持ちの良い天気です。博物館のある場所は東から南に山が迫っており朝の数時間しか陽が当たらないため、外は快適な気候なのですが建物内は底冷えがしています。

   下部川にかかる「ふれあい橋」は県下一長い斜張橋で、歩くとメロディが流れます。秋の季節の曲は「もみじ」と「里の秋」です。スポーツの秋でもあり良い天気に恵まれているので、下部リバーサイドパークではゼッケンをつけた年配の方々によるグランドゴルフの試合が行われていました。


10月19日(木)

   15日の中山金山見学会の時、登山道沿いにモミの実が何かの動物に食べられた跡がありました。まだ緑色をした球果がバラバラになって、地面に散乱しています。調べてみるとこれはリスの仕業のようです。リスはモミの種子を好んで食べるとのことで、モミの球果の鱗片が食べ散らかされています。モミの果実は10センチにもなる円柱状の形をしており、日本の針葉樹の中でもひと際大きく、地面に落ちたその実はまるで地表を這うナマコのようです。この果実は、真ん中の軸の周りに鱗片がらせん状に並んでいます。若いうちは薄緑色で、表面に多数のトゲのようなものがつんつんと突き出ています。秋になると褐色に変わり、枝上で鱗片がばらばらに分解して落下し、この時に大きな翼のついた種子がばらまかれます。鱗片はそれぞれ角ばった扇形をしていることがわかります。元の球果ではなかなか観察することができませんが、リスのおかげで分解されてその構造が確認できました。


10月17日(火)

   山の仲間から畑をお借りして、家庭菜園として野菜を作っています。別な山仲間が五月の中旬に、この畑の土手に菊を植えてくれました。植えた時はたった一本だった菊の苗は、枝が分結して大きくなり、それぞれがつながってまるで大きな芋虫のようになりました。かなり間隔をあけてあったのですが、1株が1メートルもの玉状になっていました。これらを自由に利用してよいとの承諾をいただいたので、鉢に植え替えて博物館の入口に並べて1週間ほどがたちました。鉢上げしても枯れるかもしれないとのことでしたが、温かい日差しの中でつぼみも大きくなりました。金山博物館にふさわしい黄金色の花が咲きそうです


10月15日(日)

   今日は朝から雨が降っていますが、中山金山の現地見学会当日です。参加者も天候のためキャンセルもありましたが、少人数であり午後から回復するという天気予報を信じて時間を遅らせて実施しました。参加者は大人のみであったので、短時間で変更した計画通り挙行することができました。

     霧がかかっていて幻想的な雰囲気の中、樹木からの雨だれを受けながら登りました。登山道の脇の下草には、蜘蛛の巣がたくさん存在しています。昨夜からの雨と霧によって、クモの巣に不規則な水滴がついて、まるで自然の中の芸術作品です。この水滴はよく見るとキレイな球状をしています。クモの糸は、その強さと柔軟性がこれまで注目されてきましたが、その集水性も評価されるようになり、水不足解消の救世主として新技術開発が期待されています。


10月13日(金)

   今年は天然キノコがほとんど採れない異常事態だそうです。暑さがつい最近まで続いていて、雨がほとんど降らなかった異常気象が原因で起きているようです。丹波のマツタケも初入荷が約2週間遅れで、その後の入荷もわずかとのこと。登山などアウトドアを趣味としている私としては、キノコの不作情報によってこの時期恒例の山行を躊躇せざるを得ません。山に行っても地面が乾燥していて、毒キノコや不食のキノコの姿もほとんど見かけませんでした。

   今年山で食用キノコを見たのは、湯之奥の中山金山下見と現地案内においてマスタケとタマゴタケと、微笑館に行く町道わきにタマゴタケくらいです。金峰山に登った9月初旬には、ホンシメジとショウゲンジを見つけて心が躍り、多少の遅れはあっても今年も期待できるのかなと思ったのですが、今年はホントに残念です。


10月9日(月)

   今日は「スポーツの日」、国民の祝日で三連休の最終日です。昭和39年(1964)10月10日に東京オリンピックの開会式が行われたのをきっかけに、昭和41年にこの日が「体育の日」に制定され「スポーツに親しみ健康な心身を培う」という目的で国民の祝日となりました。平成12年(2000)年からは「ハッピーマンデー制度」によって10月の第2月曜日となり、令和2(2020)年から「スポーツの日」に名称が変更になりました。

   今日は朝から雨が降り続いています。「体育の日」は晴れになる確率が高く、晴れの特異日だと言われることもありましたが、統計上ではそうでもないようです。かつては、この日に小中学校の運動会を設定していたことが多かったようですが、現在の山梨県では9月後半の週末開催が主流のようです。スポーツの秋ともいわれるように、秋のすがすがしい時期は運動をするのに最適の時期ですネ。

「秋空高く澄み渡り 峰のこずえも色染めて 映えある心試さんと 二百に余るわが健児」これは私が小学校の時に、運動会で5年生の時まで歌った歌の一番の歌詞です。二番は「東と西にたち別れ 親しき友よ今日ここに 歓声高く勇ましく 正義(または精気or生気)の勝ちを争わん」。現在少子化で廃校となった山梨市の旧牧丘第三小学校は、私が6年生になると全校児童が200名を割ってしまい、前年まで歌っていたこの運動会の歌は歌いませんでした。かつて500名以上の児童数だった時には、「五百に余るわが健児」と歌っていたと聞いています。当時から人口減少が顕著でした。

   さて、少子化の進行は、日本の未来を左右する大問題です。旧下部町域にあった小中学校も、統廃合によって全て無くなってしまいました。少子高齢化問題は喫緊の大テーマですネ。


10月6日(金)

   3日のブログで「ジャネーの法則」を取り上げました。子供の時は時間が過ぎるのが遅いと感じていたのに、歳をある程度重ねた今現在は、一日一日がものすごく早く終わってしまうと感じています。

   NHKの『チコちゃんに叱られる』の中で「大人になるとあっという間に1年が過ぎるのはなぜ?」との質問があったことを思い出しました。チコちゃんの言葉を借りれば「人生にトキメキがなくなったから」(諸説あり。)だそうです。人生のトキメキそれは、期待や喜びで胸が躍ることです。そういえば、初恋のトキメキもあったよなぁ。好きなことへの好奇心は旺盛だったよなぁ。若いころは多感でいろんなことに感動したよなぁ。それに対してこの頃はなぜか感動することトキメキが少なくなったよなぁ。・・・

   時間の長さへの感覚は、人それぞれ違うのでしょうが、好きなこと楽しいことをしている時の時間は早く過ぎるのに、辛いこと苦しいと思っていることをしている時の時間は長く感じるのはなぜでしょう。

   脳細胞の経年変化、老化現象の産物なのでしょうか。人生の体内時計はかくのごとく加速するものなのでしょうか?不思議ですネ。


 

10月5日(木)

   金山博物館は、東に山を背負い、西に下部川から続いているリバーサイドパークがあるため、自然環境に恵まれています。そのため、いろいろな虫たちも博物館内に迷い込んできたりします。迷いこんだ敷地内で最期を迎えてしまった虫たちも季節によってさまざまです。ここ数日中に確認された生物は、タマムシ、ミンミンゼミ、ウマオイ、カマキリと虫ではないですがサワガニがあります。

   玉虫は金属のような光沢をもつきれいな緑色をしており、光の加減によって赤、青、黄色がみえます。その美しさは、飛鳥時代奈良法隆寺の「玉虫厨子」の外側にその羽が貼り付けられていたことからもうかがえます。玉虫厨子には現在ではそのほとんどが失われてしまっていますが、1万枚近くのタマムシの羽が使われていたといいます。


10月3日(火)

   10月になりました。令和5年度も後半に突入です。あっという間に時間が過ぎてゆきます。若いころには時のたつのが遅く感じられて、学校から解放されて早く大人になりたいとあれほど思っていたのに、今では1年なんて瞬く間に終わってしまいます。気を引き締めていかないと、何もしないまま時だけがいたずらに過ぎ去ってゆきます。

   この年齢とともに時が経過する速度が速くなる現象を、「ジャネーの法則」というそうです。生涯のある時期における時間の心理的長さは、年齢に反比例するというものです。時の長さは1秒、1日、1年とすべての人が同じであるはずなのに、主観的に記憶される時の長さは幼少期には長く年配者には短く感じられます。

     今月の木喰仏は、馬頭観音菩薩像です。馬頭観音は六観音の一つに数えられ、六道の中で畜生道に迷う人々を救済してくれます。また馬をはじめとする家畜の安全と健康を祈ったり、旅の道中を守る観音様としても信仰されました。昔は武家や農民にとって、馬は生活の一部となっており、馬を供養する仏としても信仰されました。木喰上人特有の放射状頭光をもち、総髪と一体化したような衣文が特徴的です。頭の上に馬の頭がありますが、これは衆生の煩悩を食い尽くすことを表現しています。


9月28日(木)

   暑い暑いとは言いながらもう9月も末です。植物も子孫を残すため懸命の努力をしています。自分ではじけて種をまき散らしたり、風の力で遠くに飛んでいったり、鳥に食べられフンと一緒に種を落としてもらうものなどさまざまです。

   「ひっつきムシ」、「くっつきムシ」と俗称される植物の一群があります。子孫を広範囲に広げるために、表面にトゲや粘着力で種を人間の衣服や動物の毛につきやすくして運んでもらうタイプの植物です。博物館周辺ではセンダングサ類、イノコヅチ、ミズヒキ、チカラシバがみられます。枯れ始めるこれからの季節は草むらを歩くときには注意が特に必要です。

   私の生まれた地域(山梨市西保)では、子供のころは特にセンダングサ類を「コジキ」と呼んでいました。「ばか」や「どろぼう」と呼ぶ地域もあるようです。洋服やズボンにこれらがたかって(くっついて)いると、「コジキ」がたかっているとからかわれたりしました。男子はこの「コジキ」の投げっこをして校庭中を駆け回って遊んでいました。朝晩が冷え込むころ、「コジキ」の集合種は一つひとつの種がばらけて分離し、服から取り去るのに苦労をした経験があります。この「コジキ」というのは、大人になって一般的な呼称ではないとわかりました。衣服に引っ付くもの≒ヒトにたかるもの(ひと)➡乞食という発想から生まれた限られた地域的な俗称であると思われます。


9月25日(月)

   朝、湯之奥金山博物館の駐車場に、セミが裏返しになって落ちているのに気が付きました。ミンミンゼミです。まだ生きています。夜露に当たって羽根が濡れて飛べなくなったのか、寿命が力尽きようとしていたのかわかりませんが、拾い上げてみると、手足を動かし羽根を勢いよくばたつかせています。駐車場内に生きた状態のミンミンゼミが今朝は計3匹いましたが、隅の枯葉の中にはミンミンゼミの死骸が10匹以上いることに気づきました。この中にアブラゼミやニイニイゼミはいません。いつのまにかこれらの種類はいなくなってしまっています。

   博物館で昨日と今日の両日で声を聞くことができた聞こえたセミは、ミンミンゼミ、ツクツクホーシのみでした。セミの声より草むらの中からは、コオロギやウマオイなど数種の虫の音が目立ってきました。ここ2、3日朝は涼しくなりましたね。気が付くとやっと秋の気配が感じられるようになりました。


9月24日(日)

   身延町内には15か所の郵便局があります。このうち3か所は簡易郵便局です。これらの郵便局のうち6郵便局に風景印があります。風景印は郵便局の消印の一種で、局名と押印年月日欄と共に、局周辺の名所旧跡等に由来する図柄が描かれています。その地域のことを知るには、うってつけの素材です。大学時代の友人に郵趣界では著名なコレクター兼研究者がおり、5月に博物館を訪問してくれた際にも風景印を複数ゲットしていました。これはいつかこのブログでも使えるかなと思い、今回集めてみましたので紹介します。

   下部郵便局の風景印は、温泉街の街並みと背後の山々、それに温泉マークに武田菱が配されています。鎌倉時代以前にさかのぼる歴史ある温泉は、武田信玄公の隠し湯としても知られています。身延山局と身延局は宗紋の枠内に身延山久遠寺の建物が配された同じ図柄で、古関局と久那土局も同じで木喰仏と本栖湖からの富士山、切石局は句碑の里がデザインされています。


9月19日(火)

   一昨日、三連休の中日とあって朝からたくさんの親子連れの方々が、砂金掘り体験をしてくれました。ゴールデンウィークの一番忙しい時と同じくらいの混みようです。500人弱の人が砂金掘りを体験しました。

   このなかに小中高の同級生だった女の人が訪ねて来てくれました。改姓をしているので名前を言われても最初は誰だかわかりませんでしたが、なんと私の初恋のマドンナだった人でした。県外から思いがけない再会にびっくりするとともに、約50年ぶりの再会に青春時代の思い出話に花が咲きました。

   この館に来てからわずかの間に、何人かの幼馴染や同級生と再会でき旧交を温めることができたのは非常にありがたいことです。


9月17日(日)

   昨日から「発掘された日本列島」2023の巡回展が、山梨県立考古博物館ではじまりました。中山金山と黒川金山の甲斐金山遺跡も、県内の国指定史跡のひとつとしてパネルで紹介しています。

   今回の展示品中、埼玉県加須市騎西城跡の発掘資料の中に「上」の字が刻まれた蛭藻金(ひるもきん)、切金、露金と金箔を施した馬鎧や兜の前立てがありました。騎西城は北条氏の最前線の城で、武田信玄が北条氏康と同盟し上杉方となった松山城を攻略した時、救援に間に合わなかった謙信がこの騎西城を攻略し焼き払っています。

「上」の字の刻印のある金は、笛吹市の甲州金大判や諏訪大社秋宮の蛭藻金や碁石金にもみられます。金箔を施した馬鎧は武田氏館跡からも出土しており、皮に黒漆を塗り表に金箔を貼って四角い小札とし、それらを布に縫い付けたものです。

   また、金関係では、岡山県佐良山古墳群の鍍金された単鳳環頭大刀の柄頭、奈良県郡山城跡の金箔軒丸瓦、軒平瓦があります。

   東日本では唯一、山梨県としては2回目、27年ぶりの展示会です。全国的に話題と注目を集めた10遺跡を取り上げた速報展示ですので、全国の新発見の発掘調査成果を間近に観察してみてはいかがでしょうか。


9月15日(金)

   昨日、甲府市立東小学校の児童45人が見学と砂金掘り体験にきてくれました。東小学校は甲府盆地の中央部に位置していますが、盆地底部の中では微高地状になっていて縄文時代から平安時代にかけての朝気遺跡(あさけいせき)があります。かつて下水管の埋設や校舎の改築に伴って、初代谷口館長や私も発掘調査を実施したことを思い出します。弥生時代の合わせ口壺棺墓や古墳時代の水路跡、平安時代の馬の埋葬跡、各時期の竪穴住居跡が、度重なる洪水砂の堆積とともに何層にもわたって検出されています。特に低湿地帯であったため木製品などの依存状況が良く、下駄、櫛、機織り機の一部、籠、ヒョウタンなどが発見されました。

   学校のある現在の地名は、朝気(あさけ)一丁目になります。酒折の宮にヤマトタケルノミコトが立ち寄ってしばらく滞在した時、南の方の村に朝餉(あさげ)の朝食準備の煙が見えたことが、朝気の地名の由来だと伝えられています。やや高台となっている酒折の宮からは、直線距離で2キロ弱です。


9月14日(木)

   市川三郷町には山梨県天然記念物に指定されている「一瀬クワ」があります。明治時代に一瀬益吉が購入した桑苗の中から発見した原木で、葉が大きく収量が際立って多いものです。この原木から採取した苗は、自己桑園のほか村内や近隣の村にも配布し、西八代郡農会や蚕糸品評会山梨県支部にも出品されました。桑の収穫量の多さと、葉質ともに肉厚で抜群であることが認められ、優等賞が授与されて注目を集めました。後にこの苗木が全国に普及することになります。

   この桑苗には性質の異なる二つの種類があり、落葉後の枝が青灰色のものと赤みを帯びているものとで、一瀬の青木(白木)、赤木と呼ばれています。これらの原木は、農林水産省では全国の共通名を「一ノ瀬」とすることに統一しましたが、山梨県では一瀬氏の功績をたたえ「一瀬クワ」と表記し、両原木を山梨県天然記念物に指定し保護しています。

「甲斐絹」、「甲州財閥」、「製糸業」など、山梨県における養蚕と製糸業の興隆の歴史を生み出した原動力の遺産のひとつです。


9月10日(日)

   砂金採り体験室の北東の山裾部分にガラス窓越しに、黄色い花がチラホラと見えています。何だと思って近づいてみると、ヤマブキの花でした。4月の本来の開花時期の花とは違って、弱弱しく勢いがありませんが、8月末ごろから一部再開花しているようです。咲いているヤマブキは先端部分の花のみのものが多く、初秋のヤマブキもまた風情があっていいものですね。

   開花が終わった後の時季外れの季節に咲いた花を「狂い咲き」とか「返り咲き」といいます。「返り咲き」は、相撲などで一度失った地位(番付)に戻るときに、復活の意味で使うことが多いですね。博物館周辺にはたくさんヤマブキが自生しています。ヤマブキの群落の中には何本かに1本の割合で、二度目の狂い咲きの花をつけています。なお、春の花についた実は黒くなっているのもあります。

   山吹の花言葉は、「金運」「気品」「崇高」です。「金運」の花言葉は、深い谷底に落ちた小判が、ヤマブキの花になったという言い伝えから生まれたそうです。山吹の花は明るい黄色で、黄金をイメージすることから納得できますね。(4/11、6/8記事参照)


9月7日(木)

   明日9月8日は「桑の日」だそうです。9(く)と8(わ)のごろ合わせから、この日が制定されたものです。クワの語源は、蚕の「食う葉」が短縮したもの、「蚕葉(こは)」がなまったものなどの諸説があります。

   湯之奥金山博物館入口の下部川の橋を渡った山際やリバーサイドパーク内にも、クワの木が何本か残っています。かつて盛んだった養蚕業がしのばれます。下部町誌によれば、江戸時代中期ごろから栽培が開始され、コメなどの主要な作物とは別に大きなウェイトを占める作物に成長していったようです。桑園の面積は昭和40年代半ばから急速に減少し、今ではほとんど見られません。

   クワは強い植物で、年二回の収穫が可能です。枝を切っても幹を伐採しても、再び枝を伸ばして葉を茂らせます。妻の実家の身延町常葉の畑にも、過去の遺産と思われる桑が生えています。葉の抉れている部分が深いものです。通勤途中の市川三郷町の道路の植栽帯や歩道にも、桑の木が大きく枝を伸ばしています。植栽は8月7日の神明の花火大会の前に剪定されて形を整えられているのですが、クワの木の成長が早いため植栽の中から枝が繁茂しています。生命力の強さに驚かされます。また、同町内に桑園があり養蚕用ではなく桑の葉茶用の栽培だそうです。

   下部川沿いにあるクワの葉は丸くなっています。クワの葉は、同じ枝に丸い葉と抉れのあるものが一緒にあって、老木になった木が必ずしも丸くなるのではないようです。(7/2、8/27記事参照)

 


9月3日(日)

   9月1日の防災の日と防災週間(8/30~9/5)に合わせて、午前中に博物館駐車場で消防訓練がありました。身延町消防団の方々によるポンプでの放水訓練です。火災や緊急災害時に、私たちの命と財産を守ってくれる頼もしい消防団のかたがたに敬礼です。

   博物館のエントランスは開放的な空間です。そのため意外な侵入者(訪問者)に驚かされます。27日に中山金山から帰った時、私の席の後ろの壁際にサワガニがいました。どの入口からにしてもかなりの距離になります。壁伝いに迷って入り込んでしまったのでしょうか。

   また、先日は売店エリアにトカゲがいるではないですか。職員とともに捕まえて外に追い出そうとしましたが、商品棚の下に逃げ込んでしまいました。人がいなくなった後、無事脱出できたのでしょうか。


8月31日(木)

   南巨摩地域に「ナラ枯れ」の被害が深刻です。「ナラ枯れ」は、ナラ、シイ、カシなどのドングリの木が病原菌のまん延によって枯れる被害です。病原菌はカビの仲間で、カシノナガキクイムシが媒介し、被害木の根元に木屑が落ちているのが特徴です。五月の醍醐山一斉登山の時にはかなり顕著に見られ、先日の中山金山に行く途中の登山道沿いにも夏なのに枯葉になっている木が何本もありました。今年若葉が出た後に、急激に枯れたことがうかがえます。マツクイムシ同様に山々の木にとっては深刻な被害になっています。


8月28日(月)

   8月26・27日の2日間、日本地球科学教育普及協会主催、甲斐黄金村・湯之奥金山博物館共催で甲斐黄金村湯之奥金山地学実習が行われました。最近世界的に中等教育での地学履修者の減少が叫ばれ、草の根的に地球科学の普及を図るために始まったイベントだそうです。若い世代に地学の興味と、産業とのつながりの歴史を学ぶ機会を提供し、地球科学の普及を図ることをめざしているとのことです。

   初日は午後から博物館脇にある下部川の河川敷実習で岩石や砂を観察し、昨日は中山金山遺跡の現地見学でした。山梨県身延地域は南部フォッサマグナの断層が通る重要な地域なので、湯之奥金山の形成過程から日本列島の成り立ちを考える雄大な視点での考察ができるそうです。

   最近山梨県内でも熊の目撃情報や居住地への出没など何かと話題になっているので、出発時に爆竹を鳴らし途中では笛を随時鳴らして、熊に対し人間の存在をアピールし危険を回避しながら登りました。今回は健脚の若い中高生が対象であり、時間配分的にはスムーズに現地に到着できました。金山の史跡エリア内ではドローンを使って現地を見学しているようすを撮影し、新しい視点での記録映像が撮れたようです。また、第2地蔵峠では真正面に富士山の姿が雲間から顔を出し、小俣さんの地球規模の話に聞き入っていました。中山金山跡では小松学芸員が金山遺跡全体の概要を説明し、それぞれの地点ではそのエリアの使われ方や石臼、石造物、石垣、炭窯などの個別に解説しました。

   湯之奥金山から日本列島の成り立ちを見るという広い視野を再認識するとともに、若者の知識欲、頭の柔軟性などに触れることができました。


8月27日(日)

   人間は歳を取ると丸くなるとよくいわれます。樹木も年を重ねると葉が丸くなるものがあります。ヒイラギの木はその葉に棘(トゲ)があり、節分にはこの枝にイワシの頭を刺して家の入口に飾り、災厄が家に入ってこないようにする風習があります。触れると痛いヒイラギの棘と焼いたイワシの独特の臭気によって、邪鬼を払うとのことです。このヒイラギの葉は、老木になると棘が無くなり全縁の葉になっていきます。この左端の写真の木は、同じ1本の木なのに両方の葉の特徴がみられます。

   また、クリスマスツリーに使われるモミの木も、先端にある棘状の部分が若木と老木では異なります。若木の葉は手で触れるとチクチクして痛みを感じますが、樹高がある程度伸びているものでは葉先が丸くなっていて痛くありません。常緑樹のこれらの木は、葉を食料とする草食動物から身の守るための護身術・防衛手段として、葉先の棘を獲得したものと考えられます。


8月24日(木)

   湯之奥金山博物館入口では、木喰上人作の仏像のレプリカ像が皆様をお迎えしてくれています。木喰上人は、江戸時代中期に甲斐国丸畑村(現身延町古関丸畑)に生まれ、出家して木食戒を受け、全国各地を修行しながら千体を超える仏像を制作しています。その仏さまの表情は独特の微笑をたたえていることから、微笑仏として庶民に親しまれてきました。

   今月の木喰さんは、如意輪観音菩薩像です。「如意」とは意のままに智慧や財宝、福徳をもたらす如意宝珠という宝の珠のことで、「輪」は法輪を指し釈迦の説いた教えを車輪にたとえたものです。 本来その2つを手に持った観音菩薩ということで如意輪観音といいます。


8月20日(日)

   通勤途中の久那土地区や常葉地区に、昭和時代のレトロ感を漂わせているホーロー看板やブリキ看板があります。ホーロー看板は、金属に光沢のある塗装で仕上げられた屋外用看板です。身延町内の旧商店街もかなりの割合で店をたたみ、色あせた看板のみがかつての賑わいの痕跡をわずかにとどめています。マツダランプの看板は久那土の電柱と、ハイキングコースの毛無山登山道の中山金山の七人塚跡にあります。毛無山のタイプのものは各地に同様のものが設置されており、現在でも道標や目印として活躍しており、高い耐久性が証明されています。マツダランプはわが国初の電球を製作した会社で、現在は「東芝ランプ」として東芝ライテック(株)に引き継がれています。ちなみにこの「マツダ」という名前は、松田さんという創業者や発明者の名前ではなくてゾロアスター教の主神で善と光明の神、アウラ・マツダに由来するんだとか。

   大村崑のオロナミンCやスプライトの看板は、退色や錆が進んでいて原型さえ推測が難しくなっています。タバコや塩の看板はさすがに専売公社から支給されたものと推測されるので、今でもしっかりした作りとなっています。


8月14日(月)

   11日に実施した「おやこ金山探検隊」で、登山道途中の山の神の休憩地点に小さいマムシがいました。長さ30センチほどで、頭は三角形に近く、体には特徴的な銭形文様があります。大勢の人に発見されて素早く逃げて動き回っていたため、なかなかいいアングルの写真が撮れませんでした。

   約30年前の中山金山の発掘調査をしていた時、夏場に精錬場での泊まり込みでのテント生活だったのですが、地元の方々が食糧などを荷揚げしてくれていました。この時にお手伝いいただいた方の話では、登山道中にマムシがよく出没するのでこれを捕獲して売るといいこづかい稼ぎになったとの話を思い出しました。生きたマムシは滋養強壮の薬として焼酎付けにされて需要があり、かなり高額で取引されていたと聞いています。

        二ホンマムシは猛毒を持ち、かまれると命を落とすこともある恐ろしい毒蛇です。蛇は古来から山の神の使いで、縄文時代にはその強さと生命力、脱皮と冬眠からの再生能力などから不思議な力を持つ畏敬の対象として考えられていました。そのため縄文時代中期の縄文土器には蛇体モチーフが多用されています。特に山梨県と長野県諏訪地方を中心とする地域に独特の文化圏を形成し、ヘビ、カエル、イノシシなどの生き物がいろいろな土器の文様に融合して見え隠れしています。

   身延町お宮横遺跡出土の土器の文様にも蛇体を表しているモチーフがみられ、口縁部にはヘビの胴体から尾を示す渦巻き文、胴部に蛇体をくねらしている姿が確認できます。


8月13日(日)

   11日の山の日の休日、博物館では第23回激烈☆親子金山探検隊を開催しました。晴れの天気に恵まれ、親子12名、協力スタッフ5名、事務局5名の総勢22名の部隊です。出発式の後、ジオラマ展示室で金山の現地でのかつてのようすの事前学習をして、町のバスで登山口まで移動。準備体操、日程説明、注意事項の確認の後、登山開始。猛暑が続いている下界とは異なり、登山道の空気は清涼で気持ちがいいくらいでした。しかし斜度がきつくなる金山跡前後になると、汗もだらだら吹き出してきました。やっぱり夏です。精錬場入口、大名屋敷を通って、新地蔵峠で昼食休憩。残念ながら富士山は雲がかかっており眺望はお預けで、わずかにすそ野部分のみ確認できたにすぎませんでした。この後、登山道から道なき斜面を30分歩ほど登り、標高1600メートル付近の坑道域に到着しました。坑道群はかなりの部分に土砂等が流入していましたが、保存状況の良いいくつかの坑道には参加した親子も直接入ってみて、坑道のようすを観察することができました。坑道からは涼しい風を感じることができました。その後来た道を少し引き返し、精錬場跡で炭焼き窯跡、鉱石をすりつぶす石臼やテラスを安定させる石垣を確認し、学芸員から説明を聞いて当時のようすに思いをはせながら下山しました。

   この親子金山探検隊に合わせて、七人塚、精錬場跡、Bテラスの三か所の倒れてしまっている説明板を協力スタッフの応援をお借りして立て直しました。

   博物館に戻ってからは少しの休憩の後、純銀の地金を使った「甲州金」を、自分の気に入ったデザインで作ってみました。朝早くから丸一日がかりで、中山金山の金鉱石を採掘した坑道の中に入って探検し、作業場のようすを景観や地形とともに確認し、記念品を自分の手で作成しました。ホントに疲れたけれども、一生の思い出に残る経験ができたと思います。

10日(月)

   博物館と下部リバーサイドパークの看板や公衆トイレの内外ともに、落書きやいたずら書きは皆無です。ひと昔前には、至る所に落書きがありましたが、下部温泉駅のトイレやホームでもまったく見ることができませんでした。温泉観光地なのできれいにしているだけではなく、訪れる方々のマナーも向上している結果だとおもいます。いくら探してもないのには、正直驚きました。

   しかし、温泉街の一部の道路壁面や熊野神社の板壁には、少し時間の経過した平成や昭和時代の落書きがありました。相合傘、ドラえもん、ピカチュウのほか、訪れた記念日や名前などを記したものです。

   相合傘は、昔から落書きの定番でした。この相合傘の落書きは、江戸時代の「北斎漫画」にも便所の壁に描かれていることから、200年以上の歴史があります。かつて平城宮から出土した土器に「我、君、念」の三字を合わせた墨書がみられ、「君我を念い、我君を念う」と推測されて、相合傘に通じるまじないと解釈されていました。しかし、これは逆に夫婦の離別に関わる呪符として用いられたものだと後にわかりました。

   今みなさん相合傘を描いてみてください。相合傘は年代によって、描き方が異なるだけでなく、意味も真逆になっているのです。これは地域性や時代によって微妙な若干のズレがあるので、おおかたの傾向としてとらえてください。私や50才代以上の人が描くのはAです。三角形の頂点から傘を突き抜けて真ん中の線が来て、その両側に自分の名前と思う人の名前を書いて相思相愛になることを祈るまじないです。これにハートがつくBや傘が突き抜けないでハートがつかないCは40才代,傘が突き抜けないでハートの付くDは20代以下です。当館の職員の年代別描き方にこのような差が出ました。Aは30代以下の人には別れ傘として、付き合っている人の離別を願う意味のまじないであるそうです。さらに、思う人の気持ちがこちらに向かうように傘を自分の名前のほうに軸を傾けたり、握り手部分の「」の部分を追加して自分側に向けたという例もあったそうです。

   このように落書き一つをとっても、時代による形の変化と意味の付加や逆転があり、歩んできた歴史があるのです。


8月7日(月)

   今日は館長による夏休み自由研究の相談室の日です。入口のホールの一角に特設の相談コーナーをスタッフが用意してくれていました。岩石鉱物標本、身延町内出土の縄文土器や石器、昆虫や花の写真パネルなど、夏休みの宿題の自由研究のヒントになる資料が飾られて雰囲気を作っています。

   遠方から来館された小学生の家族連れが縄文土器に引き寄せられて相談に来られ、縄文土器に直接触れて感激してくれたのをはじめ、信玄堤の工事や合戦の城攻めで金山衆の土木技術が使われていたことへの関心、麓金山の状況など、歴史に関する相談や質問が多かったようです。子供だけでなく同伴された大人も興味を示してくれていました。


8月6日(日)

   当博物館の周りにある各種のアジサイの花が、一段落しました。6月の梅雨の時期にきれいに咲き誇っていたホンアジサイの青やピンク、柏葉アジサイの白、ガクアジサイの薄紫の花もほぼ枯れて、褐色に変色しています。

   我家の庭にもホンアジサイと柏葉アジサイがありますが、一昨年は剪定方法を間違えて一個も花をつけませんでした。剪定のし過ぎだったようです。どちらも旧枝咲の種類なので、花が終了後、夏のうちに翌々年の花芽になる花から2~3節目で上部を数センチ残して剪定するのが良いそうです。アジサイは成長が早く剪定をしないとやたらと伸びてしまうので、2年後に花の咲く位置や樹形を考えて切りましょう。



8月3日(木)

   7月30日午前、博物館では有料入館者47万人を達成しました。東京都西東京市からお越しいただいた荒さんご一家です。博物館の駐車場では、砂金掘り大会(一般の部)の真っ最中で、にぎやかに競技が行われ右往左往している時に、このうれしいお知らせが届きました。

   これまでコロナウィルス感染症の影響で外出やイベントの自粛など何かと影響のあった時期でしたが、5月からその対応が緩和され、荒さんご一家も夏休みの家族旅行で博物館に来られ、47万人目のお客様となりました。金山博物館では記念品を贈呈し、記念撮影をしました。

   偶然ですが、昨年の砂金掘り大会中にも45万人目の有料入館者を迎え入れており、2年連続の同イベント中の慶事となりました。 1年間でぴったし2万人の有料入館者ということになりました。


7月31日(月)

   2日間の砂金掘り大会で、参加者の皆さんが取り残した砂金はどうなったのでしょうか。それは、順次博物館友の会の皆さんが、回収をしてくれていました。スルースボックスという大掛かりな道具によって、水槽の中に残った大量の土砂の中から、流水を使って砂金を選り分けてくれていました。比重選鉱なので競技用パンニング皿と同じ理論です。山側のテントの隣の場所で実演していたのを、みなさん確認されていますか。見た目以上に、重労働で大変な作業なんですよ。金は高価なので微細な1点まで、もれなく回収していただきました。

   今回の砂金掘り大会、砂金甲子園大会が無事終了することができたのは、博物館応援団AU会、友の会の皆様のご協力があってこそ実現できたものです。大会の準備から運営及び最後の片つけまで、献身的なご協力をいただき本当にありがとうございました。


7月30日(日)

   昨日、第23回砂金掘り大会を開催しました。中学生以下のジュニアの部と高校生以上の一般の部に分かれて、総勢195名の参加がありました。あらかじめバケツに入った砂の中に砂金を一定量仕込んで置き、制限時間内にいかに早く正確に砂金採取するかの競技です。今年はジュニアの部も一般の部も、砂金甲子園大会の出場校の生徒たちが上位を独占し、ベテランの砂金掘り師たちが誰もかなわなかったことが特徴としてあげられます。いかに学校で猛練習をしているかがわかります。砂金掘り師のベテラン陣も、若い人たちの熱気に圧倒されることなく奮起を期待します。総合優勝は桐朋学園の佐藤さん、準優勝は神戸女学院の堤さんです。佐藤さんは昨年に引き続き2連覇を達成しました。

   本日、第20回砂金甲子園!東西中高交流砂金掘り大会を行いました。参加校は桐朋学園中学・高等学校(東京都)、山梨学院中学・高等学校(山梨県)、灘中学・高等学校(兵庫県)、麻布学園中学・高等学校(東京都)、逗子開成中学・高等学校(神奈川県)、明治大学付属中野中学・高等学校(東京都)、市川学園中学・高等学校(千葉県)、西大和学園高等学校(奈良県)、大妻中学・高等学校(東京都)、神戸女学院中学部・高等学部(兵庫県)、開成学園中学・高等学校(東京都)の計11校です。

   学校対抗の優勝校は灘中学・高等学校、準優勝は初参加の神戸女学院中学部・高等学部、3位は逗子開成中学・高等学校でした。非常にレベルが高く1位と2位は同点で、わずかなタイム差で順位が決まりました。最優秀選手賞は山梨学院の今泉さん、新人賞は明大中野の山田さんでした。熱中症警戒アラートが発令されている暑い中、熱の入った熱い戦いが繰り広げられました。


7月24日(月)

   NHK朝ドラの「らんまん」で、主人公の万太郎が「雑草という名前の草はない。」「すべての草に名があり役割があると」と語られていました。どんな植物にもそれぞれ固有の名前があります。牧野富太郎博士の名言として知られていますが、この言葉は、山本周五郎が牧野博士に雑誌のインタビューをした時「雑草」という言葉を口にしたところ、「きみ、世の中に雑草という草はない。どんな草だってちゃんと名前がついている。私は雑木林(ぞうきばやし)という言葉が嫌いだ。松、杉、ナラ、カエデ、クヌギ、…みんなそれぞれ固有名詞がついている。それを多くの人々が“雑草”だの“雑木林”だのと無神経な呼び方をする。もし君が“雑兵”と呼ばれたら、いい気がするか。人間にはそれぞれ固有の姓名がちゃんとあるはず。人を呼ぶ場合には、正しくフルネームできちんと呼んであげるのが礼儀じゃないかね。」とたしなめたそのくだりの由来が示されています。(木村久邇典『周五郎に生き方を学ぶ』)

   ちなみに、山本周五郎は山梨県大月市出身の作家です。大河ドラマにもなった「樅ノ木は残った」や映画「赤ひげ」の作者で、売れる前に雑誌の記者をしていました。

   「雑草」とは、人間社会に農耕や景観の点で迷惑をかける草本系植物と定義されています。人間の役に立つか立たないかで判断されるので、「雑草」とされた植物もいい迷惑だと思っているでしょうね。

この博物館の周りの植栽やリバーサイドパークの中も「雑草」がはびこっていて、環境整備には手を焼いています。


7月23日(日)

   県内の小中学校では夏休みに入り、最初の日曜日になりました。本博物館の夏休み最初のイベントである化学実験教室「教えて☆みやもん先生」が第15回目を数え開催されました。開成中学・高等学校の宮本一弘先生をお迎えし、第1時限目「身のまわりの光るものを探そう!」、2時限目「おもしろ科学実験」、3時限目「不思議なカラーマジック」の実験でした。小学生を対象に身近にあるものを使って、化学の特定の条件下で変化したり、物質同士が反応するメカニズムを利用して、温度の変化による冷却パックを作る、シャボン玉を浮かせる気体の発生、色彩を変化させる酸とアルカリなど、大人でも知らなかった興味深い実験が目の前で繰り広げられました。化学反応は宮本先生のわかりやすいやさしい語り口で、身近なところにもたくさん利用されていることがわかりました。引率のお父さんやお母さんがたも目からうろこのようすで、我が子の実験を感心しながら見ていました。


7月20日(木)

   茅小屋金山の現状は、上部の宮屋敷テラスとその下のテラスが大雨の被害により流失してしまっていました。宮屋敷にあった山の神の石祠は確認できませんでした。承応5年(1654)の板碑型石塔は、入り口部分のテラスの中央にそのまま立っています。高さ180センチと大きなもので、台座とともに設立時の原位置を保っているのかもしれません。各テラスには石臼がまとめてあるのを点検し、地面が見えるところでは茶碗や猪口などの陶磁器も見られましたが1点の染付皿以外明治期以降の新しいものばかりでした。

   入ノ沢川を遡上しているとき、河原の分流のよどみの石の下に3匹のサンショウウオがいました。体長7~8センチのハコネサンショウウオです。身延町の栃代川上流部に生息するものは県の自然記念物になっています。私もひさびさにサンショウウオを確認し、同行者も初めて見るものとのことです。

   内山金山では、主要部分のテラスと測量杭の確認、石臼、墓石、整形した石、陶磁器の遺物とともに多量の熊のフンがありました。糞の周りには餌となるどんぐりが散らばっています。また、帰りの斜面には夏椿(シャラの木)の花が初夏の名残を感じさせてくれていますが、熊の存在の恐怖はもっと大きく背後にひしひしと感じられましたので、疲れた足でもおのずと早足になりました。


7月16日(日)

   14日に茅小屋金山、内山金山の現地確認調査に行ってきました。調査隊は私と2名の学芸員と現地経験のある有志1名の総勢4名です。

   博物館に6時集合、車で林道湯之奥猪之頭線を入ノ沢の入口まで行き、歩行開始、これまでの梅雨によって水量が増した川を右岸に渡渉し、荒れて寸断されている山道を登ること約40分で茅小屋金山に到着。過去の調査ではクマに遭遇したこともあるので、途中笛を鳴らしながら、休憩ごとに爆竹によって人間の存在を熊に知らしめながら進みました。前日の雨で湿度が多く樹林帯の下で薄暗く蒸し暑かった中、墓石や石臼の残存状況や炭焼き小屋跡と石積みをチェックし、2019の大雨で流失した上部の宮屋敷のテラスを確認しました。

   ここからは道らしきものは完全に消えており、川沿いに右岸、中洲、左岸と進みます。中継地点を過ぎると、ここからはさらに急な痩せ尾根をジグザグに上りました。やがて前回確認されていた尾根の露頭掘り跡にきました。岩を城郭の尾根切り状に切断して、鉱脈側は竪堀状に掘削されています。この上部にはかつての道の痕跡が残ってはいましたが、沢越え地点が危険なため安全なルート確保には経験者の記憶がたよりでした。

   さらに急斜面を登ること約80分で内山金山の中核部の広いテラスに到着しました。ここでいったん休憩とともに昼食。よく見ると熊のフンがそこかしこに何十か所とあるではありませんか。人がほとんど来ることのない広い平坦地なので、熊のねぐらには丁度うってつけの場所なのでしょう。

   ここでも墓石や石臼の集積場所の再点検と、テラスの現状を確認しました。いくつかのテラスの東側で、志野焼皿、明染付皿?、肥前系磁器の破片が表採でき、金山稼働時期を示す追加資料が得られました。帰りは同じ道をたどって17時過ぎに入ノ沢に到着。

   非常にハードな現地確認調査でした。30年以上前の記憶は不確かで曖昧なものとなっていて役に立ちませんでしたが、金山の現地のようすをしっかりと頭に刻むことができました。


7月10日(月)

   博物館の入口東側の斜面にヤマユリが大輪の花をいくつも咲かせて見事です。昔から4本が自生しているとのことです。ヤマユリの学名auratumは黄金色を意味しています。金山博物館にぴったりですね。これは白い花びらの中にある黄色い筋に由来します。昔から「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と、美人を形容する言葉として知られています。シャクヤク、ボタン、ヤマユリとこれらはすべて婦人病の薬草で、これらを用いると美人になるとかならないとか。ヤマユリの花ことばは、「荘厳」「威厳」「純潔」「飾らぬ美」「高貴な品性」などです。

   受付のところの花瓶には、オニユリが飾られています。鬼百合は赤い花びらに黒い斑点が目立ち、赤鬼を連想させることから名付けられたそうです。茎には黒色のむかごがあり、これを植えて3、4年すると花をつけるそうです。花言葉は「賢者」です。


7月9日(日)

   身延山久遠寺の広大な境内を散策した後、ロープウェイの下の駐車場に下る坂道の途中に琥珀明珠大菩薩のお堂がありました。このお堂の前を通った時、建物の前にある注連縄(しめなわ)につけられた紙垂(しで)を見た友人は、日蓮宗系独特の紙垂だと教えてくれました。普通の紙垂に耳のようなものが付いているのが特徴で、装飾的な効果があるようです。まして紅白2色の紙を組み合わせているのは注目されます。建物の扁額は「琥珀閣」とあり、入母屋造の建物の前には赤く塗られた神明鳥居があります。この鳥居に注連縄が張られ、特徴のある紙垂が下げられていました。

   一般的な神社などによく見られる紙垂は、四角く特殊な裁ち方をして折った白いひらひらした紙です。雷(稲妻)を象ったZ形をしており、神(仏)の領域と人の領域を分ける聖域を表すと同時に不浄なものが入らない結界を示しています。

   常葉諏方神社の拝殿の注連縄には一般的な紙垂があり、拝殿内本殿の前には紙垂を2つ合わせたような御幣が安置されています。常葉の道祖神にも石祠本体に一般的な紙垂がつけられており、竹で囲った注連縄の紙垂は風雨により一部が残るのみでした。


7月6日(木)

   同窓会のメンバーで博物館の砂金採り体験を堪能した後、身延山久遠寺に行きました。日曜日の夕方4時過ぎだったので、東南アジア系の観光客が数集団と日本人の参拝者がちらほらいたくらいで、本堂から仏殿までじっくり見学、西谷へ移動し苔むした静寂な御草庵跡を案内すると、皆がこの一帯にくるのは初めてとたいそう感激してくれました。

   翌日は晴天に恵まれて、ロープウェイで奥之院思親閣へ行き、南アルプス連山の眺望、富士川谷や久遠寺境内の遠望を満喫。門前町で昼食後、身延を後にしました。

   さて、私が下部温泉に宿泊するのは30数年ぶりです。同窓会のみなさんには温泉で旅の疲れをいやしてもらった後、女将のおいしい料理を堪能しての宴会。旧交を温めて近況を語り合いました。

   翌朝はいつもの習慣で明るくなる前に目覚めたため、温泉街や熊野神社を散策しました。落書きがそこかしこにいっぱいつけられています。下部温泉らしく湯湯治での病気快癒、足などのけがの回復祈願が目立ったけれども、戸板を埋め尽くすほどの落書きはいかがなものか。熊野神社は本殿、太々神楽、本殿の棟札等が町指定の文化財になっています。指定文化財の本殿の柱にまで書かれています。本殿の棟札等の中に穴山信君の境内での落書禁止の制札があると説明板にあります。「落書」とは「らくしょ・おとしがき」で「らくがき」ではありません。時の権力者への批判や社会風刺を匿名で掲示したものです。同じ漢字ながら別物であるのに不思議な一致です。発給した穴山さんも現代の落書きもしかりと、あの世で腹を立てているかもしれません。下部の落書きは願いを書いた文字のものが多く外国語のものも見られます。文字以外では来訪の年月日のほか、一般的に見られる相合傘やピカチューやドラえもんの姿もあります。


7月4日(火)

   大学時代の考古学専攻生有志の同窓会を、下部温泉にて開催しました。コロナ前には恒例によって東京で毎年実施していたものを、幹事の一存で急きょこの場所でやることに決定になったのです。一昨日4名が金山博物館に集合、お互いの無事を確認しつつ5年ぶりの再会。この年になると多少の体型の増減を除いては、もうあまり変化がなく変わっていないのは良いことなのか悪いことなのか?

   展示をゆっくり解説して見学後、砂金採り体験。博物館スタッフの説明を受け、いざ開始。全員砂金採り体験は初心者、金は比重が重いこと、独特の黄金色をしていることをたよりに、パンニング皿をやたら振り回す。力に任せて振り回すも、砂金は見つからない。見かねたスタッフがお手本を再度丁寧に指導してくれる。なぜかスタッフのお手本の砂の中には、砂金が存在しているのが不思議だ。夢中で作業をしているうちに、あっという間に制限時間が来てしまった。それでも一人3粒~5粒の成果があった。みんな大喜びで大満足、それこそ大の大人が欲をむき出しに、楽しいひと時をすごしました。1回やったらやめられない、中毒性のあることを身をもって感じました。


7月2日(日)

   博物館入口の下部川の橋のたもとに桑の木が数本残っています。山梨県は江戸時代から養蚕の盛んな地域で、明治時代になると政府によってさらに奨励されました。山梨県では富士吉田や都留などの郡内地域で絹織物が織られ、甲斐絹(カイキ)の名で外国にもたくさん輸出されました。生産量は昭和40年代後半をピークとして、桑畑はどんどん果樹園や蔬菜畑に替えられて行き、現在ほとんど見ることができません。この桑の木はその当時の名残を留めているものです。桑畑が当時かなりの面積広がっていたことは、山間部の耕作放棄地が桑の巨木なっていたり、道路の植え込みの植栽の中に桑の木が顔を出していたりするのを目にすることでその痕跡を今でも確認できます。

   桑の葉の間をよく見ると、カミキリムシがいました。キボシカミキリです。この虫は桑の葉を食べるので、養蚕農家にとっては厄介ものの害虫です。私の実家は養蚕地帯の農家だったので、小学生のころこのキボシカミキリが大発生し困っていました。山梨県内の市町村では、この成虫を駆除すると1匹10円の報奨金を出していたことがあり、かつて桑畑の中を探し回ったことが懐かしく思い出されます。


6月29日(木)
   博物館の入口にある定礎や小原島の貝化石の周辺に「蟻地獄(アリジゴク)」がたくさんあります。ウスバカゲロウの幼虫が、乾いた土にすり鉢状の穴を掘って作った罠のことをこう呼びます。通りかかった蟻などの昆虫が滑り落ちてきたら、土の斜面が次々に崩れてなかなか逃げ出すことができません。そうしているうちに土を跳ね上げて穴の底の中心部に寄せ、土の中に隠れていたウスバカゲロウの幼虫がその虫を捕食します。

   その体には大きなあごをもち、体中に毛が生えているのがわかります。このたくさんの毛がセンサーとなって蟻などの虫の落下したことを素早く感知し、大きなあごで土の中に引きずり込んで体液を吸うのです。体液を吸われて抜け殻のようになった虫は、大きなあごを使ってアリジゴクの巣穴の外に放り投げます。

   裏返しにして写真を撮ったのですが、あごを器用に使って一瞬で元の姿に戻っていました。


6月26日(月)

   博物館の建物の周りの植え込みの中や東側の山裾には、つる性の植物が勢力拡大を狙ってこの時期相当な勢いで伸張してきています。

   ヘクソカズラ(屁糞葛)はその名のとおり、葉や茎を傷つけると独特の嫌なにおいを出すつる草です。花は可憐でそれなりに美しいのですが、こんな名前を付けられたことに対して本人にとってまことに不本意ではないでしょうか。私のところの畑に隣接する土手にはこの草がはびこっており、地上部を刈り取っても地下に伸ばしている根から何度も再生してくるため、なかなかせん滅できません。博物館西側の植え込み中や東側のフェンス、下部リバーサイドパークなどいたるところで見ることができます。

   ヤブガラシ(藪枯)は、生育が早いため巻き付いた植物に覆いかぶさって伸張し、光を遮断することでその植物を枯らしてしまうためこの名がつけられています。博物館の東側のフェンスには何本も絡んでいて、5メートル以上もあるフェンスの上部にまで達しています。

   オニドコロは、一見ヤマイモのような葉をしていますが、葉の付き方が互生のため対生のヤマイモとは異なります。ヤマイモはおいしい食材ですが、オニドコロは毒性があって食べられません。葉を見るとほとんど見分けがつきませんが、似て非なるものです。ご注意あれ。

   そのほか、ヒルガオ、フジ、クズなどつる性植物のオンパレードです


6月25日(日)

   5月6日の醍醐山一斉登山のときにオトシブミを5個採集し、5月28日と29日にそれぞれ1匹ずつ羽化したことはすでに報告しました。残りの3個は、その後1か月近く経過しても全く外観からは生きている気配が感じられません。みずみずしかった葉の揺籃も机の上で枯葉のようになってしまっていたので、中のようすがどうなっているか確認してみました。巻かれている葉を慎重に崩しながら開いていくと、驚いたことに中から幼虫がそれぞれでてきました。大きさは3~5ミリほどで小さいのですが、まだ生きており動いています。

   写真を撮ってから乾燥してしまった揺籃の代わりにヤマブキの葉を入れ、暗さを確保できる引き出しの中に安置してしばらく様子を見ることにしました。揺籃の揺り籠はなくとも新鮮な葉の布団の中で、これを食することができれば大きくなって成虫になれるかもしれません。わずかでも望みを持って観察したいと思います。

   夕べ身延町一色地区のホタルを見てきました。土曜日だけに駐車場には30台くらい先客がいました。川沿いの遊歩道には、蛍の光がちらほら。視界の中には3~4匹ほどが、入れ代わり立ち代わり光を放っています。場所を移動してもどこも同じような感じで、数匹ずつが見える程度です。ピークはとっくに過ぎていて光の乱舞とまではいかないですが、見え隠れする蛍のともしびはホントに幻想的です。

  

   ホタルが光るのはオスのみで、メスとカップル誕生のために一生懸命の自己主張です。短い繁殖期に理想の相手を求めて、夜の水辺に光による最後のアピールをしています。この中でいったい何匹が恋愛成就できたのでしょうか? (一色でのホタルのフラッシュ撮影は禁止されています。右側の葉の上のゲンジボタルは1週間前に甲府市相川で撮影した資料画像です。)


6月23日(金)

   生物学において新種の発見や天文学で新星の発見をしたとき、その命名に際して自分の名前などを冠して功績を未来永劫に残すことは、その道の研究者にとっては大変名誉なことです。

   NHK朝ドラの「らんまん」の主人公のモデルとなっている牧野富太郎は1500以上の植物の新種を発見し、その命名に自分だけでなく近親者の名前も使っています。笹の新種に愛妻の名前を付してスエコザサとしています。それなのに、牧野はアジサイの学名に日本人妻の名を冠した植物学の先人シーボルトを、痛切に批判しています。シーボルトはアジサイの学名の一部に「オタクサ」と名付け、長崎で愛した「お滝さん」の名前にあやかって付けたことについて、「神聖な学名に自分の情婦の名をつけるとはけしからんことだ」と憤慨しておられたとのことです。(中村浩『植物名の由来』)

   ちなみにこのブログの命名についても、それなりのこだわりと理由があります。(4月20日ブログ参照)


6月19日(月)

   梅雨の時期の花と言えば、アジサイですよね。博物館の周囲にもたくさん植えられています。普通のアジサイのほかにガクアジサイや柏葉アジサイもあります。ここ数日梅雨の中休みですが、ほぼ梅雨の期間中を通じてかなり長期にわたってきれいな花をそれぞれ見せてくれています。

   アジサイは日本原産の植物です。一般的なアジサイはホンアジサイともいわれ、日本原種のガクアジサイを改良した園芸品種です。青やピンクのきれいな花と思われている部分は、実は花ではなくガクが大きく発達した「装飾花」と呼ばれるものです。個々の花のようなガクの中央には、一見めしべのような玉状の部分がありますが、これもガクの変異したものです。花ではない花なのです。

   前述したようにガクアジサイでは、周囲の白い花弁のような部分はガクであって見せかけの花です。ガクの中央にある青くて小さな花の部分が本当の花で、「真花」と呼ばれています。咲いている花の周りには、まだつぼみがたくさん控えています。早く開いた花の下にある葉には、小さい花びらやオシベや花粉がまとまって落ちており、こちらが本当の花であることがわかります。


6月17日(土)

   昨日令和5年度第1回目の博物館運営委員会を開催しました。これまでの6名の先生方と新しく鉱山学分野の学識経験者2名、地元身延町の知識経験者2名の先生方をお迎えしました。昨年度の事業報告、今年度の事業計画と今後の博物館運営等に係る諸課題について、審議していただき貴重なご意見を賜りました。26年周年を迎えた本年、これまでの積み重ねてこられた歴史の上に、さらに新しい何かを積み重ねていけるよう気の引き締まる思いです。

   本日は九州大学総合研究博物館と湯之奥金山博物館のコラボによる『歴史を動かした革新的マイニングヒストリー』と題した特別講演会を開催しました。中西哲也先生の「湯之奥茅小屋金山採掘跡に見られる鉱石の特徴について」、久間英樹先生の「みんなで楽しく鉱山遺跡調査~iPhone&iPad編~」のご講演をいただき、本館小松美鈴学芸員と伊藤佳世学芸員の茅小屋金山遺跡の概要と調査方法についての報告がありました。

   これまで未確認であった茅小屋金山遺跡の採鉱域について、発見の経緯と調査状況やiPhoneやiPadを使った新しい3次元レーザ測定の結果と有用性を披露していただきました。本館の全国に誇る専門的・学問的部分を九州大学総合研究博物館の両先生に発表していただき、茅小屋金山のたいへん険しい現地の状況が、来場された皆さんにわかっていただけたのではないでしょうか。

   梅雨休みで蒸し暑い中、遠方からも多くの研究者にお集まりいただきました。ありがとうございました。


6月12日(月)

   身延町一色地区はホタルの里として有名です。先日の地元紙山梨日日新聞でも一面紙上にゲンジボタルが乱舞する姿の写真が掲載されていました。梅雨の真っただ中、雨の日も多いのですが現在飛来の最盛期を迎えていることと思います。

   さて、当館南の崖の途中にホタルブクロが群生しており、薄赤紫や白い色の花もそろそろ終わりに近づいています。ホタルブクロの花は、釣り鐘状の花を下向きに咲かせており、筒状の花に子供が昔ホタルを入れて遊んだことから「ホタルブクロ」の名がつけられたといわれています。幼いころ蜜を吸いに来ていたミツバチをこの花の中に閉じ込めて、刺された痛い経験がありました。ホタルなら花弁を透して、幻想的な光がみられることでしょうね。

   英名ではSpotted bellflowerです。まだら模様になっている花の形が教会の鐘を連想させることからの命名だそうです。


6月11日(日)

   第1回シン・サンポを開催しました。館長講座のアウトドア編です。あいにくの雨の中、27名もの参加者がありました。かなりの割合で常葉地区在住の方々でした。

   途中シロツメグサの株があり、小学生と大人の何人かが4つ葉のクローバーを見つけることができました。植物学者の牧野富太郎を主人公にしたNHKの朝ドラ「らんまん」でも、シロツメグサのシーンがあり、オランダから輸入したガラス製品の破損防止のクッション材として詰められていたため詰め草がその名前の由来であったことや4つ葉がなぜ幸せを呼ぶラッキーアイテムになったのかも紹介しました。

   常幸院と東前院の両お寺では、ご住職に直接お寺の由緒や常葉地域の歴史についてもお話をしていただきました。ありがとうございました。

   史跡や文化財は身近にあっても普段はあまり気にも留めない存在かもしれません。しかし、それぞれに地域に溶け込んだ長い歴史の積み重ねがあって、今日を迎えています。ふるさと再発見のいい機会になったのではないでしょうか。


6月8日(木)

   ヤマブキに実がいっぱいなっています。これを見ると「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」の和歌と江戸城を造った太田道灌の有名な話が想起されます。

   ある日鷹狩りに出かけた道灌はにわか雨に降られ、とある家に雨よけの「蓑(みの)」を借りに立ち寄った。すると、その家の女が出てきて、山吹の花一枝を黙って差し出してきたので、怒って雨の中を帰宅した。のちにその山吹の花の行為には、その家は貧しくて「蓑」がないので貸すことができないという古歌が託されていることを家臣から教えられ、おのれの無学を恥じたという有名な話です。(出典「常山紀談」)

  「実の」と「蓑」が掛詞(かけことば)になっていますね。日本では昔から栽培されていたヤマブキの多くが、実をつけない八重咲種であったため、ヤマブキは実をつけないといわれるようになったとのことです。突然変異で八重になったヤマブキには実がないので種ができず、株分けでしか増やすことができません。そういえば、私の実家の裏庭にも八重咲のヤマブキが咲いていました。当博物館に植えられているヤマブキは、周辺の山裾にある一重のヤマブキと同じ野生種なので、今たくさんの実をつけています。


6月4日(日)

   6月11日に実施する第1回「シン・サンポ」の下見に、「常葉(ときわ)」に先日行ってきました。甲斐常葉駅に集合し、日向の道祖神➡常光院➡本栖高校➡東前院➡諏訪神社➡甲斐常葉駅とまわって来るコースの予定です。

   日向地区の道祖神場にはいくつかの石造物が集められており、記念碑のほか三種3体の道祖神があります。流造屋根の付く双体道祖神、舟型の双体道祖神、自然石の丸石道祖神です。屋根付きのものには寛延四年(1751)の年号がありますが、石がもろいためヒビが入って紀年銘が無くなってしまうのも時間の問題かもしれません。顔はもう表情がわからなくなっていますが、左の女性像は右手に扇子を持ち、左手を合掌している男性像の肩に置いています。舟形双神像は掌に掌を重ね仲睦まじい姿をしておられます。丸石のものは甲府盆地東部に多く分布しているものと同じく、縄文時代にはじまった丸石信仰がそのルーツと思われます。

   道祖神というのは、本来中国の道の神と日本古来の邪悪を遮る神とが合わさったもので、集落の入口や辻に立って災いの侵入を防ぎ、村を守る神でありました。また、旅人の安全を守り、良縁・和合の神、さらに生産神、農耕神など複雑に重層的に発展してきました。いろいろな側面を持つことから、それぞれの地域では賽の神(さいのかみ)、道陸神(どうろくじん)、衢神(ちまたのかみ)、岐の神(くなどのかみ)、サルタヒコなど様々な別名があります。

   常葉地区には文字道祖神や石祠形道祖神も各小地域にあって、種類も豊富であります。いずれにしても当地域一帯には魅力的な道祖神が多く、石造物愛好家にはたまらない地域です。


5月29日(月)

   地球上の未採掘の金の埋蔵量は、おおよそ50,000トン余りと考えられています。これまで世界各地で採掘された金は約180,000トンであり、毎年約3,000トン余りが採掘され続けています。このペースでいくと約15年後には地球上の金は採りつくされてしまう計算になるようです。しかし、金の埋蔵量はあくまで採掘可能な固体としての金であり、海水や地下のマグマ中に含まれている金はカウントされていません。

   先月日本経済新聞に海洋研究開発機構とIHIの研究グループが、秋田県玉川温泉から金の回収に成功したとの報道がありました。藻の一種である「ラン藻」が金を吸着する性質を利用し、これをシート状にして温泉水に浸すだけで金が回収できたということです。現在日本で商業的経営が行われている金鉱山は、鹿児島県の菱刈鉱山が唯一でありますが、温泉大国の日本にはまだまだ可能性が残されているといえるでしょう。

   下部温泉を有するこの身延町でも、温泉水の中に金が溶け込んでいて、それを回収することができればその可能性は無限大です。

   本日も昨日に続きオトシブミが1匹羽化しました。やはり朝の来館時には変化がなかったのですが、10時過ぎに成虫になって動いていました。揺籃に開けられた穴は3ミリと昨日より小さいです。今日の個体のほうが首が長いのでオスで、昨日の個体はそれほど長くないのでメスなのでしょうか。揺籃の中からは黒くて小さい棒状のフンが、一緒に出てきました。観察している間に、入口から外へ飛んで出て行ってしまいました。


5月28日(日)

   5月6日の醍醐山一斉登山の時に山頂付近で採取したオトシブミが、成虫になって出てきました。オトシブミの葉っぱの巻物の個体は山中でよく見かけるのですが、その正体については詳しく調べたことがありませんでした。(5月8日のブログ参照)その独特な形状とロマンチックな名前から、関心は前々から持っていたのですが、、、。

   5個を山から持ち帰り、透明なビニール袋の中に入れて、出勤時は常時観察できるようにしていました。オトシブミの巻物は、長さ1.5~2.2センチ、葉の直径は7~8ミリの円筒形です。採取当日にはみずみずしい鮮明な緑色だったのが、次第に乾燥して迷彩服にあるような枯葉色になっていました。今朝の朝一には特に変化はなかったのですが、11時ごろふと気が付くともそもそと袋の中で何かが動いているではないですか。よく見ると、袋の中には赤い羽根をした虫が1匹います。全長8ミリほどで、前翅部の堅い羽根が赤いほかは、真っ黒な色をしています。また、葉っぱの揺籃の一つには5ミリほどの穴があけられているのが観察できました。採取から22日後に成虫になったのですから、約3週間で卵から孵化して揺籃の葉を食べ大きくなって羽化したもののようです。

   写真を撮影し、大きさを計測して記録したのちには、外の自然界に戻してあげました。


5月25日(木) 

   今年度第2回目の古文書講座が実施されました。本館運営委員会委員の西脇先生の指導で、佐渡金山の金精錬工程を記した絵図を解説した古文書の、読み合わせおよび逐字の解説です。本日出席の聴講生と学芸員は、すでに数年来先生のご指導をいただいているとのことです。私はというと、大学での古文書演習以来、各地の文化財調査で地方文書は目にする機会はあったのですが、本格的に近世文書に対峙するのは何十年ぶりでしょうか。教材本は読みにくい変体仮名などの文字だけならいざ知らず、精錬における当時の専門用語の羅列までもが私の理解を苦しめます。しかし、先生の懇切ていねいな文字の崩し方や表現方法を解説していただき、なんとなくわかった気がします。

   本当のところは、、、

   当時の作業工程の内容と金精錬に関する用語を知るには、たいへん勉強になっていると思います


5月22日(月)

   先日のこどもの村小学校の中山金山への登山の同行は、私自身約5年ぶりの現地への訪問でした。湯之奥三金山の学術調査時以来、毛無山登山にこのルートを利用して数回来ただけだったので、ひさびさの中山金山の現地です。

   調査時と地形はほとんど変わっていなませんが、周囲の樹木の成長や植生の変化は、だいぶ様相を異にしているように思われました。車を置いた下部川沿いの林道から入る登山道は、植林されたヒノキが大きく育って登山道を覆っており、女郎屋敷のテラスもカラマツが成長して若木であった当時の面影はありません。テントに泊りがけで調査していた夏の当時、ふもとから食糧や燃料をほとんど毎日地元の方に運んでいただいていました。日当たりが良かった植林の間の藪を縫うようにして整備された登山道にはマムシがたくさん出没し、毎回運搬途中で数匹捕獲できたとの話の記憶がよみがえります。(当時は薬用、強精剤としてのマムシの焼酎付けに供されていた。)いまでは直径30センチほどに育ったヒノキの樹間は、保安林改良事業で間伐されて下草もほとんどなく、30余年の歳月の長さをあらためて痛感した次第です。

   学芸員から精錬場にはトリカブトが多かったというイメージがあったということでしたが、現在トリカブトはごくわずかしか見られず、その代わりにコバイケイソウが群落をなしています。林道近くの登山道沿いには、フタリシズカがかなり見られました。名前のフタリシズカ(二人静)は、2本の花序が源義経を愛した静御前の亡霊が舞う能楽「二人静」における静御前とその亡霊の舞姿にたとえたものに由来するそうです。2本の花序になるものが多いはずなのに、1~4本までのさまざまなものが存在しています。花の盛期はまだこれからのようです。

   登山道脇には、ワイヤーロープと鉄製の滑車が使われなくなったままの状態で放置されており、これらは昔の調査時にも確認しています。かつてこの山の木材搬出用に設置されたもののようで、尾根付近には直径1メートル以上の大木の切り株がいまだに腐りきらずに存在しています。滑車にはツキヂ索道と書かれたプレートもあり、昭和40年代に伐採された可能性があります。廃棄されたままの鉄製のロープや滑車はかなり重量があって腐食もさほど進んではいないので、資源として再利用してほしいところです。山中ではしばしばこういった放置物を見かけますが、どうにかならないものでしょうか。今では廃棄物処理法違反なのでしょうが、、、。


5月21日(日)

   18日に南アルプスこどもの村小学校の児童30人、引率者3名と、湯之奥中山金山遺跡の現地に行ってきました。こどもの村小学校は私立の小学校で、こどもの自由を教育理念とした非常に特色ある学校です。プロジェクトと呼ばれる縦割りクラスの授業の一環で、1~6年生までの男女が参加してくれました。

   当館は、国指定史跡甲斐金山遺跡(湯之奥中山金山遺跡)のガイダンス施設でもありますので、まずは博物館で中山金山の事前学習。そのあと、車で登山口へ移動しました。

   ここからは比高差600mの山道をひたすら登ります。約2時間かけて、中山金山の作業をした遺跡の現場に到着しました。現地でお昼のお弁当のあとに、学芸員から採掘の跡や現地に残る作業テラスの概要の説明を受けました。約500年前の戦国時代当時に思いをはせながら、熱心に聞き入っていました。

   年齢差があり体格差や体力差は当然まちまちで、体力的に厳しくて弱音を吐きそうな子もいましたが、お友だちのサポートもあって全員無事に往復することができました。

   登山の過酷さや厳しさと、歴史のロマンを感じた1日だったと思います。


5月15日(月)

   「シン・サンポ」を実施します。前出月館長の「いでさんぽ」を引き継いだかたちで、身延町内各地域の身近な歴史や文化と自然に触れる機会を踏襲します。館長講座の現地版です。それぞれの地域を直接歩くことによって地域を再発見するもので、地域を知ることが地域に親しみを持ち、地域(身延町)を好きになってもらうきっかけづくり動機づけの一つになればと思っています。

   第1回目は「甲斐常葉周辺」を散策します。「シン・サンポ」としたのは、ひらがなの「いでさんぽ」に対抗してというよりは、このブログ(4月20日記事)の時のように、地域探訪に参加された方々がさまざまなことをそれぞれが感じ取ってほしいという思いから計画しました。

   これから作成する募集案内を確認してみてください。


5月13日(土)

   5月6日の醍醐山一斉登山の時、今回の登山道沿いにある石造物や寺社について、樹木や草花の名前とともに醍醐山を愛する会の関係者からいろいろと説明をしていただきました。その中で、今から約40年前の湯之奥金山遺跡学術調査を思い出す資料の解説がありました。大子(だいご)集落の入口手前にある石祠の時です。この本体部分の正面の穴を指して「猪の目です。」と解説してくれました。この石祠は、石を二段積んだ基壇上に、四角い台座石、その上に正面に逆ハート形の穴が穿たれた軸部、流造りの形式の屋根が組み合わさった山梨県ではごく一般的な形式のものです。その穿たれている穴の形に、遠い脳の片隅の記憶がよみがえってきました。

   金山学術調査の検討会の時、中山金山の七人塚下方の谷から発見された石殿の軸部に、このハート形の穿った穴と長方形の穴が上下に並んだ資料がありました。「原位置ではハート形の穴になっているがこれは上下が逆になっており、この形は宝珠を表しているものであって本来尖がっている部分が上にくる点を注意してください。」といった内容の発言が石造物専門の先生からあったことです。

   このことを考えると大子集落手前の石祠は、猪の目を表したものではなく、宝珠を表している可能性もあるのではないかと思った次第です。


5月11日(木)

   北杜市小淵沢町の中学2年生が、社会科見学で金山博物館に来てくれました。

   日本における人と金とのかかわりやその技術を学びました。映像による日本の金の歴史と湯之奥金山の解説をみて、山金採掘に関する道具や甲州金をはじめとする金貨の展示品を見学したあとは、お楽しみの砂金採り体験です。みんな楽しくわいわいと、小さな砂金を一生懸命探していました。

 

   苦労して探し当てた砂金は、思い出に残る大切な宝物となることでしょう。


5月8日(月)

   湯之奥金山の現地調査でいつもお世話になっているIさんに誘われて、醍醐山を愛する会に入会しました。

   恒例の醍醐山一斉登山が6日の土曜日にあったので、早速参加してきました。少し前の天気予報では雨予報であったのが、すばらしい五月晴れの天気になりました。私が晴れ男のせいか、イエイエ関係者みなさまの日ごろの行いの成果であります。甲斐常葉駅前広場に60名近い人数が集合して開会式。役員さんから班分けの後に趣旨説明、コース説明、注意事項の確認のあと、準備体操をして班ごとに出発しました。

   役員さんから眼下に見える集落や遠望できる山名の解説があり、随所で樹木や山野草の説明もありました。スギ、ヒノキ、クロモジ、キンラン、ギンラン、フタリシズカなど。貴重な植物に出会えたのも役員さんの事前の下見のおかげです。

キンラン

   会の有志が北側を切り開いてくれた山頂直下からは、茅ガ岳から奥秩父山塊が見渡せます。山頂に到着し荷物を置いて、稜線を少し下った展望台に行きました。下山集落から南側の富士川流域は見えましたが、周囲の植林した木々が大きく育っていて山などの眺望は以前に比べて望めなくなったとのベテランの会員さんの声です。。

   登山道は転石などがあり注意して下を見て歩くのは当然ですが、私の普段からの習性で何か落ちてはいないか、周囲の地形は自然か人工的なものか、石や土は何なのかなど地表面を観察して歩きました。山頂手前の登山道にオトシブミが落ちていました。昆虫のオトシブミの母親がこれに卵を産み付け、巻物のようにていねいに巻いて落としたものです。卵は幾重にも重ねられた葉の中にまもられていて、葉っぱのふとんかゆりかごのようです。卵からかえった幼虫は、この巻物の葉を食べて成長し、約3週間後には成虫になったオトシブミが出てくるのでしょう。葉はまだ青々として緑が鮮明で、今朝の創作物と思われます。オトシブミ

   山頂では出発の時に配られたカップ麺をいただきながら、おにぎりをほおばりました。食事後に、峡南消防本部特別救助隊の山岳救助における講習と実演のあと、交流会で参加者の方からいろいろな話が聞けました。会の発足から登山道の整備など、会員の方の長年にわたるご苦労があってこそ安全な登山ができ、楽しい山行を堪能できることを改めて認識しました。

   下山の途中では山頂にあった村の痕跡や、ナラ枯れの被害状況、鉄塔で切り開かれた地点からの眺望の説明と、大子の集落でリンゴとオレンジの接待を受けました。

   下山後、車の運転手は甲斐常葉駅に、それ以外の人は湯之奥金山博物館へ直行しました。博物館では、金粉入りの梅茶でおもてなしです。汗をかいた疲れた体には、適度な塩分と水分の梅茶は体中にしみわたります。一息ついたところで反省会を行い、再度参加者からそれぞれの感想と意見を聞いて散会となりました。

醍醐山閉会式

   主催者の役員の皆様お疲れ様でした。そしてありがとうございました。楽しく有意義な登山ができました。

 


5月5日(金)

   今日は端午の節句、こどもの日です。親子連れでたくさんの人が来てくれました。節句とは季節の節目となる日のことです。中国から伝わった陰陽五行説がそのルーツで、古代中国では月と日が奇数で重なる日を忌み嫌って、邪気を払う行事が行われたということです。端午の節句は五月の最初の午の日のということで、午と五の音が同じことから五月五日と定められました。昔はこの日を悪日として、災難をよける魔除けのために、菖蒲やヨモギを屋根に刺したと『下部町誌』では記載しています。

   少し前まで男の子のいる家では、鯉のぼりや武者のぼりの旗が家の入口にはためいていました。個人のお宅に建てられることは少なくなってしまいましたが、今では使わなくなってしまった鯉のぼりをたくさん集めた地域おこしの名物として、北杜市南清里のほか全国各地で新たな活躍の役目を担って、風香る五月の空に何百匹も遊泳している姿を見せてくれています。

   端午の節句は菖蒲の節句ともいわれ、菖蒲から尚武に転じて男の子の誕生を祝うとともに、その健やかな成長を祈念しました。武者人形や鎧兜を飾るのも、これに由来したとされています。


5月4日(木)

   大型連休後半2日目突入。朝から入館待ちの大行列ができています。きゃぁーっと、うれしい悲鳴。砂金採り体験は大多数のみなさんが希望されているため、開館直後を除けば30分待ちの大渋滞が発生で、これが夕方まで続きました。体験の順番待ちのお客さんが、入り口のホールで大混雑になっています。

   親子連れ、ご家族連れ、友人グループなどいろんなパターンがあるけど、やっぱり家族連れが多いかな。天気もよく風は少し強いけど、行楽日和な一日でした。

   当館のスタッフは、一日中てんてこ舞いです。昼食も取れない状況でした。ご苦労様です。戦力にならない館長なので、せめて応援のエールをおくります。ほんとうにお疲れ様でした。ファイト。明日もまだ5連休の中日です。もう少しの辛抱です。頑張りましょう。


5月1日(月)

   夕べのNHK大河ドラマ「どうする家康」番組の最後の「紀行潤礼」で、甲斐黄金村・湯之奥金山博物館が登場しました。武田信玄にまつわる関係地として、甲府市の「武田神社(躑躅ヶ崎館跡)」とともに身延町の当博物館が紹介されたものです。甲州金(甲州露壱両判)や鉱山作業を再現した展示と砂金採り体験室のようすが放映されました。

   見逃した方は、当館のホームページから「もん父Twitter」でご覧ください。

   これを見た学生時代の同級生から、久しぶりに連絡がありました。

   私がここに来たことから、金山ツアーとして下部温泉で同窓会をやってくれることになっています。みんな砂金採り体験を楽しみにしてくれています。


4月30日(日)

   今朝は館に緊急事態発生です。全館の停電です。電気が来ないと暗いばかりか、水も出ないしトイレも使えません。それに今日午後からは第1回目の館長講座の予定。「どうする家康」じゃなかった。さあどうするどうする。

   職員のみんなで対応検討。発電機の手配や、最悪復旧しなかった場合も想定して、講演会開催の別施設の確保など、職員のみんなてんてこ舞い。目が血走って対応してくれています。

   ゴールデンウィーク中なので、開館時間前から入館者が並んでいます。臨時休館にするかとも検討しましたが、砂金採り体験だけでもしたいとのことで、電気のないうす暗がり中での一部開館です。関東電気保安協会の職員の方の点検調査によって、雨と湿気による漏電が原因と分かり、焼損した部品を交換して2時間ぐらいで何とか復旧しました。ほっと一安心。

   館長就任記念講演会に、たくさんの方々が来てくれました。ラジオでの宣伝効果もあって、幼馴染や元職場の大先輩や親戚までも駆けつけ盛会でした。講演内容はともかく、みなさんの反応は良好でした。

   今回の講演会の開催に当たり、いつもご協力いただいている博物館応援団のみなさんに下準備や会場整理のお手伝いしてもらいました。ありがたいことです。感謝、感謝です。


4月29日(土)

   新館長就任記念のお花が届きました。SPCさんありがとうございます。お花はロビーに飾らせていただきました。いくつになっても花をいただくのはうれしいものですね。お花をいただくのは久々で、何年ぶりのことでしょう。前の職場の退職の時以来かな。どの花も一つひとつがそれぞれ美しく、心がなごみます。

   昨日、身延町の日帰り温泉施設「しもべの湯」が下部温泉駅に隣接してオープンしました。地元放送局の夜のテレビ番組で紹介していました。建物の1階には大浴場や露天風呂など男女それぞれ6種類の温泉やサウナにレストランと休憩室、2階はスポーツジムが完備されています。町民の健康づくりとともに観光の拠点として、下部温泉郷活性化の起爆剤となればいいですね。

   これにあやかって、金山博物館の入館者も大幅に増えることを期待しちゃいます。


4月24日(月)

   今日は金山博物館の26回目の誕生日です。

   皆様のお引き立てとご協力があってこそ、本日を迎えることができました。どうもありがとうございます。

   館の職員が入り口に「26」を意識した特別な飾りをつけてくれました。

   初代谷口館長が立ち上げて基礎を固め、二代出月館長が充実させてきた当館の存在意義を、さらに発展させるべく皆様に親しまれるよう努力したいと思っております。

   さて、あれほど当館周辺の山裾や花壇に群生して目立っていたゴールデンカラーのヤマブキの花も、いつしか花びらが落ちてほとんどが額と葉の緑だけになってしまっています。

   時の過ぎゆくことが、なんと早いことか。このところ、年齢とともに特に加速度がついてきていると感じるのは、私だけでしょうか。

   26年間はとても長いと感じますか。それともあっという間なのでしょうか。みなさんはどう感じられますか?


4月23日(日)

   四つ葉のクローバーを見つけると幸せになれるといいます。

   わたしは小さいころから、地面に落ちているものを拾い集めるクセがあります。土器片であったり水晶であったり。土器片は実家の畑とその周囲、水晶は近くの石切り場とそこから運ばれた土砂が敷かれた道路など。このことについては、他の人よりもたくさん珍しい物を集められる自信があります。これまでの代表的成果品としては、甲斐駒山頂の縄文土器片やブドウ畑でのヒスイの勾玉などがあります。この地表面観察の特殊な目利きは、山での山菜採りにも活かされています。(タラの芽、コシアブラなど今まさに春の山菜のピークですね。)

   同様に、シロツメグサを見かけると、その葉の一枚一枚を凝視して四葉のクローバーを探してしまいます。下部リバーサイドパークには、シロツメグサの小さい株が一斉に生えはじめました。まだほとんどが手のひらサイズの株です。でも眼が地表を追ってしまう小さいころからの性で、歩くたびにいくつもの株をなんとなく見やっていました。

   なんとそのうちの一株に四葉のクローバーがあるではないですか。小さな株の中に2個も。その確率はなんと1万分の1~10万分の1。さらに同じ株には、五つ葉クローバーもありました。こちらの発見率は100万分の1だとか。なんとラッキーなことでしょう。

   めったに見つけることのできないことから、幸運の象徴としてみなさんも知ってのとおりです。また、四つ葉にはその葉一枚一枚に「愛、健康、幸福、富」とそれぞれ意味があって、四葉のクローバーがそれらを運んで来てくれるとも言われています。

   これらのラッキーアイテムは、取ることなく現地にそのままにそっとしておいてあります。金山博物館の隣の下部リバーサイドパークのどこかには、これらの株があります。みなさん金山博物館の砂金採りとともに、四葉のクローバーも探しに来てみてはいかがですか。


4月20日(木)

   さて、このブログのタイトルは「シン・ドウノヘヤ」です。シン・ドウは名字(姓)の信藤(しんどう)からきています。でも「シン」のあとの「・」中点は何なのかといいますと、「シン・ゴジラ」にはじまり先月公開された「シン・仮面ライダー」などのシリーズに由来します。(最近発売された缶チューハイの名前にも「シン・レモンサワー」があったりして、、、)

   「シン・」シリーズの映画を制作された庵野監督は、〝「新、真、神」など見る人によってさまざまなことを感じてもらいたいということで正解はありません〟とおっしゃっています。それにあやかって、つれづれなるままに日々のことを綴ったこのコーナーのタイトルに引用させていただきました。


4月17日(月)

   博物館で管理する隣接している下部リバーサイドパークには、複数の鹿のフンがありました。どうも昨夜の落とし物のようです。黒豆のように表面は黒光りさえしています。

   そういえば吉永小百合さんの「奈良の春日野」の歌詞に「青芝に腰をおろせば 鹿のフンフンフンフーン 黒豆や」とあって、50年くらい前のテレビのお笑い番組でよく明石家さんまさんが歌っていたとおりの姿でした。

   そのフン溜まりには50個以上がまとまってありました。一昨日の雨よりも前のものもあり、こちらは黒豆が煮崩れていて形をほとんどとどめていません。自然が身近に感じられます。


4月12日(水)

   今日は武田信玄公の命日。元亀4年(1573)4月12日、信玄公は西上途中に信州駒場で亡くなりました。今からちょうど450年前のことです。今日は武田神社で例大祭と武田24将騎馬行列が行われ、甲州市の恵林寺では法要と信玄公まつりが4年ぶりに実施されました。

   信玄公は亡くなる直前に、自身の死を3年間秘密にすることなどを遺言しました。そのため死因や亡くなった場所に諸説があり、影武者説や徳川家康に与えた影響などその生前の実態は謎に満ちあふれています。

   近年の研究の進展や発掘調査、新資料の発見などによって、新たな信玄像が描かれつつあります。甲府駅前の信玄公の銅像は別人を見本としていること、信玄公が生きていた時代の武田氏の家紋は武田菱ではなかったこと、信玄公は甲斐国内に城を築いていたことなど,私たちが持っている信玄公の常識は実際違ってきているのです。

   これらの概要の一端を4月30日の講演会で紹介したいと思っています。

   どうぞ、ご期待ください。

 


4月11日(火)

   4月から出月館長に代わり、金山博物館三代目の館長に着任しました信藤祐仁です。

   出月前館長と引継ぎをしていたころ館の周囲の桜の花もまだまだきれいだなと思っていたら、いつの間にか葉桜になってしまっています。葉の緑色も濃くなってきて、今年は例年になく春の訪れが早かったですね。桜の開花も観測史上もっとも早いタイ記録だとか。

   博物館の周りに目をやると、山吹がたくさん自生しています。山吹の花の黄色が緑の葉に映えて目立ってきれいです。山吹色は黄金色、大判小判の異称としても知られています。博物館にふさわしい花が、今周囲を取り囲んでいます。

   その名のとおり黄金色に輝くように、皆様のご支援とご協力をいただきながら館長の重責を全うしてまいりたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。


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