印刷シン・ドウノヘヤ

 


 


6月8日(木)

ヤマブキに実がいっぱいなっています。これを見ると「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」の和歌と江戸城を造った太田道灌の有名な話が想起されます。

ある日鷹狩りに出かけた道灌はにわか雨に降られ、とある家に雨よけの「蓑(みの)」を借りに立ち寄った。すると、その家の女が出てきて、山吹の花一枝を黙って差し出してきたので、怒って雨の中を帰宅した。のちにその山吹の花の行為には、その家は貧しくて「蓑」がないので貸すことができないという古歌が託されていることを家臣から教えられ、おのれの無学を恥じたという有名な話です。(出典「常山紀談」)

「実の」と「蓑」が掛詞(かけことば)になっていますね。日本では昔から栽培されていたヤマブキの多くが、実をつけない八重咲種であったため、ヤマブキは実をつけないといわれるようになったとのことです。突然変異で八重になったヤマブキには実がないので種ができず、株分けでしか増やすことができません。そういえば、私の実家の裏庭にも八重咲のヤマブキが咲いていました。当博物館に植えられているヤマブキは、周辺の山裾にある一重のヤマブキと同じ野生種なので、今たくさんの実をつけています。


6月4日(日)

6月11日に実施する第1回「シン・サンポ」の下見に、「常葉(ときわ)」に先日行ってきました。甲斐常葉駅に集合し、日向の道祖神➡常光院➡本栖高校➡東前院➡諏訪神社➡甲斐常葉駅とまわって来るコースの予定です。

日向地区の道祖神場にはいくつかの石造物が集められており、記念碑のほか三種3体の道祖神があります。流造屋根の付く双体道祖神、舟型の双体道祖神、自然石の丸石道祖神です。屋根付きのものには寛延四年(1751)の年号がありますが、石がもろいためヒビが入って紀年銘が無くなってしまうのも時間の問題かもしれません。顔はもう表情がわからなくなっていますが、左の女性像は右手に扇子を持ち、左手を合掌している男性像の肩に置いています。舟形双神像は掌に掌を重ね仲睦まじい姿をしておられます。丸石のものは甲府盆地東部に多く分布しているものと同じく、縄文時代にはじまった丸石信仰がそのルーツと思われます。

道祖神というのは、本来中国の道の神と日本古来の邪悪を遮る神とが合わさったもので、集落の入口や辻に立って災いの侵入を防ぎ、村を守る神でありました。また、旅人の安全を守り、良縁・和合の神、さらに生産神、農耕神など複雑に重層的に発展してきました。いろいろな側面を持つことから、それぞれの地域では賽の神(さいのかみ)、道陸神(どうろくじん)、衢神(ちまたのかみ)、岐の神(くなどのかみ)、サルタヒコなど様々な別名があります。

常葉地区には文字道祖神や石祠形道祖神も各小地域にあって、種類も豊富であります。いずれにしても当地域一帯には魅力的な道祖神が多く、石造物愛好家にはたまらない地域です。


5月29日(月)

地球上の未採掘の金の埋蔵量は、おおよそ50,000トン余りと考えられています。これまで世界各地で採掘された金は約180,000トンであり、毎年約3,000トン余りが採掘され続けています。このペースでいくと約15年後には地球上の金は採りつくされてしまう計算になるようです。しかし、金の埋蔵量はあくまで採掘可能な固体としての金であり、海水や地下のマグマ中に含まれている金はカウントされていません。

先月日本経済新聞に海洋研究開発機構とIHIの研究グループが、秋田県玉川温泉から金の回収に成功したとの報道がありました。藻の一種である「ラン藻」が金を吸着する性質を利用し、これをシート状にして温泉水に浸すだけで金が回収できたということです。現在日本で商業的経営が行われている金鉱山は、鹿児島県の菱刈鉱山が唯一でありますが、温泉大国の日本にはまだまだ可能性が残されているといえるでしょう。

下部温泉を有するこの身延町でも、温泉水の中に金が溶け込んでいて、それを回収することができればその可能性は無限大です。

本日も昨日に続きオトシブミが1匹羽化しました。やはり朝の来館時には変化がなかったのですが、10時過ぎに成虫になって動いていました。揺籃に開けられた穴は3ミリと昨日より小さいです。今日の個体のほうが首が長いのでオスで、昨日の個体はそれほど長くないのでメスなのでしょうか。揺籃の中からは黒くて小さい棒状のフンが、一緒に出てきました。観察している間に、入口から外へ飛んで出て行ってしまいました。


5月28日(日)

5月6日の醍醐山一斉登山の時に山頂付近で採取したオトシブミが、成虫になって出てきました。オトシブミの葉っぱの巻物の個体は山中でよく見かけるのですが、その正体については詳しく調べたことがありませんでした。(5月8日のブログ参照)その独特な形状とロマンチックな名前から、関心は前々から持っていたのですが、、、。

5個を山から持ち帰り、透明なビニール袋の中に入れて、出勤時は常時観察できるようにしていました。オトシブミの巻物は、長さ1.5~2.2センチ、葉の直径は7~8ミリの円筒形です。採取当日にはみずみずしい鮮明な緑色だったのが、次第に乾燥して迷彩服にあるような枯葉色になっていました。今朝の朝一には特に変化はなかったのですが、11時ごろふと気が付くともそもそと袋の中で何かが動いているではないですか。よく見ると、袋の中には赤い羽根をした虫が1匹います。全長8ミリほどで、前翅部の堅い羽根が赤いほかは、真っ黒な色をしています。また、葉っぱの揺籃の一つには5ミリほどの穴があけられているのが観察できました。採取から22日後に成虫になったのですから、約3週間で卵から孵化して揺籃の葉を食べ大きくなって羽化したもののようです。

写真を撮影し、大きさを計測して記録したのちには、外の自然界に戻してあげました。


5月25日(木) 

今年度第2回目の古文書講座が実施されました。本館運営委員会委員の西脇先生の指導で、佐渡金山の金精錬工程を記した絵図を解説した古文書の、読み合わせおよび逐字の解説です。本日出席の聴講生と学芸員は、すでに数年来先生のご指導をいただいているとのことです。私はというと、大学での古文書演習以来、各地の文化財調査で地方文書は目にする機会はあったのですが、本格的に近世文書に対峙するのは何十年ぶりでしょうか。教材本は読みにくい変体仮名などの文字だけならいざ知らず、精錬における当時の専門用語の羅列までもが私の理解を苦しめます。しかし、先生の懇切ていねいな文字の崩し方や表現方法を解説していただき、なんとなくわかった気がします。

本当のところは、、、

当時の作業工程の内容と金精錬に関する用語を知るには、たいへん勉強になっていると思います


5月22日(月)

先日のこどもの村小学校の中山金山への登山の同行は、私自身約5年ぶりの現地への訪問でした。湯之奥三金山の学術調査時以来、毛無山登山にこのルートを利用して数回来ただけだったので、ひさびさの中山金山の現地です。

調査時と地形はほとんど変わっていなませんが、周囲の樹木の成長や植生の変化は、だいぶ様相を異にしているように思われました。車を置いた下部川沿いの林道から入る登山道は、植林されたヒノキが大きく育って登山道を覆っており、女郎屋敷のテラスもカラマツが成長して若木であった当時の面影はありません。テントに泊りがけで調査していた夏の当時、ふもとから食糧や燃料をほとんど毎日地元の方に運んでいただいていました。日当たりが良かった植林の間の藪を縫うようにして整備された登山道にはマムシがたくさん出没し、毎回運搬途中で数匹捕獲できたとの話の記憶がよみがえります。(当時は薬用、強精剤としてのマムシの焼酎付けに供されていた。)いまでは直径30センチほどに育ったヒノキの樹間は、保安林改良事業で間伐されて下草もほとんどなく、30余年の歳月の長さをあらためて痛感した次第です。

 学芸員から精錬場にはトリカブトが多かったというイメージがあったということでしたが、現在トリカブトはごくわずかしか見られず、その代わりにコバイケイソウが群落をなしています。林道近くの登山道沿いには、フタリシズカがかなり見られました。名前のフタリシズカ(二人静)は、2本の花序が源義経を愛した静御前の亡霊が舞う能楽「二人静」における静御前とその亡霊の舞姿にたとえたものに由来するそうです。2本の花序になるものが多いはずなのに、1~4本までのさまざまなものが存在しています。花の盛期はまだこれからのようです。

登山道脇には、ワイヤーロープと鉄製の滑車が使われなくなったままの状態で放置されており、これらは昔の調査時にも確認しています。かつてこの山の木材搬出用に設置されたもののようで、尾根付近には直径1メートル以上の大木の切り株がいまだに腐りきらずに存在しています。滑車にはツキヂ索道と書かれたプレートもあり、昭和40年代に伐採された可能性があります。廃棄されたままの鉄製のロープや滑車はかなり重量があって腐食もさほど進んではいないので、資源として再利用してほしいところです。山中ではしばしばこういった放置物を見かけますが、どうにかならないものでしょうか。今では廃棄物処理法違反なのでしょうが、、、。


5月21日(日)

18日に南アルプスこどもの村小学校の児童30人、引率者3名と、湯之奥中山金山遺跡の現地に行ってきました。こどもの村小学校は私立の小学校で、こどもの自由を教育理念とした非常に特色ある学校です。プロジェクトと呼ばれる縦割りクラスの授業の一環で、1~6年生までの男女が参加してくれました。

当館は、国指定史跡甲斐金山遺跡(湯之奥中山金山遺跡)のガイダンス施設でもありますので、まずは博物館で中山金山の事前学習。そのあと、車で登山口へ移動しました。

ここからは比高差600mの山道をひたすら登ります。約2時間かけて、中山金山の作業をした遺跡の現場に到着しました。現地でお昼のお弁当のあとに、学芸員から採掘の跡や現地に残る作業テラスの概要の説明を受けました。約500年前の戦国時代当時に思いをはせながら、熱心に聞き入っていました。

年齢差があり体格差や体力差は当然まちまちで、体力的に厳しくて弱音を吐きそうな子もいましたが、お友だちのサポートもあって全員無事に往復することができました。

登山の過酷さや厳しさと、歴史のロマンを感じた1日だったと思います。


5月15日(月)

「シン・サンポ」を実施します。前出月館長の「いでさんぽ」を引き継いだかたちで、身延町内各地域の身近な歴史や文化と自然に触れる機会を踏襲します。館長講座の現地版です。それぞれの地域を直接歩くことによって地域を再発見するもので、地域を知ることが地域に親しみを持ち、地域(身延町)を好きになってもらうきっかけづくり動機づけの一つになればと思っています。

第1回目は「甲斐常葉周辺」を散策します。「シン・サンポ」としたのは、ひらがなの「いでさんぽ」に対抗してというよりは、このブログ(4月20日記事)の時のように、地域探訪に参加された方々がさまざまなことをそれぞれが感じ取ってほしいという思いから計画しました。

これから作成する募集案内を確認してみてください。


5月13日(土)

5月6日の醍醐山一斉登山の時、今回の登山道沿いにある石造物や寺社について、樹木や草花の名前とともに醍醐山を愛する会の関係者からいろいろと説明をしていただきました。その中で、今から約40年前の湯之奥金山遺跡学術調査を思い出す資料の解説がありました。大子(だいご)集落の入口手前にある石祠の時です。この本体部分の正面の穴を指して「猪の目です。」と解説してくれました。この石祠は、石を二段積んだ基壇上に、四角い台座石、その上に正面に逆ハート形の穴が穿たれた軸部、流造りの形式の屋根が組み合わさった山梨県ではごく一般的な形式のものです。その穿たれている穴の形に、遠い脳の片隅の記憶がよみがえってきました。

金山学術調査の検討会の時、中山金山の七人塚下方の谷から発見された石殿の軸部に、このハート形の穿った穴と長方形の穴が上下に並んだ資料がありました。「原位置ではハート形の穴になっているがこれは上下が逆になっており、この形は宝珠を表しているものであって本来尖がっている部分が上にくる点を注意してください。」といった内容の発言が石造物専門の先生からあったことです。

このことを考えると大子集落手前の石祠は、猪の目を表したものではなく、宝珠を表している可能性もあるのではないかと思った次第です。


5月11日(木)

北杜市小淵沢町の中学2年生が、社会科見学で金山博物館に来てくれました。

日本における人と金とのかかわりやその技術を学びました。映像による日本の金の歴史と湯之奥金山の解説をみて、山金採掘に関する道具や甲州金をはじめとする金貨の展示品を見学したあとは、お楽しみの砂金採り体験です。みんな楽しくわいわいと、小さな砂金を一生懸命探していました。

 

苦労して探し当てた砂金は、思い出に残る大切な宝物となることでしょう。


5月8日(月)

湯之奥金山の現地調査でいつもお世話になっているIさんに誘われて、醍醐山を愛する会に入会しました。

恒例の醍醐山一斉登山が6日の土曜日にあったので、早速参加してきました。少し前の天気予報では雨予報であったのが、すばらしい五月晴れの天気になりました。私が晴れ男のせいか、イエイエ関係者みなさまの日ごろの行いの成果であります。甲斐常葉駅前広場に60名近い人数が集合して開会式。役員さんから班分けの後に趣旨説明、コース説明、注意事項の確認のあと、準備体操をして班ごとに出発しました。

役員さんから眼下に見える集落や遠望できる山名の解説があり、随所で樹木や山野草の説明もありました。スギ、ヒノキ、クロモジ、キンラン、ギンラン、フタリシズカなど。貴重な植物に出会えたのも役員さんの事前の下見のおかげです。

キンラン

会の有志が北側を切り開いてくれた山頂直下からは、茅ガ岳から奥秩父山塊が見渡せます。山頂に到着し荷物を置いて、稜線を少し下った展望台に行きました。下山集落から南側の富士川流域は見えましたが、周囲の植林した木々が大きく育っていて山などの眺望は以前に比べて望めなくなったとのベテランの会員さんの声です。。

登山道は転石などがあり注意して下を見て歩くのは当然ですが、私の普段からの習性で何か落ちてはいないか、周囲の地形は自然か人工的なものか、石や土は何なのかなど地表面を観察して歩きました。山頂手前の登山道にオトシブミが落ちていました。昆虫のオトシブミの母親がこれに卵を産み付け、巻物のようにていねいに巻いて落としたものです。卵は幾重にも重ねられた葉の中にまもられていて、葉っぱのふとんかゆりかごのようです。卵からかえった幼虫は、この巻物の葉を食べて成長し、約3週間後には成虫になったオトシブミが出てくるのでしょう。葉はまだ青々として緑が鮮明で、今朝の創作物と思われます。オトシブミ

山頂では出発の時に配られたカップ麺をいただきながら、おにぎりをほおばりました。食事後に、峡南消防本部特別救助隊の山岳救助における講習と実演のあと、交流会で参加者の方からいろいろな話が聞けました。会の発足から登山道の整備など、会員の方の長年にわたるご苦労があってこそ安全な登山ができ、楽しい山行を堪能できることを改めて認識しました。

下山の途中では山頂にあった村の痕跡や、ナラ枯れの被害状況、鉄塔で切り開かれた地点からの眺望の説明と、大子の集落でリンゴとオレンジの接待を受けました。

下山後、車の運転手は甲斐常葉駅に、それ以外の人は湯之奥金山博物館へ直行しました。博物館では、金粉入りの梅茶でおもてなしです。汗をかいた疲れた体には、適度な塩分と水分の梅茶は体中にしみわたります。一息ついたところで反省会を行い、再度参加者からそれぞれの感想と意見を聞いて散会となりました。

醍醐山閉会式

主催者の役員の皆様お疲れ様でした。そしてありがとうございました。楽しく有意義な登山ができました。

 


5月5日(金)

今日は端午の節句、こどもの日です。親子連れでたくさんの人が来てくれました。節句とは季節の節目となる日のことです。中国から伝わった陰陽五行説がそのルーツで、古代中国では月と日が奇数で重なる日を忌み嫌って、邪気を払う行事が行われたということです。端午の節句は五月の最初の午の日のということで、午と五の音が同じことから五月五日と定められました。昔はこの日を悪日として、災難をよける魔除けのために、菖蒲やヨモギを屋根に刺したと『下部町誌』では記載しています。

少し前まで男の子のいる家では、鯉のぼりや武者のぼりの旗が家の入口にはためいていました。個人のお宅に建てられることは少なくなってしまいましたが、今では使わなくなってしまった鯉のぼりをたくさん集めた地域おこしの名物として、北杜市南清里のほか全国各地で新たな活躍の役目を担って、風香る五月の空に何百匹も遊泳している姿を見せてくれています。

端午の節句は菖蒲の節句ともいわれ、菖蒲から尚武に転じて男の子の誕生を祝うとともに、その健やかな成長を祈念しました。武者人形や鎧兜を飾るのも、これに由来したとされています。


5月4日(木)

大型連休後半2日目突入。朝から入館待ちの大行列ができています。きゃぁーっと、うれしい悲鳴。砂金採り体験は大多数のみなさんが希望されているため、開館直後を除けば30分待ちの大渋滞が発生で、これが夕方まで続きました。体験の順番待ちのお客さんが、入り口のホールで大混雑になっています。

親子連れ、ご家族連れ、友人グループなどいろんなパターンがあるけど、やっぱり家族連れが多いかな。天気もよく風は少し強いけど、行楽日和な一日でした。

当館のスタッフは、一日中てんてこ舞いです。昼食も取れない状況でした。ご苦労様です。戦力にならない館長なので、せめて応援のエールをおくります。ほんとうにお疲れ様でした。ファイト。明日もまだ5連休の中日です。もう少しの辛抱です。頑張りましょう。


5月1日(月)

夕べのNHK大河ドラマ「どうする家康」番組の最後の「紀行潤礼」で、甲斐黄金村・湯之奥金山博物館が登場しました。武田信玄にまつわる関係地として、甲府市の「武田神社(躑躅ヶ崎館跡)」とともに身延町の当博物館が紹介されたものです。甲州金(甲州露壱両判)や鉱山作業を再現した展示と砂金採り体験室のようすが放映されました。

見逃した方は、当館のホームページから「もん父Twitter」でご覧ください。

これを見た学生時代の同級生から、久しぶりに連絡がありました。

私がここに来たことから、金山ツアーとして下部温泉で同窓会をやってくれることになっています。みんな砂金採り体験を楽しみにしてくれています。


4月30日(日)

今朝は館に緊急事態発生です。全館の停電です。電気が来ないと暗いばかりか、水も出ないしトイレも使えません。それに今日午後からは第1回目の館長講座の予定。「どうする家康」じゃなかった。さあどうするどうする。

職員のみんなで対応検討。発電機の手配や、最悪復旧しなかった場合も想定して、講演会開催の別施設の確保など、職員のみんなてんてこ舞い。目が血走って対応してくれています。

ゴールデンウィーク中なので、開館時間前から入館者が並んでいます。臨時休館にするかとも検討しましたが、砂金採り体験だけでもしたいとのことで、電気のないうす暗がり中での一部開館です。関東電気保安協会の職員の方の点検調査によって、雨と湿気による漏電が原因と分かり、焼損した部品を交換して2時間ぐらいで何とか復旧しました。ほっと一安心。

館長就任記念講演会に、たくさんの方々が来てくれました。ラジオでの宣伝効果もあって、幼馴染や元職場の大先輩や親戚までも駆けつけ盛会でした。講演内容はともかく、みなさんの反応は良好でした。

今回の講演会の開催に当たり、いつもご協力いただいている博物館応援団のみなさんに下準備や会場整理のお手伝いしてもらいました。ありがたいことです。感謝、感謝です。


4月29日(土)

新館長就任記念のお花が届きました。SPCさんありがとうございます。お花はロビーに飾らせていただきました。いくつになっても花をいただくのはうれしいものですね。お花をいただくのは久々で、何年ぶりのことでしょう。前の職場の退職の時以来かな。どの花も一つひとつがそれぞれ美しく、心がなごみます。

昨日、身延町の日帰り温泉施設「しもべの湯」が下部温泉駅に隣接してオープンしました。地元放送局の夜のテレビ番組で紹介していました。建物の1階には大浴場や露天風呂など男女それぞれ6種類の温泉やサウナにレストランと休憩室、2階はスポーツジムが完備されています。町民の健康づくりとともに観光の拠点として、下部温泉郷活性化の起爆剤となればいいですね。

これにあやかって、金山博物館の入館者も大幅に増えることを期待しちゃいます。


4月24日(月)

今日は金山博物館の26回目の誕生日です。

皆様のお引き立てとご協力があってこそ、本日を迎えることができました。どうもありがとうございます。

館の職員が入り口に「26」を意識した特別な飾りをつけてくれました。

初代谷口館長が立ち上げて基礎を固め、二代出月館長が充実させてきた当館の存在意義を、さらに発展させるべく皆様に親しまれるよう努力したいと思っております。

さて、あれほど当館周辺の山裾や花壇に群生して目立っていたゴールデンカラーのヤマブキの花も、いつしか花びらが落ちてほとんどが額と葉の緑だけになってしまっています。

時の過ぎゆくことが、なんと早いことか。このところ、年齢とともに特に加速度がついてきていると感じるのは、私だけでしょうか。

26年間はとても長いと感じますか。それともあっという間なのでしょうか。みなさんはどう感じられますか?


4月23日(日)

四つ葉のクローバーを見つけると幸せになれるといいます。

わたしは小さいころから、地面に落ちているものを拾い集めるクセがあります。土器片であったり水晶であったり。土器片は実家の畑とその周囲、水晶は近くの石切り場とそこから運ばれた土砂が敷かれた道路など。このことについては、他の人よりもたくさん珍しい物を集められる自信があります。これまでの代表的成果品としては、甲斐駒山頂の縄文土器片やブドウ畑でのヒスイの勾玉などがあります。この地表面観察の特殊な目利きは、山での山菜採りにも活かされています。(タラの芽、コシアブラなど今まさに春の山菜のピークですね。)

同様に、シロツメグサを見かけると、その葉の一枚一枚を凝視して四葉のクローバーを探してしまいます。下部リバーサイドパークには、シロツメグサの小さい株が一斉に生えはじめました。まだほとんどが手のひらサイズの株です。でも眼が地表を追ってしまう小さいころからの性で、歩くたびにいくつもの株をなんとなく見やっていました。

なんとそのうちの一株に四葉のクローバーがあるではないですか。小さな株の中に2個も。その確率はなんと1万分の1~10万分の1。さらに同じ株には、五つ葉クローバーもありました。こちらの発見率は100万分の1だとか。なんとラッキーなことでしょう。

めったに見つけることのできないことから、幸運の象徴としてみなさんも知ってのとおりです。また、四つ葉にはその葉一枚一枚に「愛、健康、幸福、富」とそれぞれ意味があって、四葉のクローバーがそれらを運んで来てくれるとも言われています。

これらのラッキーアイテムは、取ることなく現地にそのままにそっとしておいてあります。金山博物館の隣の下部リバーサイドパークのどこかには、これらの株があります。みなさん金山博物館の砂金採りとともに、四葉のクローバーも探しに来てみてはいかがですか。


4月20日(木)

さて、このブログのタイトルは「シン・ドウノヘヤ」です。シン・ドウは名字(姓)の信藤(しんどう)からきています。でも「シン」のあとの「・」中点は何なのかといいますと、「シン・ゴジラ」にはじまり先月公開された「シン・仮面ライダー」などのシリーズに由来します。(最近発売された缶チューハイの名前にも「シン・レモンサワー」があったりして、、、)

「シン・」シリーズの映画を制作された庵野監督は、〝「新、真、神」など見る人によってさまざまなことを感じてもらいたいということで正解はありません〟とおっしゃっています。それにあやかって、つれづれなるままに日々のことを綴ったこのコーナーのタイトルに引用させていただきました。


4月17日(月)

博物館で管理する隣接している下部リバーサイドパークには、複数の鹿のフンがありました。どうも昨夜の落とし物のようです。黒豆のように表面は黒光りさえしています。

そういえば吉永小百合さんの「奈良の春日野」の歌詞に「青芝に腰をおろせば 鹿のフンフンフンフーン 黒豆や」とあって、50年くらい前のテレビのお笑い番組でよく明石家さんまさんが歌っていたとおりの姿でした。

そのフン溜まりには50個以上がまとまってありました。一昨日の雨よりも前のものもあり、こちらは黒豆が煮崩れていて形をほとんどとどめていません。自然が身近に感じられます。


4月12日(水)

今日は武田信玄公の命日。元亀4年(1573)4月12日、信玄公は西上途中に信州駒場で亡くなりました。今からちょうど450年前のことです。今日は武田神社で例大祭と武田24将騎馬行列が行われ、甲州市の恵林寺では法要と信玄公まつりが4年ぶりに実施されました。

信玄公は亡くなる直前に、自身の死を3年間秘密にすることなどを遺言しました。そのため死因や亡くなった場所に諸説があり、影武者説や徳川家康に与えた影響などその生前の実態は謎に満ちあふれています。

近年の研究の進展や発掘調査、新資料の発見などによって、新たな信玄像が描かれつつあります。甲府駅前の信玄公の銅像は別人を見本としていること、信玄公が生きていた時代の武田氏の家紋は武田菱ではなかったこと、信玄公は甲斐国内に城を築いていたことなど,私たちが持っている信玄公の常識は実際違ってきているのです。

これらの概要の一端を4月30日の講演会で紹介したいと思っています。

どうぞ、ご期待ください。

 


4月11日(火)

4月から出月館長に代わり、金山博物館三代目の館長に着任しました信藤祐仁です。

出月前館長と引継ぎをしていたころ館の周囲の桜の花もまだまだきれいだなと思っていたら、いつの間にか葉桜になってしまっています。葉の緑色も濃くなってきて、今年は例年になく春の訪れが早かったですね。桜の開花も観測史上もっとも早いタイ記録だとか。

博物館の周りに目をやると、山吹がたくさん自生しています。山吹の花の黄色が緑の葉に映えて目立ってきれいです。山吹色は黄金色、大判小判の異称としても知られています。博物館にふさわしい花が、今周囲を取り囲んでいます。

その名のとおり黄金色に輝くように、皆様のご支援とご協力をいただきながら館長の重責を全うしてまいりたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。


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