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シン・ドウノヘヤ(2026年)
2月28日(土曜日)
2月の最終日です。時のたつのは早く、あっという間に冬から春になった感じです。我が家の庭にクロッカスの花がいつの間にか咲いていました。いつ植えたのか記憶は定かではなく、この時期に花がないところに緑の針状の中央に白っぽい筋の入った葉と、紫色の花弁に黄色のめしべやおしべが鮮やかです。めしべやおしべはオレンジがかった黄金色で、花びらとの対比も目立っています。花は紫のほかに、白や黄色もあるようです。クロッカスは地中海沿岸から小アジア地方が原産で、日本の別名はハルサフラン、ハナサフランです。名前はめしべが糸状に長く伸びることから、ギリシア語の糸を表す「KROKE(クロケ)」が由来だそうです。クロッカスは球根から直接葉や花が伸びて茎が無いように見えますが、実は地下の球根が茎にあたるそうです。球根状のものは茎が縮まって肥大化したもので、正しくは球茎というのだそうです。西欧においては春の到来を告げる花として親しまれています。

2月26日(木曜日)
昨日のまとまった雨は、植物に生気を与えてくれたようです。約2か月ぶりの20ミリ以上になる比較的まとまった雨で、少しはここの所の雨不足解消になったことでしょう。今月の上旬は寒い日が続き、最低気温は連日氷点下を記録、マイナス8℃を超える日もありました。一転中旬になると春らしい暖かい日もあり、25日には25℃を超える夏日を記録しました。いよいよ待ち遠しい春の到来です。
博物館の周辺でもきれいな花が見られるようになりました。リバーサイド公園の河津桜は、つぼみも膨らんで数輪の開花が確認できました。花の色は濃いピンクで、これからは次々と開花していくことでしょう。十月桜も秋口に一部咲いていたのが、この時期にも白い花をつけています。サザンカは「山茶花」と漢字で表記され、中国語で「サンサカ」と発音されますが「サンザカ」から訛って「サザンカ」になったとされています。中国や日本が原産地とされ、庭木や生垣として利用されています。博物館の建物の周囲にも生垣として、花を咲かせています。童謡の「たき火」に登場するのでよく知られており、メロディブリッジの冬の一曲として今月末まで2回に1回の割合で博物館一帯にも流れて来ています。椿とよく似た花ですが、サザンカは花びらが一枚ごとに落ちるのに対して、椿は花ごとポトリと落ちます。戦国時代には、椿の花が落ちる様子が「首が落ちる」ことを連想させることから、不吉な花とされたこともありました。
2月21日(土曜日)
テレビやラジオの番組中にあまり聞きなれない言葉を聞いたことを思い出しました。「オノマトぺ」です。小中学校時代の授業では全く聞いたことがなかった言葉であり、使ったこともなかった言葉なのです。国語の教科書では、「擬音語」・「擬態語」と言っていたはずです。「ワンワン」はイヌの鳴き声、「ニャンニャン」は猫の鳴き声の「擬音語」、「キラキラ」光る金や「ポカポカ」の陽気は「擬態語」になります。最近カタカナ言葉に抵抗がなくなってきたのは、英語表現が日常で普通に使われるようになったり、SNSやブログなどインターネットの普及があげられると思います。しかし、堅い頭を持つ私にとっては、若い子供世代の人達の会話には意味不明な言葉が乱舞しているように思われます。
昔を振り返ってみると、ブルースリーの「アチョー」、Dr.スランプアラレちゃんの「ツンツン」、北斗の拳の「あたたたたたた」や不思議な擬音の数々は、テレビやアニメでよく使われていたことがわかります。古典でいうと、狂言の「くっさめ」はくしゃみの擬音で今の「ハクション」なのですが、これは知らないと全く何のことだかわかりません。イヌの鳴き声も英語では「バウバウ」、にわとりの「コケコッコー」は英語で「クックドゥードゥー」擬音語も時代や地域によって全く違った表現がされるのですね。
2月16日(月曜日)
「旧市川家住宅」は、身延町和田平にある山梨県指定文化財になっている大型の民家です。富士川中流域に特徴的なかぶと造りの茅葺屋根を持ち、代々大庄屋や交代名主を務めた家柄です。富士川東岸の背後に山を控えた西面する大きな家で、北側に土蔵を有しています。棟札から享和3年(1803)に建てられたことがわかり、6つの座敷と平面の約4割を占める大きな土間を持ち、2階部分では養蚕をしていました。現在市川家をはじめ周辺地域で昔実際に使われていた道具類が展示されており、地元小学生の地域の歴史や産業の学習教材として活用されています。先日行われた身延町立下山小学生の地域学習の際に、一緒に見学させてもらいました。
市川家のご先祖は、戦国時代には裏山の高台にある烽火台の管理を任されていたと伝わっており、江戸時代には富士川舟運や対岸の身延町大野との渡船に関与していたと思われます。通常の東側の玄関のほかに、代官や賓客を迎え入れる式台が設けられた玄関があり、狆(ちん)くぐり付きの床の間や筬欄間(おさらんま)、棹縁(さおぶち)天井などを用いた格式の高い造りになっています。中でも特徴的なのは、群青色の土壁です。青色系の土壁は非常に珍しく、ほとんど使用された例がありません。古くは青色にはラピスラズリの鉱石が用いられていましたが入手が困難で非常に高価であるため、アズライトなど代替品が利用されていると思われます。ただ、どちらにしても非常に高価なものなので、造られた当時の市川家の経済力には驚かされます。

2月13日(金曜日)
春に先駆けて咲く梅の花。庭木にもよく利用され、我が家の庭でも開花が始まっています。山梨県では甲州小梅が昔から栽培されており、江戸後期の地誌『甲斐国志』には「一梅 数種アリ消梅(コウメ)ニ甲州梅ト呼ブ者極メテ小粒ニシテ味佳ナリ、、、」と名産品として記録されています。実はカリカリの梅に漬けられる場合が多く、子供の頃「梅はその日の難逃れ」だからと毎朝ショッパイ小梅を食べさせられていました。梅はもともと中国原産で、奈良時代に遣唐使によって日本に伝えられたとされています。最初は実が薬用や保存食として利用されるとともに、香り立つその美しい花が愛でられました。花見というと今では桜の花を思い浮かべることが多いのですが、平安時代のある時期までは、花と言えば梅の花のことでした。その人気ぶりを当時の『万葉集』の和歌に詠まれた数で見てみると、「梅」の110首に対して「桜」が43首だそうです。これが平安時代の『古今和歌集』ではその数の比率がまさに逆転して、二倍以上が桜花を歌ったものになっています。
博物館のエントランスにも三ヶ所、梅の花などが花瓶に飾られています。梅は紅梅と白梅がありますが、博物館では蝋梅(ロウバイ)の花が見事です。ロウバイも中国原産で、江戸時代のはじめに日本に伝来しました。中国では新春に香り高い花を咲かせる「梅」、「水仙」、「椿」と合わせて「雪中の四花」として尊ばれているそうです。蝋梅は梅の字が使われて花の形は梅に似ていますが、梅がバラ科なのに対してロウバイはロウバイ科で別種になります。蝋梅(ロウバイ)の名前は鈍いツヤのある花びらがロウソクや蜜蝋が由来であるという説や、陰暦の12月(蝋月)に咲く説などがあり定まっていないものの、その黄金色の輝きはまさに冬に香る黄金の宝石です。写真にはロウバイの実が写っています。実は中に種を包括する集合果で一見虫の冬眠する時の繭のようにも見え、どことなく違和感を感じるのは私だけでしょうか。
2月9日(月曜日)
湯之奥金山博物館応援団AU会主催の「第14回金山遺跡・砂金研究フォーラム」が9日(土曜日)に開催されました。雪が降り交通機関も乱れるあいにくのお天気でしたが、各地から応援団の皆様が駆けつけて発表してくれました。このフォーラムは、金山博物館を拠点にフィールドワークの経験や体験・疑問点などをテーマに、応援団のみなさんが企画・開催する研究発表会です。博物館の応援団のみなさんには、日頃より砂金採り大会のイベントをはじめとして当博物館の運営に大変なご協力をいただいておりますことを深く感謝申し上げます。金山博物館のボランティア活動だけでなく、博物館を通して学習し、互いに研鑽しあい博物館を盛り上げていっていただいております。今回のフォーラムでは、全国各地の砂金採取の調査報告や金・銀山跡や鉱山資料の新たな視点での研究や活用の取り組みなど6名の方々からご披露・発表していただきました。
誰でも自由に利用できるオープンデータ(古絵図が掲載された古文献、赤色立体図、0.25mなどの数値標高データ地図など)を有効に活用して、伝承や古文書に残るだけのもしくは誰にも知られていない鉱山跡が新たに発見され、それぞれを現地調査する中で新たな鉱山史、鉱山技術史の解明につながっていくことが期待されます。
2月3日(火曜日)
今日は節分です。節分とは読んで字の如し、季節を分ける日なのです。明日の立春の前日、冬から春へ季節が変わる節目の日です。季節には春夏秋冬の四季があるため本来4回の節分がありましたが、江戸時代まで春が1年の始まりとされたため、現在の大晦日のような意味を持って冬から春への節分が特に大切にされてきました。『下部町誌』(1981)には節分について「季節の変わり目にあたって陰と陽の対立により災いが生じるから、この邪気を祓う行事が必要であった。この日は長い竹竿の先の目かごまたは手すくいに、山からとってきたバリバリンの枝やヒイラギの枝にめざしを刺したものを添えて、軒より上に高く立てる。、、、中略、、、バリバリンを燃やしながら豆をホーロクで七回いる。いり豆は部屋ごとに「福は内、鬼は外、鬼の目ぶっつぶせ」と大声で叫びながらまく。節分は、今では家庭だけでなく多くの寺院や神社での催しとなり、年男による豆まきで鬼を追い払う行事として行われている。」と記述されています。バリバリンはモミソともいい、枝を燃すとバリバリと音がする榧(カヤ)や樅(モミ)のことを身延町では言っていたそうです。

今ではこのような竹竿にかざしたモニュメントやヒイラギイワシはほとんど見ることができませんが、邪気や災厄を鬼に見立ててこの鬼を回避する呪術の一つでした。目籠や手すくいはこの家には物凄く目の数を持った動物が棲んでいるぞとの威嚇の表象であり、葉先の鋭いモミやヒイラギの葉によって鬼の目を刺し、鬼が嫌うめざしを焼いた独特のにおいを発生させることで鬼の侵入を防御する習俗なのです。節分に豆をまくのは、魔物の目をつぶす魔目(マメ)に由来し、鬼を追い払います。炒った豆を年齢の数プラス1個食べると、新しい年が無病息災で送れるとされていました。私もこの年になると、節分の豆だけで腹一杯の満腹になってしまいます。
1月24日(土曜日)
身延町杉山にある珍しい石造物について、町内の知識人であるE氏とY氏に案内していただきその存在を確認してきました。杉山は御坂山地の西麓の栃代川流域に位置し、鎌倉時代には文書に見える地域で、本村(杉山)、和名場、栃代に大別されます。そのうちの本村集落の中ほど、村内の主要道沿いにありました。自然石の上部が平坦になっており、自然の亀裂に添うように4個の穴と2個の穴が2列並行に開けられています。穴はすり鉢(盃)状を呈しており、大きさは大きいもので直径約10センチあります。そのほか、開けかけの小穴も数個が上面にのみ見られます。一般的に六地蔵や道祖神、庚申塔などにつけられているものと同種のものと思われます。この盃状の穴は、誰が、いつ、何のために、どのようにして作ったのかは、確かな伝承に乏しくなぞに包まれています。つけられている石造物が信仰の対象物であるため、なにかの呪いのための呪術や、民間信仰や民間医療などと推測されていますが正確な所は学術的にわかっていません。身延町内でも何か所も確認されています。
杉山集落の入口の路傍に、双体道祖神があるのも確認してきました。杉山本村の集落は、現在日蓮正宗の有妙寺が存在するのみで、一般の住宅はすべて集落外に出て居住している人はいなくなりました。本来であれば道祖神祭りがこの場所で挙行されていたはずですが、全くその痕跡はありませんでした。下部町誌には「起舟後光握手型双神像」「寛延四年未歳六月十四日」の記銘が報告されています。西暦では1751年にあたり、下部地区では最古の道祖神です。ちなみに前述の盃状の穴のある石造物で最古と言われているものが、山梨市堀内にある石祠型の道祖神とされています。

1月19日(月曜日)
おととい第6回館長講座を開催しました。これまでは河内地域の歴史を、考古学、山岳信仰、牧と甲斐源氏、中世前半期の武士の時代をテーマとして甲斐国全体から見た視点で講座を開催してきました。今回は中世後半期の「穴山武田氏と信玄・勝頼・家康」と題して、甲斐国河内領を統治した穴山武田氏についてその進出からの興亡を概観してみました。穴山氏は甲斐源氏武田氏の庶流で、韮崎の穴山に所領を与えられてその地名から穴山氏を名乗ります。武田氏中興の祖と言われる武田信武の四男義武が、穴山氏の初代になります。武田信武は甲斐源氏第10代の当主で、室町時代に足利尊氏の近臣として活躍し尊氏の姪を妻としています。南北朝時代には尊氏とともに北朝方に属し、南朝方に与した甲斐源氏南部氏が奥州に移ったのを機に、その空白となったこの地域に進出したと考えられています。最初は南部氏の館に入り、信友時代になって下山に拠点を移します。養子縁組など武田宗家と深い関係を持っていましたが、一時期駿河今川家に帰属していたと考えられます。当時は武田宗家ともども、穴山一族は一時内乱状態にありました。穴山信友は武田信虎の娘南松院を正妻に迎えましたが、武田信玄が父信虎を駿河に追放したクーデターの時に協力した有力家臣の一人でした。息子信君には信玄の次女見性院が正妻となり、武田宗家とは非常に深い血縁関係が結ばれました。武田家臣団の中では親族衆の筆頭となり、肉親以外で武田氏を名乗ることが唯一許された家臣でした。名前も武田氏の通字(とおりじ)である信の字の使用が認められており、信君とその息子ともに信玄の幼名と同じ勝千代を使用しています。穴山氏は東海方面の外交をも担当しており、駿河今川氏・三河徳川氏・尾張織田氏とも緊密な関係を保持していました。

1月17日(土曜日)
穴山梅雪は、一部のネット識者から「アナ雪」と呼ばれているらしいことを耳にしました。「アナヤマ梅雪(ばいせつ)」なので、「穴山」を訓じた「アナ」と「梅雪」の「雪」を合わせ、ディズニー映画の「アナと雪の女王」の略称に合わせた由来らしいのです。梅雪の諱(いみな)は信君(のぶただ)であり、かなり実名としては難読な名前です。
穴山氏は武田家の庶流であり、韮崎市穴山を本拠としていました。南北朝時代から河内谷の南部に拠点を移し、さらに南部町南部から身延町下山へ館を移転して城下町を整えています。穴山梅雪は武田信玄の姉を母に、娘を正妻に持つ血筋的に戦国大名武田家本家に非常に近しい家柄であります。家臣の中では武田家一門であり、対外的に武田姓を名乗ることが許された氏族です。信玄の亡き後勝頼とは意見が合わず、武田家を見限っています。地理的に駿河に接していることから今川家や徳川家とのつながりが強く、陶磁器や漆椀など調度品に高価な物品が残されています。領域内には湯之奥金山など初源期の山の岩石から直接金を採掘した金山が多く存在し、金山村を幾つも形成していました。武田氏を見限って織田・徳川軍に寝返った時、手土産に大判2,000枚を持参したといいます。大判2,000枚では重さが約333kgとなり、最近の高騰した価格に近い数字25,000円/gとして換算すると、おおよそ80億円以上にもなります。穴山氏が統治していた時代の穴山領(河内地域)における金の生産力には驚かされます。
1月12日(月曜日)
博物館では、お正月入口に恒例となっている門松を立てました。松は生命力の強い常緑樹であり、歳神様(としがみさま)が降臨する依り代として平安時代にはすでに中国から伝わった風習とされています。博物館関係者の竹やぶから太い竹数本をいただいてきて、梅や松の枝、実の付いたナンテンの木などをそれぞれさらに調達してきて、職員で正月飾りの門松を作りました。竹は長さの異なる3本を1セットとし上面を斜めに削いでおり、土台は稲わらを下から七五三巻に荒縄で巻いています。松竹梅は古来より「歳寒三友」と呼ばれ、寒い中でも色褪せずめでたいものの象徴でした。松は長寿や不老不死、竹は地面にしっかりと根を張りまっすぐ早く伸びることに加え毎年次々とタケノコを生む子孫繁栄、梅は他の植物に先駆けて香りを放ちながら咲く生命力と気高さをそれぞれ表しています。南天は「難を転ずること」に由来する縁起の良い樹木です。門松はそれぞれ縁起の良いものが集められ、それぞれが持つ良いところの相乗効果が新年にもたらされることを願って立てられるものです。中でも竹が目立つのに門松の名称が用いられるのは、門松の原初形態は松の枝のみであったこと、まつが神様を祀る(まつる)の語源の一つであったからだそうです。ちなみに武田流門松は、竹の先端を削がずに寸胴の形に切った姿のものです。

1月5日(月曜日)
山の仲間たちと今年の干支にちなんで、都留市の馬立山に初登山で登ってきました。富士急行線からのアクセスが良いため、禾生駅➡九鬼山➡馬立山➡田野倉駅のコースをとりました。馬立山(またてやま)の標高は797mと低山ながら、九鬼山からの稜線はかなり険しく、先日の降雪もあって結構滑りながらやや危険をはらむ道のりでした。途中の樹幹の切れた眺望が聞く場所では、雪を頂いた富士山がその雄姿を披露してくれました。天気は快晴で風もなく、心地の良い山行となりました。
本日も身延町内でクマの目撃情報があり、クマのえさとなるブナの実の不作から、里への出没が相次いでいます。今回登山道沿いでもブナの実は確認できませんでしたが、ミズナラの実はものすごい量が落ちていました。本来はもう冬眠する時期なのですが、冬を越せるだけの十分な食料が確保できていないため、人里へ食料を求めて来ているようです。しかし、ミズナラのドングリの大量散布状況は、山のえさ不足というには疑問を感じます。クマもおいしいものを求めて、収穫されない柿や畑の野菜類の味を学習して覚えてしまったがために、行動範囲を広げているのでしょうか?地球温暖化も一部のクマが冬眠をしない遠因なのでしょう。登山道にはクマと思われる大きなフンが何か所かありましたが、これは調べてみるとタヌキの溜めフンのようで、黒い色をした果実の種子が多く含まれていました。また、緑色をしたヤママユガの天蚕繭が数か所で枯れ葉の中に確認できました。このヤママユガは天蚕ともよばれ、日本原産の野生蚕の一種でその繭糸は独特の淡い緑色をしており、光沢があって珍重されています。飼育が難しいのですが、隣の市川三郷町ではこの天蚕の飼育と製糸の生業が昔から営まれています。

1月3日(土曜日)
陰陽五行説では、万物(宇宙)を構成する五つの構成要素「木火土金水」と「陰陽」の二元構造が干支の十干「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」に充てられています。これに動物がシンボルとなる十二支「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」が加わって60種類の干支を構成し、暦、方位、時間、性格などもそれぞれ割り当てられています。60年で一巡することから、60歳を還暦と言う由縁です。甲子園球場も大正13年(1924)年甲子(きのえね)の年に完成したことにその名は由来します。
丙午(ひのえうま)は火の兄(ひのえ)で、午も火の陽にあたります。太陽が真南に来る正午の時刻は、日差しが最も強まりますよね。丙午は、火の陽が重なる「比和」の年になり、力が増幅されて持っている特徴が顕著となりさらに強まることになるそうです。ひのえうまの年に生まれた人は気性が強い人が多く、特に女性がこの年に生まれると「亭主を食い殺してしまうなど災いをもたらす」という迷信がありました。この迷信は寛文6年(1666)生まれの八百屋お七という女性が、恋人に会いたい一心で放火事件を犯し、火刑になったことがそのもととなったとされています。寛文6年の干支が丙午であり、この事件のことを後の文学作品や歌舞伎で大きくとりあげられてきたことに由来します。
山梨はかつて馬の名産地であり、甲斐駒として古くから知られていました。聖徳太子の甲斐の黒駒伝説や武田騎馬軍団は有名ですね。日本在来の馬は現代のサラブレットのように大きくはなく、木曽駒やポニー程度の大きさだったようです。甲斐駒ヶ岳は全国に18ある「駒ヶ岳」を冠する山の最高峰であり、ウマオイは博物館周辺のみかけたものです。
1月2日(金曜日)
新年明けましておめでとうございます。甲斐黄金村湯之奥金山博物館スタッフ一同、昨年同様今年も変わらぬご愛顧の程どうぞよろしくお願いいたします。
さて今年は午年ですね。十干では丙(ひのえ)、十二支では午(うま)の組み合わさった丙午(ひのえうま)の年です。陰陽五行では十干の丙は陽の火、十二支の午も陽の火で同じ運気が重なる「比和」となります。同じ気が重なると、その気は増幅してますます盛んになると信じられています。
馬といえば身延町指定の方外院の「千疋馬の大額」があります。総桐材で造られた絵馬は、全長19.42m×2月24日mあります。全国一と評されるその大きさには驚かされます。また町内久那土の十五所神社にも、鶴を描いた大きな絵馬が奉納されています。

