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地域おこし協力隊から始まった、あけぼの大豆の身延新生活 - 身延町移住者インタビュー


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ページID:0006241 更新日:2026年2月17日更新 印刷ページ表示

プロフィール

浅野秀人さん・美沙子さんご夫妻の写真浅野秀人さん・美沙子さんご夫妻
神奈川県横浜市から身延町西嶋地区へ移住
横浜市の私鉄沿線に居を構え、ペット関係の事業を経営していた秀人さんと、福祉施設で調理や介護を担当するスタッフとして働いていた美沙子さん。東日本大震災で都会暮らしの脆弱さを痛感し、地方に移住して農業をやりたいと考えるように。上の2人のお子さんが独立し、秀人さんの仕事も一区切りついたタイミングで、秀人さんのご両親も含め家族5人で移住しました。

移住までのいきさつを教えてください

東日本大震災で、都会暮らしの脆弱さを実感し、
農業への転職を決意

秀人さん)東日本大震災が起きたとき、我が家の次男は生後2か月でした。当時の自宅は横浜市の私鉄沿線にあり、駅から徒歩3分ほどの好立地。周囲にはショッピングセンターも、スーパーも、ドラッグストアも、コンビニもたくさんあって、欲しいものはすぐに手に入る状況でしたが、東日本大震災が起きてからというもの、どこへ行っても棚に商品がない。おむつや、自分たちが食べる食品、ついにはミルクを割る水にさえも困る状況に陥って、なんて危うい便利さの上で生活していたのだろうと怖くなりました。それがきっかけで、食に直接携わる仕事=農業がやりたいと考えるようになり、妻からも合意が得られたので、本格的に移住先を探すようになりました。

唯一無二の特産品、あけぼの大豆に将来性を感じ、
移住先を身延町に決定

秀人さん)東京・有楽町にある「ふるさと回帰支援センター」を訪ねて情報を集め、いろいろな場所を検討しました。いくつかの地域を実際に訪ね、様子を見学したのですが、現地の移住担当者からは、「農協にお伺いを立てて〇〇さんのところで農業研修をして…」とか、「農業大学に行きながら2年ぐらい勉強すれば…」といった話や、「農協で2000万円ぐらい貸してもらえるから、それで農機具を買ってナスとキュウリを栽培すれば年間1000~1500万円ほど売上げがあるので、そこから年に何百万円返していけば数年で返済できるよ」といったプランを紹介されることが多く、自分としては、「そういう農業をやりたいわけじゃないんだよな」という気持ちもあって、ピンときませんでした。

浅野秀人さんがしゃべっている様子

そんなときに出会ったのが、身延町でした。まだあけぼの大豆が世に広まる前のことです。あけぼの大豆の存在を知り「この大豆は伸びしろがあるし、世の中に知らしめるにはすごくいいな。日本一になれるポテンシャルがある大豆だな」と、大いなる将来性と可能性を感じました。さらに、実際に食べてみると、衝撃を受けるぐらいの美味しさでした。初めて枝豆を食べたときは、砂糖で煮たのかと思ったほど。とても甘くて、驚きました。「どうせやるなら、よくある農業ではなくて、オンリーワンの作物に挑戦したい」との思いもあり、唯一無二の特産品であり、大いなる可能性と将来性を秘めた「あけぼの大豆に挑戦しよう」と、心が決まりました。

あけぼの大豆の写真

その後、家族を身延町に連れてきて「こんなところだよ」と見せたところ、「いいんじゃない」ということになって、移住が現実味を帯びてきました。同じころ、「地域おこし協力隊」の募集が身延町であったので応募し、採用に。2019年10月に、まずは僕だけ単身赴任でこちらに来ました。

浅野美沙子さんがしゃべっている様子美沙子さん)当時は次男が小学校3年生で、学年の途中で転校するのはかわいそうだと思いました。同居していた主人の両親も一緒に移住する予定だったので、ある程度環境が整ってから合流した方がいいとも考えました。それで主人に先に移住してもらい、家探しや、いろいろな手続きをしてもらって、春から家族で移住できるよう準備を進めました。

夫婦で「地域おこし協力隊」を拝命し、身延町に赴任

秀人さん)住まいは、空き家バンクで探しました。地域おこし協力隊だからと身延町が住まいを用意してくれることはありませんでしたが、任期中の3年間は家賃補助がいただけます。当時、身延町の空き家バンクには7軒の登録があったのですが、その時の担当の方が、「どうせだから」と全部一緒に回ってくれて、地域ごとの特性なども教えてくれました。

その中で唯一、手を入れなくても住めそうだった西嶋地区の家に決め、さっそく賃貸契約を結びました。キッチンを除いて6部屋あり、家族5人で住むには十分な広さです。家賃は月4万円。横浜では考えられない値段でした。また、家を借りるにあたっては、西嶋イルミネーションという地域ぐるみの取り組みをしているので、それに協力することという条件もありました。具体的には、自分の家や周囲を一定期間イルミネーションで飾るということでしたので、そのくらいならできると快諾しました。その後、横浜の住まいを処分し、2020年3月に家族と合流。身延町での新しい暮らしが始まりました。

西嶋イルミネーション
さて、こうして選んだ地域でしたが、住民のみなさんはすごく人が良くて、人と人との距離感も近いんですよ。僕が一人で来ているとわかると、おかずを持ってきてくださったり、帰ると玄関に野菜が置いてあったり…。年代に関係なく、非常にコミュニケーションがいいところで、今もよくしていただいて気持ちよく暮らしています。

美沙子さん)当初は、インターネットとかテレビでよくある、距離感が近すぎて、よく知らないご近所さんが馴れ馴れしく家に入り込んでくるとか、「何作っているの?」とか言いながらキッチンに入ってくるとか、そんな田舎あるあるみたいなことも心配していたんですが、実際にはそんなことはまったくなくて、すごく良い距離感で迎えてくださって、主人はすぐに馴染んだようです。ただ、私たちが引っ越したのはコロナが蔓延していた時期でしたし、高齢者の方も多いので、誰もかれも家の中で過ごしていたようで、戸外で人の姿を見ることがあまりありませんでした。コロナが終息してからはだんだんと行事なども復活し、今は楽しく交流させてもらっています。

身延町の風景

お仕事について教えてください

まちの施設に勤務しながら、2反の畑であけぼの大豆を栽培

秀人)僕が先に地域おこし協力隊として赴任したのですが、妻も半年遅れで来て、一緒に農業をやるつもりだという話を役場の方にしたら、「奥さんも地域おこし協力隊になったらどうだ」とお話をいただき、4月以降は夫婦で地域おこし協力隊として活動することになりました。僕らのミッションは、身延町にある町直営の「あけぼの大豆拠点施設」で働くこと。農業部門であけぼの大豆を育てているので、僕たちはその手伝いをしながら、個人的に畑を借り、自分たちの畑でも同じことをやっていくという形で大豆づくりを覚えました。「地縁血縁のない場所で畑を借りるのは難しい」という話をよく聞きますが、地元の農業委員さんに、「畑をやりたいんですが…」と相談したら、「こことここが空いているからどうだ?」とすんなり紹介してもらえました。さらに、二年目、三年目になると、町内にはたくさん遊休地があるから、そちらもやってくれないかという話があちこちから来るようになり、苦労せず畑を増やすことができました。最初2反で始めた畑は、今は3倍の6反まで広がっています。

あけぼの大豆を収穫している様子

美沙子さん)主人も私も農業は初めてでしたから、始めたばかりの頃は無我夢中でした。要領も効率も悪くて、拠点施設での仕事を終えた後に枝豆を収穫し、暗くなるなか電気をつけて袋詰めをして出荷することもありました。そんなことを二年ほど続けたのですが、さすがに大変だねということになり、それからはいかに効率よくやるかというところに視点を移して、やり方を少しずつ変えていきました。
また、最初は農機具も借りていて、小さなトラクターで何回も行ったり来たりしながら作業をしていたのですが、ある程度軌道に乗って先が見えてきた時点で、大きなトラクターも買いました。ただ、基本は夫婦2人でやるので限界はあるのですが、それでも、やり方を変えたことでかなりの量を出荷できるようになりました。

収穫寸前のあけぼの大豆の写真

地域の人に誘われ共に起業。地域おこし協力隊を卒業後、夫婦で運営することに。

秀人さん)こちらに来て2年目に、元々地元のJAで所長を務め、その当時は拠点施設の施設長をされていた方から、一緒にやらないかと声をかけていただいて、あけぼの大豆の生産と加工を担う「あけぼの農園株式会社」を設立しました。僕が赴任した頃の拠点施設は町の直営で、僕たち夫婦は地域おこし協力隊のミッションとしてそこに勤めていたんですが、僕が赴任して三年目には、町が拠点施設を指定管理に出すことが決まっていました。そこで、施設長が新たに会社を興し、その事業を継続していこうと。設立当初はその方が社長でしたが、地域おこし協力隊の任期が終わってキリの良いところで引き継いでほしいとの話があり、現在は、僕がその会社を責任者として運営しながら、あけぼの大豆の栽培も続けています。

あけぼの大豆を育てる様子

美沙子さん)私も会社に携わっています。地域おこし協力隊の頃から、商品開発やパッケージデザイン、販促用グッズの企画制作などを担当しており、今も、製造部門の責任者としてそういった仕事を続けています。私たちが指定管理として運営を始めた頃に、それまでの商品ラインナップを見直し、流通が難しい冷凍食品ではなく、観光地向けの常温の商品の開発に力を入れてきました。そうした中で生まれた「あけぼの大豆の味噌」は、年間6トンを生産し出荷する、人気商品となっています。

あけぼの大豆で作った味噌

秀人さん)僕らが来たのが令和元年で、10月に天皇が即位する際の祭事「大嘗祭」がありました。それに際して、山梨県から献上する机代物の一つに「あけぼ大豆」を選んでいただけたことで、一気に知名度が上がりました。さらに、僕が赴任する前から拠点施設と役場の産業課が取り組んでいた、農水省の GI取得についても、僕の赴任中に取得できた。それも大きな転機になりました。
一方、僕自身も、これまでのキャリアで営業のノウハウがあったので、こういうところと取引ができたらおもしろいなと思うところに売り込みをずっとかけていたのですが、GI認証が一つのきっかけになり、三越、伊勢丹、JR東日本といった大手との取引も始まりました。枝豆も、他の商品も出しています。そういったことも相まって、ここ数年、「あけぼの大豆」の認知が一気に広がったと感じています。

あけぼの大豆の加工品の写真

去年は、農水省が主催し、全国約500社から優良な30社を選出する「全国ディスカバー村アワード」で、山梨県で唯一、弊社を選んでいただき、首相官邸へ行って表彰を受けてきました。とても名誉なことで嬉しく思っています。

プライベートについても教えてください

インドア派だった息子は、
地域に見守られながら、小規模な小学校でたくましく育ち、
中学3年生になりました。

美沙子さん)こちらに来る時点で、上の2人の子どもたちは社会人になっていましたから、一番下の子だけ、小4になるタイミングで一緒に来ました。転入した身延清稜小学校は、ひと学年10人程度の小さな小学校だったので、先生たちの目が行き届いていて指導も手厚く、転入生だからといって何かトラブルになる事もありませんでした。今は中学三年生になり、身延中学校に通っています。息子たちが中学生になるタイミングで新設された校舎は、木を多用したぬくもりの感じられる造りになっていて、あんなところで勉強できるなんてと、私たちもうらやましくなるくらい。身延町には中学校が一つしかないのですが、それでも学年で50人程度。1クラス24~25名と少人数なので、先生方の指導も手厚く、わざわざ塾へ行かなくてもしっかりと勉強を教えてもらえます。これは主観ですが、神奈川の教育よりも手厚い感じがしますし、保護者も熱心だと感じています。連れてきて本当に良かったと思っています。

身延中学校の写真

秀人さん)上の子たちはそれぞれやりたいことがあって、今も首都圏で頑張っていますが、枝豆の収穫期には必ず手伝いに来てくれるなど、こちらでの生活を応援してくれています。彼らも、まさか自分の実家が身延になるとは思ってもいなかったでしょうが、田舎ができた感覚のようで、友だちを連れて遊びに来ることもありますね。
ところで、身延町はとても子どもを大切にしてくれるまちだと思います。支援や助成も手厚くて、医療費はもちろん、中学校を卒業するまでは、制服代や修学旅行費まで含めて子どもにかかる費用がほとんどありません。この手厚さは、全国でもトップクラスなんじゃないかな。子育てを支援するというよりも、子どもを大事にしようという意識が、行政の政策からも伝わってきます。

水路の写真美沙子さん)横浜にいた頃は、家の目の前が幹線道路でしたし、公園や学校までの道にもたくさん交通量の多い危険な場所があったし、変質者とかも多かったので、怖くて子どもを一人で遊びに出すことができませんでした。みんな同じような環境だから、結局、誰かの家でゲームをすることになるんです。でも、こちらへ来たら、すぐに友達と外へ遊びに行くようになって、夏休みには、朝から遊びに行ってお昼を食べに帰ってくるんだけれど、午後はまた遊びに行って、暗くなる頃に真っ黒に日焼けして帰ってきて、「たのしかったー」って。どこで何をしているのか本人は言わないけれど、畑をやっていると、ご近所の方が、「さっき水路に入って遊んでいたから、気を付けるように言っておいたよ」なんて教えてくれる。地域の人が自分の孫のような感覚で見ていてくれるので、安心して遊びに出すことができます。子どもも、最初こそ不安もあったようですが、本人も性格もあるのでしょうが、すぐ友達ができて、だんだんこちらの生活にも馴染んでいきました。体を動かすことがあまり得意ではなかったんですが、こちらへ来てからは友達と外で遊ぶことが増えて、活発になりましたね。
今年は高校受験ですが、山梨は全県一区で選択肢が豊富にあるので、本人が行きたい高校を見つけて頑張っています。

不便さもおおらかな気持ちで楽しみながら、
2年かけてDIYした、こだわりの詰まった家で暮らす

秀人さん)移住を決めたときに、それまでの暮らしよりも不便になる事はわかっていたので、不便さも楽しむつもりで来ました。実際、コンビニが近くにないとか、飲みにいく店がないとか、そのあたりは都会の暮らしとは違うのですが、ないから困るかと言えば困らない。逆に、今日やらなくても良いことは明日やればいいやとおおらかに考えられるようになって、イライラすることも減りました。

美沙子さん)移住をした翌年、借りていた家の隣の隣の空き家の所有者から、家を買わないかとお話があり、購入しました。それから2年ほどかけて自分たちでリフォームし、今はそちらの家に住んでいます。
夫婦そろって、かつてはデザイン会社で働きものづくりも好きだったので、穴の開いている壁を見ながらこうしようかとか、汚れている床はこんな風に張り替えようかとか、今度の土日はこの作業をしようとか、その都度ふたりで相談しながら修繕してきました。こんな経験めったにできないですよね。こだわりもいっぱい詰まっているので、愛着はひとしおです。
家を直すときに入れた薪ストーブで料理をしたり、庭で焚き火しながらバーベキューをしたり…。都会ではなかなかできないことが楽しめるのも、ここで暮らす醍醐味だと思っています。

身延町の魅力って?

「あけぼの大豆」と、新参者も受け入れる環境。
信頼し合える仲間との、新たな挑戦が始まっています。

秀人さん)田舎で暮らすからと言って、やることが無くてのんびりできるということはなくて、やることはいっぱいあるし忙しいんです。でも、その忙しさの種類が違うのかな。今は会社の代表もやっているのでスケジュール的には忙しいのですが、どこか忙しさを楽しんでいる感じ。不思議と心に余裕があります。
身延町で暮らすようになってそろそろ6年。周囲から信頼されるようになり、新しい仲間もできました。いろんな話が持ち込まれるようにもなっていて、その一つがクラフトビール。町内の40~50代の経営者が集まり、あけぼの大豆に合うビールを造ろうと盛り上がって、クラフトビールの会社を創設しました。小麦とホップはうちの畑で栽培していて、水はしもべの温泉水。さらに、せっかく身延のビールを造るんだから久遠寺も巻き込んじゃおうということでお願いに行き、久遠寺境内にある日蓮聖人お手植えの杉から、山梨大学の教授にビール酵母を見つけてもらいました。オール身延のクラフトビールを目指していきます。
6年前に移住したときは、農業をがっつりやるつもりで来たので、朝早くから畑を耕し、お昼になると畔でおにぎりを食べて、夕方には家に帰って泥を落とし、今日も一日頑張ったなぁと晩酌するというような暮らしを思い描いていました。ところが、人に恵まれ、運に恵まれ、機会に恵まれた結果、自分が楽しいなとかおもしろいなと思う方向に、不思議と進んでいっている気がします。ただ、軸にあるのはあくまでもあけぼの大豆。日本中の人にあけぼの大豆を知ってもらいたい。山梨県身延町に、日本一の枝豆がある、大豆があるということを、認知してもらいたい。そのために力を尽くしていこうと思っています。

美沙子さん)あけぼの大豆に対しては私も思い入れが強く、愛情もありますから、主人を献身的に支えながら、一緒に頑張っていけたらと思います。

浅野秀人さん・美沙子さんご夫妻の写真2

メッセージ

美沙子さん)定年後のセカンドライフとして移住を考える人がいると思うのですが、やりたいことをやるためには体力も気力も必要なので、移住をするなら早くから動き出した方がいいと思います。それから、もし迷っているならば、挑戦してみてほしいですね。移住には勢いも必要なので、行きたいと思ったら動き出す。始めてしまえばどうにかなるものです。

浅野秀人さん・美沙子さんご夫妻が歩いている写真

秀人さん)僕たちはたまたま最初に入った地域がとても良い地域で相性も良かったのですが、どうしてもうまくいかないということもあると思うんですよ。場所によっては、いまだに排他的で、余所者を受け入れることに抵抗がある地域もあるでしょうし、相性もありますから。ただ、ある程度の覚悟と、「楽しむ」という気持ちは大事かなと思うんです。僕はこちらに来てから毎日、富士川沿いを車で走って通勤していたのですが、今日は霧が出てるとか、今日は朝日を浴びてキラキラしてるとか、そんな日々の景色さえも楽しみだった。そこに都会にいたら気づけない幸せを感じていました。でもそういうことって、来てみないとわからないことでもあると思うので、まずは勇気をもって飛び込んでみる。チャレンジしてみるということが大事なのかなと思います。